安倍元首相が蒔いた種

はじめに

 はじめに、凶弾に倒れた安倍晋三元首相に対し、心から哀悼の意を表します。

 6月9日に執り行われた石原慎太郎さんお別れの会で、発起人代表を務めた安倍元首相(以下、安倍首相)は「本当にさびしい思い。石原慎太郎がいない世の中、つまらなくなるなぁ…」とスピーチされた。それから僅か1か月後にその安倍首相が急逝するとは、一体誰が予測し得ただろうか。「安倍晋三が居ない世の中、つまらなくなるなぁ」、日本は今そういう局面を迎えた。

 「安倍首相凶弾に倒れる」の報を聞いたとき、瞬時に歴史上の二つの事件が頭に浮かんだ。一つは1868年の京都で起きた坂本龍馬暗殺事件であり、他一つは1963年にダラスで起きたケネディ大統領暗殺事件である。坂本龍馬は薩長が進める武力討幕を阻止し戦争を回避するために、将軍徳川慶喜による大政奉還を、土佐藩家老だった後藤象二郎を動かして画策していた。そして徳川慶喜が大政奉還を決断した直後に、あたかも役割を終えて天に召されるように生涯の幕を閉じたのだった。

 米欧のメディアは今回の事件を「銃撃され死亡した(was shot and killed)」ではなく、ケネディ大統領暗殺事件と同様に「暗殺された(assassinated)」と報道していた。ケネディ大統領暗殺事件は、リー・オズワルドによる単独犯行とされたが、現在でも複数の陰謀説があって白黒ついていない。

昭恵夫人の挨拶

 安倍首相の葬儀は芝の増上寺で7月12日に執り行われた。昭恵夫人は「まだ夢見ているようです。」と切り出され、続けて喪主として次のように挨拶をされたという。

 「父、晋太郎さんは首相目前に倒れたが、67歳の春夏秋冬があったと思う。主人も政治家としてやり残したことはたくさんあったと思うが、本人なりの春夏秋冬を過ごして、最後の冬を迎えた。種をいっぱい蒔いているので、それが芽吹くことでしょう。」

 これは刑死を目前にした吉田松陰が、「私は後来(将来)の種子」として未来につながっていくと同志に呼びかけたという史実を踏まえた発言であることは言うまでもない。(産経7月14日、阿比留瑠比記事から引用)

 一般に歴史的な大事業は、種を蒔く人、大きく育てる人、収穫する人が入れ替わるように登場して実現されてきた。安倍首相もまた「多くの種」を蒔いて急逝された。遺志を継いで道半ばの大仕事を完遂する継承者の登場を願うばかりである。

誰に対するメッセージか

 しかし何という清々しい挨拶だろうか。岸田首相をはじめ列席する多数の政治家を前にしての挨拶だったのだが、これは一体誰に対するメッセージだったのだろうか。飽くまでも勝手な想像に過ぎないが、故人に対する心からの賛辞と慰労の言葉であると同時に、残された自分に対する激励であったように思う。それだけではなく、安倍首相の遺志を継いでゆく政治家に対する戒めでもあったのではなかっただろうか。

 現実の世の中がどんなにか愚かであり卑俗であっても、断じて挫けない人間。どんな事態に直面しても、「それにもかかわらず!」と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への「天職」を持つ。」マックス・ウェーバーの言葉である。安倍晋三という政治家はそういう人だった。(産経7/9、阿比留瑠比記事から引用)

 世界の多くの政治家や識者が安倍首相に対してこの上ない賛辞を寄せている。しかも外交辞令を超越した心からのものが多い。その幾つかを紹介しよう。

 ジャーナリストで、スタンフォード大学講師のダニエル・シュナイダーは、「安倍氏が日本の政治から消えたことでアメリカの識者が危険だと恐れる瞬間が見えてくる。同氏の暗殺は、ヨーロッパが戦争状態にあり、中国が挑戦的な態度を見せ、アメリカの政治と信頼への疑問が生まれる中、日本の未来に対する信頼を揺るがしかねない。」と述べている。(東洋経済オンライン7/11)

 また、マサチューセッツ工科大学の教授で政治学者のリチャード・サミュエルズは、「安倍氏はアジアにおける日本の新しい地図を残した。そこでは、日本が世界の中で果たす役割はより確かなものになっている。」とし、「私は今回の暗殺が日本を軌道から外すようなことは心配していない」とする一方で、「自民党内で安倍氏の後継者、もしくはそうなれる準備ができた人物はいない。現時点で明らかな後継者はいない。」と述べている。(同上)

 さらに米上院は7月20日に安倍首相をたたえる決議案を全会一致で採択した。安倍氏を「一流の政治家で民主主義の価値の擁護者」として評価し、「日本の政治、経済、社会そして世界の繁栄と安全保障に消し去ることのできない足跡を残した。」とした。(産経ニュース7/21)

