有事の総理大臣(3)

歴史観・国家観

 前作、「有事の総理大臣」(②外交・安全保障)で、モンスター国家中国(以下、「外なる怪物」と呼ぶ)の出現に日米が協力してしまったことと、日本が戦後放置してきた「戦後レジーム」という「内なる怪物」について書いた。

日本が直面するジレンマ

 戦後76年の歳月が流れたが、日本は現在一つのジレンマに直面して立ち往生しているように見える。それは「内なる怪物」を放置したままでは「外なる怪物」に対処することができず、「外なる怪物」に対処する有事モードの中でしか「内なる怪物」を退治できないというジレンマである。日本が直面している戦後最大の危機を克服するためには、二つの怪物に同時に立ち向かう意思を固める他ない。

 「内なる怪物」は二つの要素からなっている。一つは、戦後政治の枠組みが日本国憲法、日米安全保障条約、日米地位協定を礎石として作られていることにある。ズバリ言えば、日本の安全保障体制が軍事的に米国に従属しているために、日本は自立した国家として、自己完結で政治を行うことが制約されているのである。既に戦後四半世紀が経過した。いい加減で敗戦の軛を取り除かなければならない。

 もう一つは、戦後レジームという制約があるために、その制約の中でできる範囲のことをやればいいとしてきた政治のマインドである。戦後の日本は、「憲法だろうが何だろうが、国益追求のために変える必要があるものは変えなければならない。たとえそれが困難だとしても、変える方法を発見・発明して打開すればいい。」という発想に立った政治を行ってこなかったのだ。

 「できる範囲のことをやる」から、「やるべきことをやる」へ、思考の転換が必要である。国益追求のために、困難を可能とする方法を見つけ出し、実行することこそが政治家の本領ではないだろうか。

歴史の総括

 政治を結果によって評価するならば、ロシアとの北方領土問題も、北朝鮮による拉致問題も、中韓との歴史問題も、そして憲法改正も殆ど進展がなかった。どの一つも容易に解決できない課題であり、解決するためには相応の「国家意思」が必要である。戦後の枠組みの中で、政治ができる範囲のことしかやってこなかったために進展がなかったと言えるだろう。さらに「殆ど進展がなかった」という総括がなされていないことの方がもっと重要だ。国民もその事態(率直に言えば、ふがいない政府)を容認していることになるからだ。

 歴史を振り返れば、明治維新の10年前の1858年に、幕府は米国と「日米修好通商条約」を結び、続いて蘭・露・英・仏と同等の条約を締結した。「安政の五ヵ国条約」と呼ばれるものだ。ここには、領事裁判権と関税自主権に関わる、いわゆる不平等条項が含まれていた。そして明治政府が領事裁判権を回復したのは1896年であり、関税自主権を回復したのは1911年のことだった。不平等条約を撤廃するまでに36年~53年の歳月を要している。

 明治政府は明確な戦略目標と国家意思をもって富国強兵を強力に推進した。その結果、欧米列強と肩を並べるまでの近代化を成し遂げた。そしてロシアという共通の脅威に立ち向かうために日英両国は1902年に日英同盟を締結している。国力を高め国際社会における地位を高めた結果として、明治政府はようやく不平等条項を撤廃できたのだった。

 これは「歴史的な課題を解決するためには、長期的な戦略目的と国家意思が不可欠である」ことを物語る歴史の教訓ではないだろうか。

 日本国憲法は1946年に、日米安全保障条約と日米地位協定は1951年に締結されている。それから既に70年の歳月が流れた。そして今、中国という共通の脅威に立ち向かうために、日米は同盟関係を一段と強化しようとしており、日本の主体的・自律的な役割が格段に高まっている。もし明治維新以降の歴史観に立って考えれば、「二つの怪物に関わるジレンマ」を解決する好機は今をおいて他にないことになる。

 藤原正彦は「日本人は、問題が起きた時に事の本質を徹底的に問い質そうとしない。」と述べている。(https:kobosikosaho.com/daily/485/)

 少なくとも戦後の日本は歴史を総括せず、政治を評価してこなかった。総括をしないから「仕方がない」という諦めが国民の間に蔓延してしまう。総括をしなければ教訓を次の戦略に生かすことはできないのだ。

 というよりも、はじめに戦略目的がないから総括も評価もしようがなかったというのが真相なのだろう。では政治に戦略目的がないのは何故だろうか。それは国家観が明確ではないからだ。

歴史観と国家観

 日本の戦後史は太平洋戦争の敗戦から始まっている。戦後の日本は戦争の総括に目を背けて、歴史観をウヤムヤとし、国家観を明確に描かないままに政治を行ってきたのではなかったか。国家観がないために戦略目標を描くことができず、総括も評価もしないために、「本質を追究せず、できる範囲のことをやればいい」というマインドが戦後政治の根っこにはびこってしまったのではなかったか。

 歴史の一シーンだけをカットして論じても、歴史の全体像を総括することにはならない。戦後の日本は中韓が仕掛けてメディアが煽った「歴史戦」ともいうべきプロパガンダに翻弄されて、太平洋戦争を総括することを放棄してきた。これは「木に囚われて森を見ず」というべき愚に他ならない。

 二つの怪物に関わるジレンマに立ち向かうためには、産業革命以降の人類の近代史と縄文時代以来の日本文明を俯瞰して、毅然とした歴史観と国家観を描かなければならない。

 現在自民党総裁選の真っ只中にあるが、総理大臣を目指す政治家には、各論の政策の前に明治維新以降の日本の近代史を大きな視座から捉えた歴史観と、国際社会における日本の立ち位置と役割を明確にした国家観を国民に語ってもらいたいものだ。

 国際社会の秩序は中国やテロ集団等、既存のルールに従おうとしない脅威の登場に常に脅かされている。一方、テクノロジーは休みなく進化し、社会システムは容赦ないイノベーションの圧力にさらされている。

 その中で国家システムだけが過去に作られた枠組みを変えることができずに進化から取り残されている。残念ながら、これが戦後の日本の現状である。これは法治国家故の宿命だろうか、それとも「内なる怪物」を退治できていない日本に特異なものだろうか。

 国際社会も、国家も、社会も、TPDSサイクルを回しながら進化してゆくのが健全な姿であろう。国家としてTarget=戦略目的、Plan=達成目標・実施計画、Do=政策の実行、See=総括・評価のサイクルを回しながら、国家の強い意思として国家システムのイノベーションを促進してゆかなければならない。

次期総理大臣への期待

 現在、国際社会における安全保障上最大の課題は、何と言っても「対中国」である。日本の地政学的な位置、戦後の日米の関与、日米中の国力等を総合して考えれば、この危機対処における日本の存在感と果たすべき役割は極めて大きいと言わざるを得ない。総裁選の候補者にその自覚があるだろうか。日本の行動が米中競争の帰趨を決定し、国際社会の未来を左右すると言っても過言ではないのである。

 日本は現在、戦後最大の危機に直面している。しかしながら、視点を変えて戦後史を俯瞰してみれば、戦後放置してきた歴史観、国家観を取り戻す千載一遇の好機でもある。

 安倍前総理は、外交において世界の指導者に日本を再確認させるという大役を果たした。FOIP(自由で開かれたインド太平洋)構想を提唱し、外なる怪物に立ち向かうための国際的な連携としてQUAD(日米豪印戦略対話)の枠組みも作った。次の総理大臣には戦争を総括した上で、日本の歴史観と国家観を国際社会に対し堂々と語っていただくと同時に、危機に対し毅然と立ち向かう行動を期待したい。

戦後の総理大臣(2)

外交・安全保障

 国民の安全と領土・領海・領空を守り、国を豊かにすることは総理大臣に託された使命である。では、有事の総理大臣に求められる資質・能力とは何だろうか。第2回は外交・安全保障から考える。

