日本近代史の総括と教訓

 今から振り返ってみると、戦後75年の内20世紀までは米ソ冷戦構造とその後の米国一強体制のもとに比較的安定した時代だった。それが21世紀になると中国が急速に台頭して世界秩序は不安定化した。さらにパンデミックが発生し、リーマンショックを超える深刻な世界不況が起こって、西側先進国vs中国の対立の構造が顕著となった。戦後平穏だった75年が終わったのである。

 このように世界情勢が劇的に変化したにも関わらず、日本は未だに憲法改正もできず、日本中に多くの米軍基地を抱えたまま、アメリカからの真の自立も果たせないでいる。(Daily/407World/358

 これから日本が向かう未来の風景は戦後75年間に見てきたものとは相当異なることが予想される。これから世界情勢はどうなるのか、その中で日本の進路は何処にあるのか。その問いの答えを見出そうとすれば、明治維新以降の日本の近代史を総括しなければならない。

日本近代史の総括

 歴史の専門家ではないが、未来を考えるために、日本の近代史を明治維新~日露戦争~太平洋戦争~現代の三区分に分けて大きく俯瞰してみたい。ちなみに明治維新~日露戦争終結までは37年、日露戦争終結~太平洋戦争敗戦は40年、そして敗戦~現在は76年のスパンである。

 明治維新期の日本は近代国家を造るという明確な命題があり、先行する欧米に学ぼうとする謙虚さがあった。岩倉使節団を編成して、新政府要人の過半数を含む100名以上が20ヵ月間日本を留守にして米欧視察に出かけたことがその証拠である。視察の目的は新生日本がめざすべき国家像を明らかにすること、日本が開国したことを通知すること、それと不平等条約の是正についての打診だった。司馬遼太郎が書いた小説『坂の上の雲』は、明治日本が欧米と肩を並べるまでの物語であり、小説に描かれているように明治という時代は高揚感に溢れていた時代だった。

 日露戦争は明治37年に勃発した。その2年前に日本は英国と日英同盟を結び、後にロシア革命を扇動する大役を担った明石元二郎をロシア公使館付陸軍武官として赴任させている。このような戦略的な布石を打ったことが功を奏して、日本は世界の大方の予想に反して勝利した。明石大佐の活躍は後に「陸軍最大の謀略戦」と評価され、ドイツ皇帝ウィルヘルム2世が「明石一人で、満州の日本軍20万人に匹敵する戦果を上げた。」と称えたという。この結果、日本は欧米と肩を並べるようになったのだが、同時に「坂の上の雲」を見失ったのだった。

 太平洋戦争については、日本が犯した失敗の原因、アメリカが日本を戦争に追い詰めた責任など、内外の専門家が書物を残しているが、国としてきちんと総括しないまま、失敗の原因と責任をウヤムヤにしたまま、歴史の中に放り投げてきたのではなかっただろうか。毎年8月になると平和を祈る行事が行われるが、いわゆる自虐史観問題は未解決のままであり、アメリカに対しては原爆投下と日本の大都市に対する無差別空襲を不問としてきたことがその理由である。

 かなり乱暴であることは承知の上で、ここで太平洋戦争の失敗の原因を、資源、人材、情報の三点に絞って整理しておきたい。第一はエネルギーや食糧、金属などの資源の多くを日本は外国に依存していたのであり、絶対に戦争をしてはならないアメリカに対し開戦したことだ。第二は明治維新~日露戦争期には新しい国家建設を担う人材を多く輩出したのに対して、大正期以降には傑出したリーダーが登場しなかったことだ。第三は米英との力の差は国力だけでなく、インテリジェンス(情報収集・分析能力)と戦略面にあったことだ。

日本近代史の教訓

 以上の総括を踏まえて、日本の近代史150年間の教訓を四点に整理する。

 第一は「国家像」である。明治期には確かにあった「坂の上の雲」が、日露戦争に勝利して欧米と肩を並べたことによって消滅した。高揚感に溢れた時代は、明治維新~日露戦争で終わった。日露戦争後は新たにめざすべき国家像を描いた上で、新しい進路を歩いてゆくべきだった。

