インテリジェンス

事実と真実

 2020年はコロナウィルスに明け、アメリカ大統領選に暮れようとしている。ウィルス事件は世界中に甚大な被害と経済的損失をもたらした。アメリカ大統領選は民主主義の先進国で起きた事件であり、世界中の関心を集めた。この二つの事件に共通していることは、情報が氾濫しているにも関わらず、真相・真実が分からないということだ。この現実をどう理解すべきだろうか。

 情報化時代であるが故に、溢れる情報はファクトに係るものとフェイクが大半で、真実に係る情報が少ない現実がある。真相/真実に係る情報は、分析と考察に時間と知力を要するが故にもともと希少なのである。

 象徴的な事例を挙げよう。戦後75年が経過したが、「あの戦争は何だったのか」について日本はきちんと総括しただろうか。日本人は敗戦の事実を粛々と受け継いできた一方で、一部の専門家を除き戦争の真相を探る活動にはあまり関心がないように見える。

 一方アメリカでは、開戦時の大統領は第32代フランクリン・ルーズベルトだが、第31代大統領だったハーバート・フーバーが「あの戦争はルーズベルトが起こした陰謀だった」という信念から自ら書いた、「Betrayed Freedom(裏切られた自由)」という本が2011年に発刊された。大統領だった立場を利用して外交文書を読み、当事の関係者にヒアリングを行って20年の歳月をかけて第二次世界大戦を総括したのである。

 アメリカという国が偉大な理由は幾つもあるが、真相に係る情報を集めて分析をし、重大な歴史を総括する文化があることもその一つだろう。

真実を知る能力

 一般に、大手メディアが報じるのは現象に対する報道が主体である。迅速性を重視すれば、「何が起きたのか」を報道することが最優先の命題であるだろう。さらに映像を駆使すれば、いち早く現場に駆けつけて状況を伝えるだけでニュース報道となる。政府が発表する情報をそのまま放映するのも同様であり、もしそこにスキャンダル性がある場合には、何度も繰り返して報道する結果、国民に対しプロパガンダ性を持つことになる。

 事件に対する報道は、どこに軸足を置くかによって、ファクト中心、エンタメ中心、トゥルース中心の三つに分類できるだろう。

 ファクトの報道には迅速性が求められるが、トゥルースの報道には情報収集、分析、考察という手順を踏む必要があることから、事件発生からしばらく経って登場する。

 情報媒体にもそれぞれ特色がある。TVとネットは迅速性を備えているのでファクト中心となりやすく、TVの場合には視聴率を追求すればエンタメ色が強くなる。ネットは誰にでも簡単に情報発信できることから、ファクトに加えフェイクも出やすくなる。これに対して雑誌と書籍は、活字化し印刷するというプロセスを経るためにトゥルース対応に向いている。無論エンタメ中心の雑誌も多いが。

 では報道機関が伝えるべきはファクトかそれともトゥルースか。無論両方なのだが、ファクト報道では迅速性が問われるのに対して、トゥルース報道では迅速性よりも信憑性が求められるので、ある意味で二律背反である。またアナリストの立ち位置によって、分析にはさまざまなバイアスが働くことも否めない。報道機関である以上、NHKを含めて何らかのバイアスをはいているという前提で向きあう他ない。

総括という文化

 総じて日本には総括する文化が希薄であるといえよう。日本人は嫌な事件ほど早く忘れたいという心理が強いのと、責任の所在を明確にすることを嫌う傾向があるからだ。

 しかし、ファクトに留まらず真実を明らかにしない限り、未来に向けた教訓は得られない。情報化時代では、さまざまな事件が次々に起こる。そのためにファクト中心の報道は、新たな事件が起これば否応なしに報道の対象を移してゆくので、誰かが確固たる意思をもって総括をしない限り、真実はうやむやのまま歴史の中に埋没してゆくだろう。

 「戦争は二度と起こしてはならない」と祈るだけでは、次の戦争を防ぐことはできない。何故なら、祈ることが宗教的行為であるのに対して、防ぐことはリアルポリティクスだからだ。真に防ぐためには、その事件が起きた原因を分析し、教訓を引き出して対策を講じなければならない。世界レベルの事件であれば、国際社会における事件の背景と動向の分析も必要だ。

 この視点で考えれば、今回のコロナ事件についても感染の拡大と対処に終始して、「このウィルスの正体は何だったのか、この事件は何だったのか」を総括しないまま、忘却の彼方に放り投げてゆくべきではない。

インテリジェンス

 情報化時代にあっては、溢れる情報に翻弄されるだけでなく情報を活用する側に陣取ることが大事だ。そのためには情報を読み解くリテラシーに加えて、真偽を見分ける能力と情報に向かいあうプリンシプルが求められる。

 たとえば報道情報と分析情報に分けて考えるならば、報道情報は聞き流し、分析情報を丁寧に読むという使い分けが必要だ。そのためにはTVや新聞に加えて、専門誌とネット情報、それに書籍を組み合わせることが必要となる。歴史的な分析、或いは体系的な分析において書籍に勝るものはない。

 何れにしても情報に向かいあう場合には、完璧な全体像と本質は「Never Comes」であることを肝に銘じて、最後は自分の頭で考えることがどうしても必要だ。

 素情報(或いは一次情報)をインフォメーションといい、分析情報(二次情報)をインテリジェンスという。或いは、自分で必要な情報を集め、分析記事を読み、さらに自ら考察を加える作業をインテリジェンスという。

 インテリジェンス能力を磨くことは、情報化時代を生きるための必須能力であると同時に、時にはオレオレ詐欺やフェイク情報、さらにはメディアによるプロパガンダ情報から身を守る術でもある。

 たとえばJBpressという情報サイトがある。ここでは専門家、有識者がそれぞれの視点から、さまざまなテーマについて分析記事を書いている。TVや新聞情報だけからは得られないインテリジェンス情報が得られることは言うまでもない。

 ネットには情報が溢れている。有害な情報も多いが、有益な情報も豊富である。問題は読み手側のインテリジェンスが問われる時代なのだ。

2 thoughts on “インテリジェンス

  1. 大変興味深く拝見しました。

    最も、現役時代はどうしても日々の自らの業務に忙殺され、インテリジェンスのレベルにまで昇華出来ていないのが実状となっています。
    ご意見を踏まえて、自分自身も精進しないといけないなと考えさせられました。

    「老年こそ創造の時代」とあわせて読むとより興味深く感じます。

    1. 昨年は武漢ウィルスで始まり米大統領選で暮れた1年でした。世界と時代の大きな転換点として歴史に刻まれるのでしょう。問いは一体何が終わり何が始まるのかです。

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