 米国中央情報局(CIA)の分析官だったレイ・クラインは1975年に「国力の方程式」を提唱した。この方程式はあくまでも概念的なものだが、直截簡明で分かり易い。

 国力=(人口・領土+経済力+軍事力)×(戦略目的+国家意思)

 ここで、人口と領土は最も基盤となる国力の要件だが制御可能ではないので除外する。この方程式は、国力を強化するために政策としてめざすべきは、経済力を高め軍事力を強化すると同時に、戦略目的を明確にして、それを遂行する強い国家意思を持つことだということを示している。

 外交とは、国家意思をもって戦略目的を達成するために、国際社会で行う交渉と調整であるだろう。そして安全保障とは、狭義には軍事力をもとに国民の生命と暮らし、領土・領海・領空を保全する取り組みであり、広義には経済力をもとにエネルギー、食料、資源など、国民生活や国の活動のために必要な諸要件を確保する取り組みである。

 そう理解した上で、改めて国力の方程式を眺めてみたい。ここで注目すべきは、×(戦略目的+国家意思)の部分である。

平和ムードから有事モードへ

 9月5日に東京パラリンピックが成功裏に終了した。世界がコロナパンデミックの渦中にあるときに、平和の祭典である東京五輪の一連の行事を日本が開催し無事に完遂したことは、特に国際情勢の視点からみれば、素直に評価すべきだと思う。

 五輪の閉幕に合わせるかのように、8月30日に米軍がアフガニスタンからの撤収を完了した。20年間の駐留にピリオドを打った。それに先立つ8月15日にはタリバンが首都カブールを制圧している。

 9月4には、英国の最新鋭空母クイーン・エリザベスが横須賀に来港した。クイーン・エリザベスは8月24日に沖縄南方海域で、米海軍、海上自衛隊、オランダ海軍と合同の演習を行っている。これは米国が主導する「大規模国際演習21(Large Scale Global Exercise 21)」の一環として行われた。(https://www.epochtimes.jp/p/2021/08/77962.html

 8月24日~26日には、中国空軍の無人偵察機BZK-005、無人攻撃機TB-001各1機が、情報収集機や対潜哨戒機とともに、宮古海峡を越えて西太平洋を飛行した。明らかに英空母を中心とする合同演習に対するけん制と考えられる。(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/66796

 来年の北京五輪開催の是非、参加の是非を巡って、これから米欧・民主主義国対中国の対立が激化し、国際情勢は緊迫の度を強めてゆくことが予測される。平和の祭典が終わり、世界は平和ムードから有事モードへ情勢が変化してゆくだろう。

日米が育ててしまった、モンスター国家中国

 戦後を回顧すれば、モンスター国家中国は、当時GDP世界1位と2位だった米国と日本が中国に協力して作り上げたフランケンシュタインということになる。

 1969年1月に就任したニクソン大統領以降、米国の歴代政権は、当時の価値判断で中国に優先する課題(米ソ冷戦、9.11後の対テロ戦争、ITバブル崩壊、リーマンショック等)に対処するために、中国を支援し、優遇し、黙認してきた。

 それから約半世紀が過ぎて、2017年1月にトランプ大統領が就任して、過去の歴代政権の誤りを認めて対中政策を大転換した。政策の転換についてトランプ政権がどう考えたのかは、2020年7月23日にポンペオ長官が行った演説の中に如実にかつ丁寧に説明されている。

 ポンペオ長官はこう述べている。「21世紀を自由な世紀とするため、そして習近平が夢見る中国の世紀にしたくないなら、中国にやみくもに関与していくこれまでの方法を続けてはならないし、後戻りしてもいけない。トランプ大統領が明確にしたように、アメリカの経済、何よりも人々の生活を守る戦略が必要だ。自由世界は、中国の独裁体制に勝利しなければならない。」と。

 続けて、「今行動しなければ中国共産党はいずれ、自由を蝕み、民主主義社会が苦労して築き上げてきた秩序を破壊する。今、膝を屈すれば、私たちの子孫は中国共産党のなすがままになるだろう。」と述べている。まさしく中国に対する宣戦布告と評された、歴史に残る名演説だった。

 そして戦後76年が経ち、米中衝突の蓋然性が高まっている。8月末のアフガンからの米軍撤退は、そのための布石の一つと考えられる。

 一方、日本は1971年のニクソンショックに直面して拙速に中国に接近し、米国よりも早く中国と国交を回復させて、有形無形の莫大な支援を開始している。ジャーナリストの古森義久は2020年12月26日付のJapan In-depthに、「日本の対中政策の無残な失敗」と題した記事を書いており、その中で「日本の対中ODA供与こそ戦後最大の日本外交の失態だった」と述べている。(https://japan-indepth.jp/?p=55825

 さらに、「日本は中国に対して1979年から2018年までの約40年間、総額3兆6千億円にのぼる巨額のODAを提供したにも拘らず、自らに襲いかかる凶暴なモンスターの育成に寄与してしまった」と結論付けている。その理由として以下の三点を挙げている。

第一に、ODAは中国の対日友好には何の役にも立たなかった。中国政府が自国の国民に日本からの経済援助受け入れの事実を一切知らせなかったからだ。

第二に、ODAは中国の民主化を促進しなかった。実際の効果はむしろ逆だった。

第三に、ODAは中国の軍拡に寄与してしまった。国家開発に必要な資金を毎年、巨額に与えることにより、軍事費に回せる資金に余裕を与えてしまった。しかも日本のODAで建設する空港、鉄道、高速道路、通信網などは軍事的な効用も高かった。

日本が退治できていない「内なる怪物」

 お茶の水女子大名誉教授の藤原正彦は、8月15日付の産経新聞に、「ワクチンを恵まれる屈辱」という記事を書いている。その中で、「本質を追究しないのは日本人の特徴である。問題が起きた時に事の本質を徹底的に問い質そうとしない。和を乱すことになるからである。・・・どうしてこんな国になってしまったか。戦後まもなく占領軍はWGIP(罪意識扶植計画:藤原訳、War Guilty Information Program)に基づき、日本の歴史や文化、伝統を否定し、先の戦争でいかに日本人が悪かったかを喧伝し、日本は恥ずべき国という意識を植え付けた。この洗脳がなぜか今も生き続け、日本人は誇りを失っている。」と指摘している。

 杏林大学名誉教授の田久保忠衛は、8月11日付の産経新聞のコラム「戦後76年に思う」の中で、「防衛白書は中国の脅威を≪懸念≫という表現でごまかし、国会は新疆ウィグル自治区における中国の行動を非難する決議も出せない。」と指摘している。続けて、麗澤大学准教授で日本研究者であるジェイソン・モーガンによる次の指摘を紹介している。「戦後の日本は北方領土、靖国神社、拉致問題など何一つ解決できない、国家の機能不全とも言うべき状況に陥った。」と。

 日本のこうした現状を作り出した原因は、戦後1946年11月3日に公布された日本国憲法、1951年9月4日に締結したサンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約、さらに加えるならば日米地位協定にある。憲法と二つの条約、一つの協定によって、日本が軍事的に米国に従属する体制が作られたからだ。このことが現在「戦後レジーム」という言葉に集約される、日本が内に作り上げてしまった怪物の正体である。

戦後76年、日本の大転換点

 日本は「戦後レジーム」と呼ばれる内なる怪物を退治できないまま戦後76年を生きてきた。ジェイソン・モーガンが指摘する「国家の機能不全」も、藤原正彦が指摘する「日本人としての誇りの喪失」も、怪物を放置してきた結果と認識すべきだろう。

 その間に、中国は日本の安全、領土・領海・領空を脅かす危険性の高い脅威となった。もはや米国に従属し中国に忖度するという従来の姿勢では、この脅威に対処することはできない。日本は地理的にも歴史的にも、米中対立の最前線に位置している。日本の立ち位置と行動が、国際情勢の未来を作るのだという自覚を持って、この戦後最大の危機に挑む他ない。

