終焉を迎えるバブル経済と資本主義

第2部:資本主義の変遷と変質

 本稿を書くにあたり、参照した文献は以下のとおりである。

 資料1:「戦争と財政の世界史、成長の世界システムが終わるとき」、玉木俊明、東洋経済新報社、2023.9.26

資本主義の始まり

 資本主義は欧州で始まった。資本主義の仕組みが形成されていった背景には、大航海時代の幕開けとそれがもたらした植民地化がある。15世紀半ばから17世紀半ばにかけて、先陣を切ったポルトガルとスペインはアフリカ・アジア・アメリカ大陸への航路を相次いで開拓した。大航海時代は海運の発達による物流の拡大と植民地化をもたらした。さらに16世紀には軍事革命が起きて、軍艦の舷側砲やマスケット銃(火縄銃)等が実用化され、植民地化に拍車をかけることとなった。

 資本主義の始まりについては諸説あるが、その一つは1531年にネーデルランド(現在のベルギー、オランダ、ルクセンブルクを統合した地域)のアントウェルペンに取引所が開設されたことを起源とするものだ。アントウェルペンは後にイングランドから半製品の毛織物を輸入して、それを完成品にしてヨーロッパ各地に輸出するという貿易を行い、大航海時代にヨーロッパにおける商品集散地としてヨーロッパ経済の中心となった。

 当時スペイン帝国の統治下にあったネーデルランドは、1568年に独立戦争を開始した。スペインの無敵艦隊が1588年にアルマダの海戦でイギリスに敗れたことを転換点として、スペインに対しオランダが優勢になっていった。他国に先駆けて1602年に東インド会社を設立し、1609年にはアムステルダム銀行が創設されて欧州の商業決済を担うようになり、オランダは欧州の商業決済の中心となった。

 この時期のヨーロッパはカトリックに反発してプロテスタントが生まれた時代であり、神聖ローマ帝国(現在のドイツ他)を舞台に、欧州各国が介入して<三十年戦争>と呼ばれた宗教戦争が1618年に勃発した。戦争が終結した1648年にウェストファリア条約が締結され<ウェストファリア体制>と称する新たな国際秩序(主権国家体制)が形成された。

 オランダはヨーロッパで最初に金融を発達させ、近代的な財政制度を整備した国である。ウェストファリア条約で正式な独立を果たしたが、それ以前からヨーロッパ最大の経済大国だった。但し後のイギリスと異なり、オランダ共和国は一貫して地方分権の国であり、世界初の覇権国となったにも拘らず資本主義は商業ベースだった。オランダ覇権の時代の世界システムは、物流を中心とする商業ネットワークの時代だった。国家から独立した国際貿易商人が商品や、マネーや情報の流通を担う<重商主義の時代>だったのだ。

 重商主義とは国家の輸出を最大化し、輸入を最小化することを目指す国家的な経済政策であり、16世紀~18世紀のヨーロッパ地域で支配的な考えだった。

資本主義のシステム化

 商業活動の仕組みとしての資本主義、経済成長を担う民間の商業活動、国力を形成する経済力と軍事力、経済を運営するための財政、軍事力を強化するための軍事革命の推進等、これらバラバラの要素を関係づけることに最初に成功したのがイギリスだった。それがイギリスを覇権国とした原動力となった。言い換えると、イギリスは経済成長のために「資本主義をシステム化」したことになる。

 システム化というのは現代の用語だが、イギリスが行った「資本主義のシステム化」の本質は「マネーの流れの仕組みづくり」だった。具体的に言えば、民間が行う商業活動に大規模な公的資金投入を可能とする、財政や税の制度を整備することであり、商業活動を活発にするインフラを整備することであり、軍需を拡大して重工業を促進することであり、イギリスが他国に対して優位に立つための法律を整備することだった。

 実際にイギリスは1608年に東インド会社を設立した。1651年には、ピューリタン革命を指導し共和制を敷いたオリヴァー・クロムウェルが「航海法」を制定して、国家主導で海運業を促進した。クロムウェルは1654年には消費税を導入してイギリスの財政を安定化させることに成功している。1694年にはイングランド銀行が創設され、預金・貸付・商業手形・為替等の金融業務を開始した。