安倍首相が蒔いた種

 安倍首相が取り込んだ命題は、一言で言えば「日本を取り戻す」ことだった。安倍首相が在任中に取り組んだこと、成し遂げたことのビッグスリーを、国内と国際社会の二つの舞台に分けて整理した上で考察を加えたい。

 国内のその1は、2013年6月14日の「日本再興戦略」で提唱したアベノミクスと「三本の矢」である。その2は、2013年に「国家安全保障会議設置法」と「特定秘密保護法」を成立させ、それに基づいて国家安全保障会議を設置し、その事務局として国家安全保障局を内閣官房に設置したことである。そしてその3は、2015年に10本の法律を一括して改正する平和安全法制整備法案を成立させ、集団的自衛権の行使を可能としたことである。

 何れもが今後迫りくる危機に対して大急ぎで体制を整備しようとした強い意思とリーダーシップのもとに成し遂げられたことだった。安倍首相が先見の明があったと評される所以である。

 世界のその1は、2013年1月の所信表明演説で「地球儀を俯瞰する外交」を打ち出したことと、それと前後して現在FOIP(自由で開かれたインド太平洋)、QUAD(日米豪印戦略対話)として定着した枠組みの原形を作ったことである。その2は、2016年5月にオバマ大統領と広島を訪問し、同12月には二人で真珠湾を訪問して、両国間に残っていた戦後の軛を解消したことである。2013年2月にアメリカ連邦議会で行った演説と合わせて、戦後レジームからの脱却の第一歩を力強く踏み出したのだった。そしてその3は、2016年11月に大統領就任前のトランプ氏を電撃訪問して特別な信頼関係を構築し、その後の国際社会における欧米の橋渡し役を担う布石としたことである。

 大半の政治家が国内政治に終始するのに対して、安倍首相は国際社会の大舞台で稀有な役割を演じた政治家だった。日本の役割に留まらず世界のリーダーとしての役割を担ったことが、世界の政治家が高く評価している理由であることは言うまでもない。

 櫻井よしこは産経7月10日の紙面で、「我が国は604年の十七条の憲法制定から民を大切にし、争い事の裁きでは公正さを重んじた。それから約1300年後、明治政府は五箇条の御誓文を国是とした。民主主義の精神をわが国は外国から輸入したのではなく、自ら育ててきたのだ。日本国の歴史的事実を誇りとし、穏やかながら雄々しい文化を身につけた安倍氏だったからこそ、国際社会ではどの国の指導者にも位負けしなかった。」と追悼の賛辞を述べている。

 但し良いことずくめではなかった。『円安から日本を考える』に書いたとおり、安倍首相は経済成長とPB(プライマリーバランス)の二兎を追ったために、アベノミクスは期待通りの成果を出せなかった。また、戦後レジームからの脱却を提唱し続けたが、憲法改正に象徴される国内問題は未完に終わった。

参院選で国民が託したこと

 事件の翌日7月10日に参議院選挙が行われた。選挙結果は次のとおり総括されるだろう。カッコ内は(改選前議席→改選後議席)を示す。

 ①自民党が大勝(111→119)し、維新の会が躍進(15→21)した。一方で、立憲民主党が大きく議席を減らし(45→39)、公明党(28→27)、共産党(13→11)、国民民主党(12→10)が議席を減らした。

 ②総じて言えば、保守政党が躍進しリベラル政党が後退したということだ。

 ③この結果、改憲勢力が2/3を上回り憲法改正の基盤ができた。自民党+公明党+維新の会で154→167。国民民主党を加えれば166→177。ちなみに2/3は166以上である。

 大事なことは、大勝した自民党に国民が託したことは何かだ。安倍首相が取り組んできたことから考えれば、最大の命題は「豊かな社会、強い国力」を取り戻せということに尽きるだろう。『円安から日本を考える』に書いたとおり、日本は未だに「失われた30年」の後遺症の中に埋没している。国民の実感で言えば貧しくなったままなのだ。「豊かな社会、強い国力」を取り戻すことは、諸々の社会問題を大きく改善する基盤対策であるだけでなく、国際社会で大きな役割を果たすための必須要件でもある。

 維新の会代表の松井一郎はZAKZAK7月14日の紙面で、『恐るべき先見の明があり人を包み込む人柄だった安倍首相、参院選は議席倍増も野党としては完敗』と題した記事を投稿して、安倍首相を追悼し参院選の結果を総括している。

 「野党の中でも、立憲民主党や共産党などは議席を減らした。ロシアや中国による軍事的覇権拡大が進むなど、日本を取り巻く安全保障環境が悪化するなか、「憲法改正反対」「非核三原則堅持」といった昭和の考え方では、国民の生命や財産は守れない。」