 重要なことが一つある。それは内なる怪物を放置したままでは、外の脅威に対処することができないということだ。同時に、戦後最大の脅威に対処するという有事モードの中でしか、内なる怪物も退治できない。この意味で、日本は戦後76年における歴史的な転換点に立っているのである。

 国力の方程式における「戦略目的+国家意思」に戻ろう。間もなく、独立国家日本としての戦略目標と国家意思が試される局面がやってくる。戦後初めて日米安全保障条約が発動される可能性が高まっている。この危機を乗り越えなければ日本の未来はないと覚悟すべきだ。

 アメリカはポンペオ長官の演説によって、過去の対中政策の誤りを総括した上で、これからの米国の戦略目的と国家意思を世界に向けて明確に宣言した。ポンペオ長官の演説は、今ではアメリカ議会の超党派による共有の認識となっている。もはや米中衝突はいつどういう形で起こるかが予測できないだけで、避けて通れない潮流となったと理解すべきだろう。

 では戦略目的とは何だろうか。それは疑う余地もなく、日本の国益を守り、国際秩序を守ることであって、断じて中国と仲良くすることではない。仲良くすることは結果としてそうなることが望ましいという話であって、戦略思考においては目的でもなければ考慮条件でもない。

 では国家意思とは何だろうか。それは日本人の誇りを取り戻し、真の独立国家としての力と気概を取り戻して、歴代の総理大臣が成し遂げられなかった「戦後レジーム」という内なる怪物を退治して、戦略目標を達成する決意に他ならない。

 よく意思表明の常套句として、「できることは何でもやる」というが、この覚悟では危機を乗り越えることはできない。何故なら、「できること」の裏には「できない言い訳」が用意されているのが常だからだ。有事の指揮官には「やるべきことを全部やる」という、退路を断った覚悟が求められる。必要ならアメリカ議会を動かし、イギリス他の民主主義国家と同盟を結び、憲法の解釈問題を棚上げしてでも意思を貫く覚悟が必要だ。

 ここで思い出される二つの演説がある。一つは安倍総理が2015年4月29日に米国連邦議会上下両院合同会議において「希望の同盟へ」と題して行った演説であり、もう一つはポンペオ長官の演説である。戦後史を転換するためには、ポンペオ長官の演説に匹敵する日本国としての「戦略目的と国家意思」を世界に向けて発信する必要がある。次の総理大臣にはできるだけ早い時期にワシントンを訪問し、米両院の議会で安倍総理の演説に続く、第二段の演説を堂々と行い、アメリカの議会と世論を一気に味方につけるくらいのことを平然と行う雄弁さと胆力が求められる。

有事の総理大臣(1)

経済

 8月30日に、20年間に及ぶ駐留を完了して米軍がアフガニスタンから撤退した。これにはさまざまな評価があるが、その狙いが「対中シフト強化」にあることは自明である。平和の祭典である東京オリンピックも終わり、米中関係はこれから「波高し」の状態となることは間違いない。

 その情勢の中、自民党総裁選が動き出した。議院内閣制であるから自民党国会議員と党員の投票によって次期自民党総裁が決まり、次期総理大臣が決まる。しかしながら、今回の総裁選が過去のものと決定的に異なる点が一つある。それは次の総理大臣の在任中に米中衝突という有事が起こる可能性があるということだ。

 次の総理大臣には有事の指揮官に必要な資質と能力が求められる。自民党内の派閥力学からではなく、有事の指揮官に相応しい人物を選定してもらいたいものである。

 戦後76年間を回顧してみれば、日本の平和と安全を脅かす有事というべき事件が少なくとも三度起きた。第一は1950年に起きた朝鮮戦争であり、第二は2011年3月の東日本大震災であり、そして第三は現在も進行中のパンデミックである。

 戦後激動期の総理大臣は吉田茂だった。この時期に、現在まで続く東アジアの安全保障の基本的な構造が形成されている。第一に、米軍政下で大韓民国が1948年8月に成立し、ソ連の監督下で朝鮮民主主義人民共和国が同年9月に独立を宣言した。第二に、1949年10月には中華人民共和国が建国された。第三に、1950年6月に朝鮮戦争が勃発して1953年に停戦となった。そして第四に、1951年9月にサンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約が締結された。

 ちなみに、東日本大震災と福島原発事故が起きた時の総理大臣は民主党の菅直人だった。そしてコロナパンデミックが起きた時の総理大臣は安倍晋三だった。

 国民の安全と領土・領海・領空を守り、豊かな国を作ることは総理大臣に託された使命である。では、有事の総理大臣に求められる資質・能力とは何だろうか。経済政策、安全保障と戦略、歴史観と国家観の三つの切り口から三回に分けて書いてみたい。第1回は経済政策である。

 日本は長期デフレから未だに脱出できないでいる。その原因はズバリ歴代政権が経済政策を誤ったことにある。

 今年8月15日はニクソンショックから50年の節目に当たる。はじめに、この半世紀の間に日米中三ヵ国の豊かさはどう変化したかを評価してみたい。三ヵ国のGDP推移を眺めてみると、日本のGDPは1994年までは米国と同様に成長軌道を辿ったものの、1995年にピークを打ってからは一転して低迷し現在に至っている。GDPを指標として評価すれば、1995年から日本の長いデフレが始まったことが分かる。

 では1995年から2020年までの25年間にGDPはどれほど成長したのだろうか。三ヵ国を比較すると驚愕の事実が浮かび上がる。まず米国は7.6兆ドルから20.7兆ドルに2.7倍に増大し、中国は0.7兆ドルから14.7兆ドルに実に21倍に増大した。これに対して、日本は5.4兆ドルから4.9兆ドルになり、何と10%減少しているのである。専門家の分析を待つまでもなく、この事実は日本の経済政策が根本的に間違っていたことを証明している。

 8月31日に令和4年度予算に関する概算要求値が発表された。それによると、要求額の総額は過去最大の111兆円台となり、国債の償還や利払いに充てる国債費もまた過去最大の30兆円となるという。

 一方、今年度末の国債残高は約990兆円となる見込みで、昨年度のGDPは実質値で528.7兆円であるから、国債残高はGDPの1.87倍(990/528.7)に達する。

 ただし注目すべきはそこではない。重要なことは1995年から2020年に至る間に、米国のGDPは2.7倍に拡大し、日本は90%に縮小した事実は何を物語るのかである。日本も相応の経済成長をしていたと仮定し、この四半世紀に日本が得たであろう「国富の増加」を試算してみよう。

 大づかみに把握するために、毎年同額ずつGDPが増加する単純モデルを想定する。基準となる1995年のGDPをA兆ドル(A=5.4)とし、2020年のGDPが1995年の(1+α)倍に拡大した場合を考える。この場合2020年のGDPはA(1+α)兆ドルとなり、1995年に対する増加分はAα兆ドルとなる。

 年々の増加分はAα/25兆ドルであるから、25年間のGDP増加分の総和は、(1+2+3+・・・+25)Aα/25=325/25Aα=13Aα=70.2α兆ドルとして計算できる。

 ケーススタディとして、α=0.1(10%増)、0.2(20%増)、0.5(50%増)、1.0(2倍)を想定すると、25年間に得られたであろう国富の増加分(現実は失った国富)は、それぞれ7兆ドル、14兆ドル、35兆ドル、70兆ドルとなる。単位が兆円ではなく兆ドルであることに注意してほしい。1ドル=110円で換算すれば、もし25年間でGDPが2倍に増大していたならば、国富は7,700兆円も増えていたことになるのだ。