 第二は「世代交代に対する対策」である。明治維新を担った日本近代史の第一世代は、武士のスピリットと幕末の動乱を生き抜いた経験をもって新しい国家建設を担った。日露戦争期を担った第二世代は第一世代の経験を受け継いで日露戦争を戦った。幸いなことに、第一世代から第二世代までは日本にとって順風の時代だった。明治が終わり大正を経て昭和に至る過程で世界は激変し、日本にとって逆風となった。国家指導者が備えるべき資質と能力、世代交代に臨み継承すべき経験知と教訓について対策を講じるべきだった。

 保阪正康は著書『陰謀の日本近現代史』の中で、太平洋戦争の失敗の教訓について分析している。何れも明治17年生まれの指導者として、開戦時に首相兼陸軍大臣だった東條英機、真珠湾攻撃時の連合艦隊司令長官だった山本五十六、戦後総理大臣を務めた石橋湛山を挙げ、次のように評している。

・国家の指導者にとって重要なのは、物事を俯瞰してみることのできる大局観だろう。

・三人の中で確固とした大局観を身に着けたのは石橋だけだった。

・東條は海外情勢の分析に熱心でなく、国内の軍人の視線だけで世界を見ていた。

・山本は海外から日本を見る視点は持ち合わせていたが、軍人の枠内での行動に留まっていた。

・太平洋戦争時の軍の最高責任者は、日露戦争時の指導者とは余りにもタイプが違い過ぎた。

・陸軍大学校と海軍大学校の頭脳明晰な卒業生が軍部を牛耳り、国家を動かした。彼らの多くが世界の動きを見極めることができない、“優秀な”官僚だったことがこの国の悲劇と言えるかもしれない

 第三は「インテリジェンス」だ。太平洋戦争においては英米とのインテリジェンス能力の差が致命的だった。端的な例を一つ挙げれば、日本側の通信は全てアメリカに傍受され暗号解読されて、日本の国内事情はアメリカ側に筒抜けだったのに対して、日本は米国民が戦争への参加を忌避していることも、ルーズベルトが参戦するために日本から攻撃させようとしたことも、更にルーズベルト政権が社会主義に一種の憧憬の念を持っていたことも知らなかったのだった。

 外交においても戦争においても、世界情勢と相手国事情に関するインテリジェンス能力と分析情報に基づいて戦略を練ることが死活的に重要だ。情報化社会の現代、この重要性は一層増している。

 第四は「総括する文化」である。日本には重大事件や時代を総括して次の世代に伝承する文化が定着していない。失敗が何故起きたのかを分析し、原因と責任、さらには教訓を明確にして、それを共有知として次世代に継承する仕組みを作らなければならない。

自ら描く新たな「坂の上の雲」

 視点を現代に戻すと、国際情勢は不安定化し混迷を増す方向に変化している。既に他のコラムで書いたように、輝かしい未来は常に困難を乗り越える方向にしか存在しないと肝に銘じるべきだ。国の豊かさも国際社会からの信頼も、危機に立ち向かう行動からしか生まれない。(Daily/371Manners/385

 明治維新以降、日本は欧米の優れた制度などを取り入れることで近代化を果たし、戦後はアメリカに従いながら経済成長を遂げた。そして現在、冒頭に述べたように、戦後75年間平穏だった時代が終わり、世界情勢は混沌を強めつつある。もはや欧米の後を追う時代は終わったのである。安倍前総理が言われた「戦後レジームからの脱却」は、憲法改正から始まるのではなく、危機に対し毅然と行動する自律したスピリットを取り戻すことから始まると考えるべきなのだ。

 さらに重要なことがある。日本は欧米や他民族とは根本的に異なる、1万6千年前を起源とする縄文時代からの歴史と文化、価値観を持っている。日本文化がもつ世界でユニークな特性を再評価した上で、国際情勢と地球規模の課題に対する日本の能力と役割を見定めることが重要である。

 そのためには国際情勢の中での日本の立ち位置を客観的に分析し、新たな国家像と戦略、国際社会における役割について政策研究を行う研究機関の創設が必要となる。日本学術会議などという時代遅れの機関はさっさと廃止して、自律した国家像、政策と戦略を提言する新しい産学官連携の仕組みを作ることが重要ではないだろうか。

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