 「今回の参院選の期間中も、中国とロシアの海軍艦船は協力するように、日本列島を一周するなどして恫喝・威嚇してきた。わが国が平和と安定を維持するためにも、憲法改正や防衛力強化について、令和の思考でタブーなき議論をしなければならない。それを妨害するような政党は、政治家や政党の仕事をサボっているとしか言いようがない。」

 誠にこのとおりだと思う。日本は過去30年間経済成長から取り残され、欧州では戦争が起こり、米中対立は険しさを増している。安全保障においても経済においても、現在の日本は戦後最大の危機に直面していると言わざるを得ない。

 自民党が自公連立に安住している限り、安倍首相が蒔いた種を大きく成長させることはできないばかりか、激変する国際情勢に備えて国力を強化してゆくことは困難だと言わざるを得ない。自公連立自体が戦後レジームなのだと捉えて一旦白紙に戻し、迫りくる危機を乗り越えるために、強い保守勢力を再結集する位の政治のイノベーションが必要だ。20世紀の不毛の論理にしがみ付く政治家には、「平和ボケの時代」と共に歴史の中に退場してもらいものだ。

戦後レジームからの脱却、二つの相克

 3月にロシアがウクライナに侵略してヨーロッパで戦争が始まった。戦後レジームは従来日本国内の課題として認識されてきたが、この戦争は国際秩序に関わる戦後レジームの限界を提起した。その結果、戦後レジームには国内外に二つの相克があることが明白となった。

第一の相克

 第一の相克は、ウクライナ戦争が長期化したことによって、ウクライナ対ロシアという構図は、NATO対ロシアの様相が強まり、さらには民主主義対専制主義の対立へと拡大してきた。同時に現在の安全保障理事会の常任理事国に専制主義の露中が名を連ねているために、両国が関わる紛争に対して安全保障理事会は無用の長物と化したことが露呈した。

 戦後レジームの再構築に関しては、もう一つ重要な点がある。それは対二次世界大戦の敗戦国という十字架を背負ってきた日本とドイツの立場を一変させたことだ。激変する世界情勢において、さらに民主主義国対専制主義国の対立の構図において、経済大国である日独に対する期待と役割が過去になく高まっている。

 安倍首相は、「地球儀を俯瞰する外交」を唱えて、国際社会が直面する課題に日本が深く関与する外交を展開した。ウクライナ戦争後の世界秩序をどう回復するのかという大きな命題に関して、日独にはコアプレイヤーとして振舞うことが求められていることを肝に銘じる必要がある。

第二の相克

 第二の相克は国内問題に関わる。「骨太の方針2022」をまとめるにあたって、積極財政派(代表安倍首相)対緊縮財政派(代表岸田首相)の間で激しいバトルがあったことは、『円安から日本を考える』に書いたとおりである。

 骨太の方針2022は、積極財政派と緊縮財政派の双方が、相手の主張を無効にする文言を盛り込んだ形となっているために、年末の予算編成においてバトルが再燃することが必定である。ここで肝に銘じるべきことは、アベノミクスが看板倒れに終わった原因が、経済成長と財政再建の二兎を追ったために、財政出動が中途半端となったことと、二度に及ぶ消費税増税が国民生活を直撃して消費マインドを冷やしてしまった事実である。積極財政派の要だった安倍首相が居なくなった結果、もし岸田首相率いる緊縮財政派が盛り返して、再び経済成長と財政再建の二兎を追う、最悪の場合増税という展開になれば、日本経済は壊滅的な打撃を被ることになるだろう。岸田政権が増税に走らぬよう、監視の目を怠るべきではない。

終わりに

 以上述べてきたように、安倍首相が蒔いた種、即ち後継者に託された宿題は次の三つに集約できる。

 1.「豊かな社会、強い国力」を取り戻す

 2.憲法改正を含む戦後レジームからの脱却

 3.ウクライナ戦争の終結と復興を含めて、国際秩序の再構築に主体的役割を果たす

 ウクライナ戦争が長期化した現在、その早期終結と国際秩序の再構築が世界レベルの課題として浮上している。前述したように、国際秩序の再構築とは「戦後レジーム」からの脱却に他ならない。安倍首相が道筋をつけてきた大仕事であり、日独が果たすべき役割は大きい。しかもその取り組みは中国の暴走に対する抑止力として働くことを忘れるべきではない。

 その役割を担い、やるべき使命を果たし、そのための能力を獲得することが、安倍首相の遺志を継ぐことである。それを可能とするためにも、「失われた30年」にケリをつけて、「豊かな社会、強い国力」を取り戻すことが必達命題となるのである。大局の道筋は安倍首相が作ってきた。岸田首相はじめ安倍首相の遺志を継ぐ政治家の役割は、安倍首相が種を蒔いてきたこの大仕事を完遂させることにあるのではないだろうか。

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