 現実は米国が2.7倍に拡大し、日本は90%に縮小したのであるから、米国との相対関係でみれば、1995年から2020年に至る間に、日本は米国の1/3に貧しくなったことを意味している。これは一体誰の責任だろうか。この間に、村山富市、橋本龍太郎、小渕恵三、森喜朗、小泉純一郎、安倍晋三、福田康夫、麻生太郎、鳩山由紀夫、菅直人、野田佳彦、安倍晋三、菅義偉と、自民党が9人、民主党他が4人の総理大臣を排出してきた。

 これほどに大きな国富の損失が起きたのは長期デフレ故なのだが、デフレは経済の現象、政策の結果であって、原因はデフレ期に各総理大臣がとった経済政策にある。結論を先に言えば、二つの致命的なミスがあったのだ。

 第一は三度実施された消費税増税である。第1回は橋本政権の時で1997年4月に3%から5%に引き上げられた。第2回及び第3回は何れも安倍政権の時で、2014年4月に8%に、2019年10月には10%に引き上げられた。何れもがデフレ状態で消費税を引き上げたためにデフレは深刻化し長期化した。安倍総理はアベノミクスを唱え「三本の矢」政策を打ち出したのだが、デフレを克服できなかった。

 第二の致命的な政策ミスは、プライマリー・バランスの実現を金科玉条の達成目標としたことである。プライマリー・バランス(基礎的財政収支)とは、一般歳出を国債発行で賄わない状態をいい、この達成を「骨太の方針」に盛り込んだために、それが毎年の予算編成の大きな足枷となり、歴代政権は将来への投資を削減する一方で消費税を増税するという悪手を打ったのだった。

 このことがいかに愚かな政策だったかは簡単に理解できる。既に述べたように、日本のGDPは1995年以降横ばい(成長なし)で、2020年には1995年度比90%の水準に縮小しているのだ。もし日本が経済政策を誤らずに、「25年間で10%増」のGDP成長を達成したとすれば、国富は25年間で770兆円(7兆ドル)増加していたのであり、1.5倍なら(これでも米国の2.7倍に比べればかなり見劣りがするが)3,850兆円(35兆ドル)増加していたのである。

 ちなみに、25年間で1.5倍の経済成長は年率換算で1.635%に相当する。もし政府がインフレ目標とした、年率2.0%の経済成長を達成していたなら、25年間でGDPは1.64倍に増大していたことになる。

 もしGDPが25年間で1.5倍になっていれば、それだけで財政赤字はGDP比で2/3に減少し、さらにGDP増大に見合う税収増も得られたことから、財政赤字はさらに減少した筈なのだ。

 財政赤字の改善は、GDP成長による相対的な減額しか方法がない。この経済の基本原則を理解しなかったと思われる歴代総理大臣の責任は途方もなく重いと言わざるを得ない。もし同じような事態が株式会社で起これば、会社が潰れるか、それを免れたとしても、たちまち株主代表訴訟を起こされて経営陣は総退陣を余儀なくされるだろう。

 プライマリー・バランスに対する経済政策の失敗は、それだけでは終わらない。もう一つ重要なことがある。それは将来のキーテクノロジーに対する戦略的な投資である。

 現在パンデミックが大きな社会問題となっているが、国産ワクチンは未だに流通しておらず、「ワクチン敗戦」と呼ばれる情けない状況にある。その原因は、厚生労働省が国内のワクチン開発に対する投資を打ち切ったからだ。

 6月27日の産経新聞は、「国産ワクチン?何言ってるんですか。ワクチンはワクチン。全く興味はない。」、塩野義製薬社長が厚生労働省の担当者がこう言い放つのを聞き衝撃を受けたという記事を掲載している。また2015年にMERSのアウトブレイクが起きた時、政府は2016年に3600万円、2018年には6000万円の補助金を出したものの、ヒトへの臨床試験に入るため4億円の予算を求めると、「MERSも収束した。薬を作ってどうするんですか。」と国の担当者は東大医科学研究所からの増額の要請を退けたという。

 9月1日にデジタル庁が発足した。その背景には、次世代携帯の通信規格である5Gや6G開発、次世代半導体等の分野で日本勢が中国に大きく後れをとった現実がある。なぜそういう事態に陥ったのか。その原因を政策に求めれば、将来のキーテクノロジー開発に経済産業省が中途半端な資金しか投入してこなかったからである。

 ワクチン敗戦とデジタル惨敗は、プライマリー・バランス達成を優先させ、経済成長を犠牲にした政策の結果なのだ。

 キーテノクロジー開発やイノベーション促進は、将来のGDP増大のために必須の戦略テーマである。「総合科学技術・イノベーション会議」というものがあり、年間4兆円の予算を重点分野に配分する役割を担っている。総理大臣が議長となり、官房長官、科学技術政策担当大臣、4閣僚(総務、財務、文科、経産)、7名の有識者と日本学術会議会長で構成されている。おかしなことに、ここに防衛、厚労、その他の省の大臣は含まれていない。将来のGDP増を担う予算配分を決定する重要な会議であるにも拘わらず、安全保障に関わる先端技術開発はもとよりワクチン開発も対象から除外されているのである。

 議院内閣制の日本では、総理大臣の選出に国民が参加することはできないが、総理大臣の業績を国民目線でしっかりと評価し、選挙に加え、あらゆる手段を使って意思表明してゆく必要がある。「平時から有事へ」国際情勢が変化しつつある現在、国益と国富を守るという重大な使命を政治家任せにしてはならないということだ。

国益より選挙、戦略ではなく政局

 6月11日~13日に英国コーンウォールでG7首脳会議が開催された。14日に発表された首脳宣言の和訳を外務省が公開している。中国に対する非難決議の部分を引用する。

 49.我々は中国に対し、特に新疆との関係における人権及び基本的自由の尊重、また、英中共同声明及び香港基本法に 明記された香港における人権、自由及び高度の自治の尊重を求めること等により、我々の価値を促進する。

 60.我々は、台湾海峡の平和及び安定の重要性を強調し、両岸問題の平和的な解決を促す。我々は、東シナ海及び南シナ海の状況を引き続き深刻に懸念しており、現状を変更し、緊張を高めるいかなる一方的な試みにも強く反対する。

 ほぼ同時期の6月16日に通常国会が閉会した。焦点の一つだった中国によるウィグル人等に対する人権侵害を非難する決議の採択は見送られた。G7から凱旋した菅首相としては面目丸潰れとなったのではないか。いやその見立ては正しくないのだろう。菅首相は自民党総裁なのであるから、G7出席にあたり、中国に対する非難決議を何としてでも取りまとめるよう与党幹部に指示すべきだったのだ。

 この事態に対して産経新聞は連日報道している。激変する世界における日本の未来を考える上で重要なことなので、以下に紹介しておきたい。

(1)6月15日には、G7首脳宣言を受けて「菅首相の今後の行動が問われている。中国を抑止するメッセージの発信を続けて欲しい。中国政府によるウィグル人弾圧では、G7で日本だけが制裁に加わっていない。言行不一致と言われても仕方がなく、人権問題でも先頭に立つべきだ。」と指摘している。

(2)6月17日には、「中国政府による深刻な人権侵害を非難する国会決議案の採択が、自民、公明両党の執行部の判断で見送られた。日本維新の会、国民民主党、立憲民主党、自民の外交部会などが了承手続きを終えたが、公明党の同意が得られず採択見送りとなった。」と書き、さらに「決議見送りは価値観を重視する菅政権の外交に水をさし、弾圧者である中国共産党政権を勢いづける決定的に誤った判断である。自民党総裁である菅首相には自公執行部に説いて媚中にみえる姿勢を改めさせる責任がある。」と書いている。

(3)6月23日には、「二階氏サイン側近が制止」という標題で、決議が見送られた舞台裏事情を報じている。それによると、14日午後に下村政調会長が自民党としての正式な了承を得るべく二階幹事長を訪ねた。決議案の内容の説明を受けて、二階幹事長は納得した様子で署名しかけた時に、同席した側近が待ったをかけた。「自民党が決議案を了承すれば、党内手続きが進んでいない公明の孤立が浮き彫りになり、都議選に向けて自公連携に影響を与える」と二階幹事長を制止したのだという。

 中国に対する非難決議見送りにみられる「政治の機能不全」について整理しておきたい。

(1)日本が相変わらず「NATO(No Action Talk Only)外交の国」であることを内外に示した。

(2)決議を葬ったのは野党ではなく与党だった。しかも与党の幹部だった。

(3)国益よりも選挙を優先した判断だった。そこにあるのは政局優先で戦略を考えない与党幹部の姿である。

(4)そもそも中国に対する非難決議であるにも拘らず、幻となった決議案には「新疆ウィグル、チベット」が明記されている一方で、「中国」の文字は皆無であったという。それが事実とすれば腰砕けという他ない。

(5)自公連立が国益を掲げる政策を打ち出す上で障害となっていることが明らかとなった。連立を維持するために国益を損ない、国際社会における信頼を落としているとしたら目的と手段を取り違えているだけでなく、国民に対する背信行為でさえある。そのような連立はさっさと解消し、自民党も公明党も解体した上で、真に国の未来を憂う志をもった政治家で真の保守政党を作ってもらいたいものだ。

 ここで日本と対称的な行動をとったEUの行動を紹介しておきたい。

 EUは3月22日に新疆ウィグル自治区の人権侵害に関し中国に対して制裁を発動した。EUによる対中制裁は1989年の天安門事件を受けて発動した武器輸出禁止以来である。ウィグル自治区の4人の幹部に対して、EUへの渡航禁止や資源凍結を科した。ちなみに米国は昨年に同様の制裁を発動している。

 これを受けて中国は即日の内に、「粗暴な内政干渉だ」と反発して、対抗措置としてEU当局者ら10人と4団体に政策を科すと発表した。

 中国が報復措置をとったことに反発したEUは、EUと中国が大筋で合意した投資協定の批准に向けた審議を停止する決議を5月20日に賛成多数で可決した。EUと中国は7年越しの協議を経て昨年12月に包括的投資協定を締結することで大筋合意していたのだが、中国の報復措置によって批准の目途が立たなくなった。

 これぞ外交というものではないだろうか。外交とは国益を賭けた真剣勝負のゲームである筈だ。日本はいつまでNATO外交を続けるつもりだろうか。

 6月24日には香港の蘋果日報が香港当局に資産を凍結されたため休刊に追い込まれるという事件が起きている。今後欧米は、来年の冬季北京オリンピックのボイコットを含めて、中国に対する攻勢を一段と強めてゆくことが予測される。G7メンバーであり、東京オリンピック主催国であり、しかも中国と隣接する日本の言動が世界から注目される展開となるだろう。

 中国に対するおもねりは政治家だけではない。NATOは政治だけの問題ではなく、大手メディアも同じだ。政治家が国益に反する行動をとった場合には、政治にも中国にもおもねることなく、国益視点から国民の声を代弁する報道と論説、提言を発してもらいたいものだ。

武器を使わない戦争

World/358で、「現在は、地政学上の理由から、日本にとって戦後最大の危機である」と述べた。近年アメリカが衰退しつつあるのと同時に、中国による覇権追求の動きがむき出しとなり、台湾有事の蓋然性が高まっているからである。

Daily/371で、「日本は憲法の制約を理由として世界の安全保障に積極的に関与せず、「ダチョウの平和」国家に甘んじてNATO(No Action Talk Only)と揶揄される外交を展開してきた。戦後最大の危機に直面している現在、NATO外交を打破しなければ日本の発展はない」ことを述べた。

戦後75年が過ぎてコロナ渦にある現在、戦争の形態が大きく様変わりしつつある。最近になって武器を使わない戦争の時代が始まったことを連想させる事件が相次いでいる。

5月7日にロシアのハッカー集団「ダークサイド」がアメリカ最大級の石油供給網を運営するコロニアルパイプラインに対しサイバー攻撃を行った。ランサムウェア(Ransomware、ランサムは身代金の意味)による攻撃で、パイプラインは身代金500万ドルを支払ったという。

5月14日には東芝テックの欧州子会社がダークサイドからランサムウェアによるサイバー攻撃を受ける事件が発覚した。セキュリティ企業のクラウドストライクの調査レポートによれば、直近1年で日本企業の52%がランサムウェア攻撃を経験し、32%が平均で約1.2億円の身代金を支払ったという。

バイデン大統領は、5月13日に「ハッカーの活動を妨害する措置を進める」との声明を出した。そしてダークサイドは、5月14日に「正体不明の司法当局によって情報インフラが遮断され、活動を停止した。」ことを明らかにした。

一方、北朝鮮がサイバー攻撃で稼いだ利益は1年間で昨年の中国との貿易総額の約2倍の10億ドルに上るという。北朝鮮と思われるサイバー攻撃は2014年頃から顕著になり、2017年にはランサムウェアの一種であるワナクライ(WannaCry、泣きたくなるという意味)を約150か国にばら撒いて金銭を要求した。(産経5月11日記事)

これらの事件がまず物語ることは、金銭を奪うサイバー攻撃が日常化しビジネス化している事実である。さらに重要なことは、ひとたび攻撃対象が国家の重要インフラとなれば、それは戦争行為であり宣戦布告となるということだ。ダークサイドによるパイプライン攻撃は、企業とはいえ社会インフラに対する攻撃であって、サイバー攻撃が犯罪から戦争領域に一歩近づいたことを意味している。

20世紀までの戦争は主として国と国との間で行われた。それに対して2001年に起きた同時多発テロは、テロ集団が国家相手に起こした事件である。攻撃を受けてブッシュ大統領は、「対テロ戦争WOT(War on Terrorism)」を宣言してテロリスト集団アルカイダ相手に戦争を敢行した。これは戦争の形態が変化した転換点だった。

では航空機をハイジャックして世界貿易ビルに突入したテロ攻撃と、サイバー攻撃による社会インフラ攻撃とでは、何が違うのだろうか。ダークサイドは「目的は金で、社会問題を起こすことではない」と弁明しているが、攻撃対象が社会インフラに及び市民生活に重大な被害が発生すれば、それは戦争行為と認定されてもおかしくない。

5月12日には、イラン政府はナタンズにあるウラン濃縮施設がイスラエルによるテロ行為によって攻撃を受けたことを発表し、報復と核開発強化を宣言した。サイバー攻撃は、2015年の核合意(米英仏独露中6か国)で禁じられているウラン濃縮用の改良型遠心分離機を、ナタンズの核施設で開始したとイランが5月10日に発表したことを踏まえたタイミングで行われた。

イスラエルは2010年にもナタンズにある核燃料施設のウラン濃縮用遠心分離機を標的としたサイバー攻撃を行っている。スタックスネット(Stuxnet)と呼ばれるマルウェア攻撃により、約8400台の遠心分離機の内約1000台が稼働不能となった。

今回バイデン政権はダークサイドに対しサイバー攻撃によって報復を行ったが、もし国家に対する戦争行為と断定すれば、アルカイダに対して行ったように、攻撃集団が入るビルを特定してミサイル攻撃を行う等、従来型の戦争に発展する可能性もあるのではないだろうか。

ダークサイドは民間のハッカー集団と言われているが、もし政府機関が意思をもってサイバー攻撃を行う場合には、もっと重大な被害をもたらすことになることは間違いない。しかもそのハードルは、従来型の戦争を起こすことよりも遥かに低くなっているのではないだろうか。

イスラエルがイランの核開発を絶対に容認しない意思を持っているとすれば、今後イランが核兵器開発を本格化させれば、サイバー攻撃に留まらず核施設を空爆する可能性が高まるだろう。サイバー攻撃は強力かつ有効な戦争の手段の一つになったのである。

以上サイバー攻撃について述べてきたが、もう一つ忘れてならないのはバイオテロである。昨年来、世界中がコロナウィルスによるパンデミックで歴史的な被害を被っている。この事件をバイオテロの視点からきちんと検証する必要がある。

重要なことが二つある。第一は、今回のパンデミックが自然発生であれ人為的なものであれ、ウィルスを兵器として使用する上で十分なデータが蓄積されたということだ。第二は、現代はウィルスをバイオテクノロジーで比較的容易に合成できる時代となったことである。バイオテロもまた、簡単に起こすことができることが立証されてしまったと考えるべきだ。

中国による台湾有事の蓋然性が高まっているが、こう考えると、台湾海峡を挟んでミサイルを撃ち合うという、従来型の戦争が行われるとは限らない。当然サイバー攻撃やバイオ攻撃などを併用することを想定しておく必要がある。

映画は未来を予測すると言われるが、2007年に劇場公開されたダイハード4.0はサイバーテロの時代を見事に描いていた。

2001年の対テロ戦争が戦争の形態が変化した転換点だったと述べた。米国は9.11を受けて、2002年11月に国土安全保障省を新設し、重要インフラ防護(Critical Infrastructure Protection)の概念を2003年12月に改訂した。それから20年弱の歳月が流れて、国や社会の重要インフラに対する防護が現実のものとなった。サイバーテロが日常化しエスカレートし、バイオテロのハードルが低くなった現在、武器を使わない戦争の時代が本格的に始まったと言わざるを得ない。

米ソ冷戦の時代、両国はお互いに手の内を共有することによって核戦争の勃発を抑止しようとした。しかし、その概念は中国には通用せず、さらにサイバー攻撃の場合には、攻撃者が分かり難いだけでなく、アクターが拡散しているために抑止の仕組みが作られていないのだ。

NATO外交の限界

 ウィグル人に対する中国の非人道的な行為(人権弾圧、民族浄化等)に対し、欧米を中心に非難と制裁の声が高まっている。これに対する加藤官房長官と外務省幹部の発言を産経新聞が3月29日に報じているが、これを読んで唖然としたのは私だけではないだろう。

 加藤官房長官曰く、「わが国の制度は人権問題のみを直接の理由として制裁を実施する規定はない。」外務省幹部曰く、「欧米から日本は何故制裁をしないのかとの声は特段寄せられていない。・・・日本の人権外交は対話でメッセージを伝え、相手国の判断に影響を与えてゆくものだ。」

 この人達は一体何を考えているのだろうかと思わざるを得ない。お二人の発言を簡潔に言えば、官房長官は「規定がないから人権外交はやらない」といい、外務省幹部は「欧米から要請されていないから制裁はやらない」ということだ。共通していることは、「日本国としてどうすべきか」については意見を述べずに、それぞれの立場での「やらない言い訳」を述べたことである。

 そもそも新たな事態に対処する規定はなくて当然であって、必要に応じて作ればいいだけのことだ。また欧米から要請がないからやらないという発言は、「日本の外交はアメリカに追随すればいい。」という本音を吐露したものだろうが、外交とは日本の国益を追求するためにあるのではないのだろうか。

 NATOという言葉がある。周知の「北大西洋条約機構」ではない。「No Action, Talk Only」の略で、言葉だけで行動を起こさない日本政府に対する揶揄だ。

 振り返ってみれば、尖閣諸島における中国の傍若無人な行動に対する政府の対応は終始NATOだった。その結果はどうだったか。外務省幹部が言うように、中国政府の行動に影響を与えただろうか?答えはノーだ。むしろ日本がNATOであることを見抜いた上で、中国は着々と行動をエスカレートしてきた。政府がNATOに徹して本来講じるべき措置をとらずに、前線で防戦している海上保安庁に必要以上に厳しい対応を強要してきた現実に眼をつむるべきではない。

 NATOは政府だけの問題ではない。大手メディアも同じだ。ウィグル人に対する中国の非人道的行為について、被害者となったウィグル人の声を産経新聞は連載で報道しているが、大手新聞社の多くとNHKは、日頃から中国政府に忖度した報道を行ってこなかっただろうか。

 その遠因は、1972年の日中国交正常化にあたり、日中間で外交原則と日中記者交換に関する協定を締結したことに遡る。1968年に周恩来が発表した談話には、①中国共産党政府に不利な言動を行わない、②日中関係の妨げになる言動を行わない、③台湾独立を肯定しないことが明示されている。この協定は国交正常化によって廃止され、新たに「日中両国政府間の記者交換に関する交換公文」が交わされたが、その内容は公開されていないようだ。

 産経新聞は1968年に記者が中国から国外追放されて以降、北京に駐在員が居ない状態が続いたが、1998年に31年ぶりに北京支局を開設している。

 1989年4月に天安門事件が起こった。追放された産経以外のメディアがどう報じてきたかを分析すれば、記者交換協定の内容が維持されていたかどうかが分かるに違いない。一方、産経新聞は天安門事件後に支局を開設したが、中国に対する批判報道を抑制した形跡は見当たらない。現在も続く中国に対する批判報道の抑制がメディア各社の自発的な判断によるものか、それとも日中間の合意が今でも存在するのかは明らかではない。

 ウィグル人に対する中国政府のジェノサイドを現地からいち早く報道したBBCは、中国当局から圧力や脅しを受けて北京の特派員と家族が台湾に移動したことを3月末に発表した。中国による締め付けが強化された結果、北京から台湾に取材拠点を移した外国メディアは、昨年1月~今年3月末までに21に上るという。

 中国による非人道政策の実態をありのまま国民に伝える役割を担うか、それとも中国からの報復を恐れて国民に歪曲された報道を提供し続けるのか、報道機関の選択肢は二つあるだろう。但し、もし真実を報道する役割を放棄するとなれば、それは報道機関の自殺に他ならない。

 冒頭の話題に戻ろう。日本政府が本来とるべき思考過程は次のようなものだろう。第一に、国益の追求と国際社会における役割を果たすために、日本はどう対応すべきかを考える。第二に、もし実行の障害となる制度上の制約があれば、それを可能とする方法を考える。第三に、それを実施した場合の相手国のリアクションを考える。そして第四に、リアクションに対する対策を考える。

 加藤官房長官も外務省幹部も、この当たり前の思考過程を踏んでおらず、歴史的観点から考えると、お二人の発言は日本の国益を損ねていると言わざるを得ない。

 今後中国と西側民主主義国の対立はさらに厳しくなってゆくことが予測される。人権を蹂躙する中国には開催資格がないという理由から、来年冬の北京オリンピックをボイコットすべきだという世論が国際社会で台頭している。もしボイコットが実現すれば、または北京オリンピックが無事に終了すれば、香港や南シナ海を奪ったように、中国が台湾を力づくで奪いに行くリスクが高まるだろう。対立と危機が深刻化してゆく中で、もし日本がNATOに終始するならば、欧米や東南アジア諸国は日本に完全に失望するだろう。当然のことながら、NATOを転換しないままではクワッド(日米豪印四ヶ国による安全保障と経済を協議する枠組み)もファイブアイズ(英米加豪ニュージーランドによる機密情報共有の枠組み)も「お話し」で終わるだろう。それでいいのだろうか。

 安倍前首相は、就任前に「戦後レジームからの脱却」を唱えていた。果たして「戦後レジーム」とは一体何だったのだろうか?

 国会議員も政府関係者も「日本に何ができるか」の前に「日本は何をすべきか」を考えるべきだ。「何をすべきか」を考えれば「何が障害なのか」が明らかになり、憲法改正を含む制度の改正が不可欠だという結論に至る筈だ。現在できない理由に囚われない自由な発想と自律性を取り戻すことこそ、「戦後レジームからの脱却」の一丁目一番地ではないだろうか。

 総じて、日本は変化や軋轢を忌避する結果、現状維持志向が強い。この特質が中国や韓国に対する過渡に腰が引けた対処の原因であり、その結果状況はさらに悪化し、日本の国益を損ねている。菅首相は昨年10月26日に行われた所信表明演説を、「・・・そのため、行政の縦割り、既得権益、そしてあしき前例主義を打破し、規制改革を全力で進めます。」と結んでいる。この言葉にウソがないなら、菅首相は加藤官房長官の発言を咎めるべきだろう。

 国の豊かさも一億総活躍社会の実現も、そして国際社会からの信頼も、危機に立ち向かう行動からしか生まれないことを肝に銘じるべきである。眼の前に楽な道と困難な道が二つあるのなら、躊躇なく困難な道を選ぶべきである。困難を可能とするイノベーションこそが国を強くし豊かにするからだ。 「戦後レジームからの脱却」は、イコール憲法改正でもなく、憲法改正から着手することでもないだろう。NATOと揶揄されない、危機に対し毅然と行動するマインドを取り戻すことから始めるべきである。憲法改正はそのための手段ではなく結果なのだと肝に銘じるべきだ。

原発忌避からの脱却

 安全保障や原発は、政府が国益追求の戦略として推進すべきものであり、世論の盛り上がりを待ってから進めればいいというものではない。

 国益追求と世論の動向は必ずしも一致しない。そもそも国民は政治に対して、往々にして好きか嫌いかで判断することが多く、世論調査とは所詮その程度のものでしかない。一方国益追求は政府・政治家の使命である。国際社会との関係において、放置すれば国益が大きく損なわれることが懸念される場合には、政府・政治家は国民に対し国益を語り、国益追求の進路を論理的に説明して、世論を牽引しながら堂々と政策を推進すべきである。

 政府が国民に忖度して重要な政策決定を足踏みする状態を「思考停止」状態と呼ぶとすれば、安全保障も憲法改正も原発も、現在思考停止状態にあるといっていい。

 10年前に東日本大震災が起こって以降、国民の大半は原発を忌避したままである。しかしながら、国民の忌避と政治家の思考停止は同列ではない。しかも「原発はもう嫌だ」というのは情緒的反応であって、論理的思考の帰結ではない。国民の忌避に忖度して政治家が思考停止状態を続けることは、国益を毀損するという意味で政治家の責任放棄に他ならない。

 今回のコロナウィルスのように、人類の前には次々に危機や難題が立ち塞がる。その時国益追求の思考はどうあるべきだろうか。単純なプリンシプルを言えば、「もし眼の前に困難な道と楽な道の二つがあるのなら、躊躇することなく困難な道を選べ」ということだろう。この二者択一は「乗り越える」か「逃げる」かの選択と同義である。輝かしい未来は常に困難を乗り越える方向にしかないことを肝に銘ずるべきだ。何故なら乗り越えるために新たな知恵を出し、それを実現する技術開発に挑戦することこそ、国を強くし豊かにすることだからである。

 3.11が起こり、津波で冷却水が途絶して原発が暴走した。この時点で日本の選択肢は二つあった。「原発は危険だからもうやめよう」という選択と、「ならば暴走しない原発を作ろう」という選択である。いうまでもなく前者が「楽な道」であり、後者が「困難な道」に相当する。3.11以降の世論は「楽な道」に大きく傾き、政府は現在に至るまで思考停止状態にある。

 10年後の今、この問題を論理的に再考してみれば、次の思考過程を経るに違いない。まず「原発は未来の日本にとって必要か」という問いから始めれば、その答えは間違いなくイエスである。特に2050年までにCOゼロを目指すと宣言した以上、原発は不可決となる。何故なら有識者が指摘している(※1,2)ように、現実は以下のとおりであるからだ。

①再生可能エネルギー発電は天候に左右されるためバックアップ電源が不可欠となる。バックアップ電源となり得る安定電 源は火力か原子力しかない。

②太陽光発電や風力発電は本質的に不安定で、周波数が安定しないという欠点がある。このため半導体製造などの精密機械の生産には使えない。

③電力需要は時々刻々変化する。絶え間なく過不足なくかつ安定して電力を供給するためには、トータルで発電量を調整する必要がある。現在火力発電がこの役割を担っており、目的から考えて再生可能エネルギーは適さない。

④2016年に鳴り物入りで、政府は電力の自由化へ舵を切ったが、再生可能エネルギーが高価なため、現在2.4兆円の賦課金が国民負担(国民一人当たり約2万円)となっている。

※1「原発ゼロは国を亡ぼす」、澤田哲生、正論4月号                               ※2「復興日本、動かぬ原発、厳冬で電力逼迫」、産経新聞3月10日版

 以上述べたように、現在の状況を踏まえると、エネルギー政策を巡る命題は、①電力を安定供給し、②電気代を安くし、同時に、③CO2ゼロ政策を推進することとなるが、そのためには原発を巧く使う他にないのである。

 この場合、「困難な道」を進むために克服すべき課題は、「暴発しない原発」の開発である。いつの時代にも、どのような課題でもそれを乗り越えるには、新たな技術開発が必要となる。しかも日本は技術開発立国を標榜している。本気でそう位置づけるのであれば、人類の課題を解決する技術を世界に先駆けて開発することが日本の役割であると覚悟する他ない。

 ここに朗報が一つある。日本原子力研究開発機構が次世代の原発である「高温ガス炉」の開発に成功した。この原発は、構造上大型化には不適で小型モジュール炉に適し、原理的に炉心溶解事故を起こすことはなく、冷却に水を使わないことから、内陸でも使用可能という優れた特長を有している。「高温ガス炉」技術では日本が世界の先端を走っている。(※3)

※3「地球を守る日本の次世代原発」、産経新聞2月3日版

 3.11以降、世界は原発中止の方向に大きく傾いたが、カーボンニュートラルが注目された結果、2019年頃からイギリス、オランダ、スウェーデンなどが原子力推進に舵を切っている。正に風向きが変わったのだ。ならば日本も2050年にCO2排出量の実質ゼロを宣言したことを契機に、次世代原発の実用化・新増設と世界に向けた提供に政策を転換すべきである。世界の期待に応えることこそ国益である筈だ。ここで思考停止を続ければ、この重要技術で中国が世界のリーダーとなりかねない。既に国益をかけた戦いが始まっているのである。

本の勧め:「老年こそ創造の時代」

ー2020年12月30日-

 東北大学名誉教授で歴史家、フランスとイタリアの美術史の権威である田中英道氏が、『老年こそ創造の時代』という本を書いている。シニア世代に是非お勧めしたい一冊であるので要点を紹介する。

現代は「人生百年時代」、それは誤解

 奈良時代にすでに100歳以上を含む高齢者に対し、天皇から長寿のお祝い品が支給されていたという。現代において「人生百年時代」と言われる背景にあるのは、平均寿命が延びているということだが、それは乳幼児死亡率が劇的に減少した結果であり、百歳を超える長寿は千年以上も前からあったという。

葛飾北斎と杉田玄白にみる老境の生き方

 葛飾北斎は1760年生まれで、享年90歳で没しているが、75歳の時に『富嶽百景』を刊行している。その初編の末尾に、「七十前描く所は実に取るに足るものなし・・・八十六才にしては益々進み、九十才にしてなおその奥意を極め、一百歳にして正に神妙ならんか」と書いている。70歳以前というと、東洲斎写楽の名前で浮世絵を描いていた34-35歳の期間を含み、それらの作品は70歳以降の作品に比べたら駄作だったと回顧しているのだ。北斎という人は死ぬまで筆を離さず、赤貧の中で一生を終えたという。

 杉田玄白は1733年生まれである。有名な「蘭学事始」を83歳で書き、その後に「耄耋(ぼうてつ)独語」を84歳で書き85歳で没している。ちなみに耄は70歳、耋は80歳をさしている。長生きは苦しみ以外の何物でもないと言いながら、死ぬ直前まで仕事を続けていたという。

 田中英道氏は、北斎や玄白の生き方こそが本当の老人の姿であると賞賛する。

ルネサンスの巨匠達の老人観

 「イタリアルネサンスこそヨーロッパ文化が最も開花した時代であり、その時代の中心となった思想がメランコリーである。そしてメランコリーは老人の姿で描かれることで象徴される。さらに、老年期という人生の時期に人間は多彩な創造世界を見出す、老年期とはそういった時期である」と述べている。

 その上で、ダヴィンチが老人像を好んで描いていること、ミケランジェロもたびたび自画像を描いているが、一貫して老人像として描かれていることを紹介している。

老人論の深さは日本と欧州に共通する文化の高さ

 「ヨーロッパの哲学者も芸術家もメランコリーの思想と、老境期の創造性を、極めて現実的に感じていた。これは秋の夕暮れに『もののあはれ』を感じる日本人の創造性と通じるものであり、東西における文明国・文化国の何たるかを示すものである。」と評価する。 

特に、三十三間堂の婆藪(ばす)仙人(湛慶作、13世紀、国宝)を挙げ、日本にもイタリアにも老人をモデルにした彫刻や絵画が多い中で、老人の美しさを表現している点において、世界の最高傑作だと高く評価する。

老境期の生き方

 田中英道の老人論を総括してみよう。

・老境期とは、自分がやってきた仕事を評価できるようになる年代である。

・老人とは、新しい自分の方法を飛躍的に編み出す可能性に最も飛んでいる年代である。

・思い出話の中に普遍的なものや教訓的なものを見出して整理し、それを文学や思想に結晶させることができるのは、老人をおいて他にない。

・老境において様々な作品を描き、さまざまな仕事をしている人達こそ老人の理想像である。

 現代は情報が溢れ、変化が速く、複雑すぎて何が真実なのかが分かり難い時代である。そしてあくまでも一般論だが、現役世代は情報化時代を生きることに精一杯で、時代を俯瞰して捉える余裕がない。それに対して老人は豊富な経験と知見を蓄え、時間的余裕と経済的余裕を併せ持つ。こう考えるとき、自ずから老人にしか果たせない役割が見えてくる。しかもそれは情報化時代が進むほど拡大してゆくに違いない。

 「人生百年時代」という言葉だけが一人歩きして、ややもすれば健康の維持が目的視される昨今だが、その前に老境期において何をするのか、どう生きるのかという問いにこそ向かい合うべきではないだろうか。葛飾北斎が述懐するように、70歳以前の作品は駄作だったという境地に至る醍醐味がそこに待っている。

コロナ、五つの不可解

-2020年11月29日-

 2020年という年はコロナに始まりコロナで終わろうとしている。しかしコロナ騒動には不可解な点が余りにも多すぎる。

 まず事件を振り返ってみよう。武漢で最初の感染者が出たのは昨年の12月8日以前で、中国政府がその事実を公表したのが1月20日、WHOが「緊急事態」を宣言したのが1月30日、日本を含む各国が入国制限を行ったのが2月1日だった。この間に、中国では春節の休日が1月24日~30日にあり、世界規模で中国人の民族大移動が起きている。

 11月末時点での感染者数は全世界で6000万人超、死亡者数は140万人超、死亡率は約2.3%である。これに対して、日本の感染者数は14万5千人(世界の0.24%)、死亡率は約1.4%である。日本の人口は世界全体の約1.6%であるから、感染者の発生率は人口比の約1/6と少ないことになる。

 ここで、コロナ騒動に関わる不可解な点を列挙してみよう。

 第一の疑問は、中国政府の発表が40日も遅れた理由は何か、その間一体何をやっていたのかという点にある。中国政府が沈黙している間に民族大移動が起こり、感染が世界中に拡散したことは否定しようもない事実だからだ。

 第二は、政府、自治体、専門家、メディアが連携して連日コロナ狂騒曲を奏でていることだ。感染者数が増加しているのは事実だが、PCR検査数が増加している以上、感染者数が増えるのは当たり前のことだ。真に大事なことは、感染者数でもPCR検査数でもなく、保菌者がどこまで増加かつ拡散しているのかだ。もし既に日本中に拡散しているのであれば、重症化し易い人々に対する感染防止対策を講じた上で、むしろ放置して社会全体に免疫が拡がるのを待つことが最上策となるはずだ。

 経済との両立を目指す以上、科学的な分析を踏まえて、「注意して進め」の方針を明確に打ち出すべきだ。「GOTOを継続すれば、感染者が増えそうだからこの際止めるべきだ」という意見は、科学的でも論理的でもない。

 今こそ科学者の出番ではないだろうか。これほどの歴史的な危機に対する科学的な分析と見解を出すことこそ、科学者の役割であるはずだ。日本学術会議のあり方を巡る議論も必要だが、危機に際して社会に貢献できない日本学術会議など無用の長物だ。

 第三は、経済に大きなダメージを与えることが自明であるのに、まるで申し合わせたかのように、世界中で都市封鎖が行われたのは何故かという疑問だ。就任以来アベノミクスを推進してきた安倍総理(当時)もアベノミクスを放棄することに等しい緊急事態宣言を行った。

 コロナを原因とする世界経済のGDPの落ち込みは6%以上と予想されており、リーマンショックを超えて第二次大戦後の最悪レベルになるという。ただし正確に言えば、これはコロナが原因ではなく、各国政府がとった政策が原因である。都市封鎖の費用対効果をどう評価・総括するのか、これも科学者の役割である筈だ。

 第四は、中国が震源地であったにも関わらず、欧米日が回復困難なほどのダメージを受けている一方で、相対的に中国独り勝ちの情勢となっている現実をどう理解すれば良いのかという点にある。これは、危機対処においては独裁政権が圧倒的に有利であるということの証明なのか、それともどこかに存在する人為的なシナリオの結果なのだろうか。

 最後に、当初コロナウィルス人工生成説、ウィルス兵器説があったが、この真偽は一体どうなったのだろうか?ウィルスのDNA解析については、既に国内でも十分行われていると推察するが、科学者は科学的な分析結果と見解を公表すべきではないだろうか?もし既に公表されているのであれば、メディアはそれを分かり易く国民に説明すべきである。「ウィルスの正体は何か」について、あいまいのまま放置すれば、陰謀論がはびこることとなる。

 何れにしても、コロナウィルスに関する総括的な議論が必要である。科学者の参戦が求められる。

日々是疑問

-2020年11月27日-

 38億年に及ぶ生物進化において、サピエンスのみが「考える」能力を獲得した。エンジンに譬えれば、「考える」能力というエンジンを駆動するのは「何故?」という素朴な疑問であると言ってよい。

 雪原を駆け抜けるウサギが、耳をピンと立てて周囲の不審音を注意深く拾って行動しているように、人は五感を最大限に働かせて日常を生きている。そういう意味では、周囲の微妙な変化を感じ取る感性が「何故?」という問いを発するセンサーであると言える。

 ただし、一言で変化というが、海の波に譬えれば分かるように、海岸に打ち寄せて砕ける小さな泡のような変化もあれば、月や太陽の重力によって起きる満潮や干潮、台風などの低気圧によって起きる高潮、巨大地震が起こす津波などがありさまざまである。

 大事なことは、五感を目一杯働かせて検知すべきは大きな変化であるということだ。何故なら自然災害の例を引くまでもなく、大きな変化ほど大きな被害をもたらすからだ。

 このブログでは、日常空間で進行中の「どこか不審な変化」を拾いつつ、日常の「何故?」を綴ってゆくこととする。