 イギリスが進めた政策の中で、「戦争中に借金をしてそれを平時に返却する」という近代的な財政システムを構築したことは特筆に値する。玉木俊明教授は著書の中で、「イギリスの国家財政には、重税に耐えながら経済成長を促す効果があった。これこそがイギリスが戦争に勝ち抜くための資金を提供できた決定的な要因だった。」と述べ、さらに「イギリスは他のヨーロッパ諸国とは異なり、18世紀の内に財政金融システムの中央集権化に成功していた。他国より1世紀も早く、政府の力によって経済を成長させようとしていた。」と指摘する。(参照:資料1)

 1815年6月のワーテルローの戦いで、イギリス・オランダ連合軍はナポレオン率いるフランス軍に勝利して、ナポレオン戦争が終結した。フランス革命とナポレオン戦争終結後のヨーロッパの秩序再建と領土分割を目的として、1814年9月にウィーン会議が開催された。これを契機として<ウィーン体制>と称する新たな国際秩序(国民国家体制)が形成された。そして英仏をモデルとする国民国家が相次いで誕生した。

 ウィーン体制成立と同時に重商主義の時代が終わり、<帝国の時代>となった。商人は国家による保護と国家が提供するインフラの上で商業活動を営むようになった。この時代にイギリスが覇権国家となった要因として、以下の三点を挙げることができる。

 その第一は既に述べてきたように、「資本主義のシステム化」だった。商業ベースだった活動を国家の経済に取り込んで、国家として資本主義を推進したのである。第二は世界最強の海運国家となったことだった。そして第三は世界で最初に産業革命を成し遂げたことだった。

 こうしてイギリスは情報と金融決済の中心となり世界経済システムを掌握したのだった。イギリスは19世紀初頭には世界一の海運国家となり、蒸気船による定期航路を整備して世界の商品輸送と、海上輸送保険(ロイズの前身)を担った。さらに蒸気船を使って世界中の電信網(海底ケーブルを含む)を敷設した。そして20世紀初頭には、世界のトン数の半分を所有するに至った。

 イギリスは18世紀後半に世界で最初の産業革命を実現している。1789年には蒸気機関を動力源とした紡績工場が稼働を開始した。19世紀は「蒸気の時代」と呼ばれ、それを牽引したのはイギリスだった。1806年にはそれまでの軽工業から軍需生産を可能とする重工業に転換して工業化を促進した。

 これらの政策を推進するには巨額の資金を必要としたが、イギリスはイングランド銀行が公債を発行し議会が返済を保証するシステムを構築してその課題を解決した。大英帝国を維持するには巨額の資金を必要としたことは間違いなく、実際に1700年から1800年のイギリスの公債発行額はGDP比で20%から160%に急増している。

 1820年には200%となりピークに達したが、その後経済成長を果たして1900年には約40%に縮小させている。但し「戦争の世紀」と言われた20世紀に入って再び上昇し、第二次世界大戦時には240%に達した。この結果、覇権を維持するコストを負担できなくなって、イギリスからアメリカに覇権が移行したのだった。 

資本主義の変質

 図1に示すように、資本主義の要素は、資金の貸し手としての銀行、新しい事業の担い手としての起業家、生産に従事する労働者、商品を購入すると同時に銀行に預金する消費者とで構成される。

 図1が明示するように、資本主義とはマネーの流れがイノベーションを推進する仕組みであり、言い換えれば、マネーを血流して経済を発展させる仕組みである。アントウェルペンでの取引所開設は商業の始まりで、アムステルダム銀行創設によって銀行の機能が社会に整備されたことによって資本主義経済の原型が創られた。

 スペインとポルトガルが先陣を切った航路開拓は、国際貿易を促進したと同時に欧州各国による海外植民地開拓をもたらした。そして重商主義の時代が始まり、国際貿易商人が商業の場を地域から国家へ、国家から海外の植民地へと拡大していった。

 産業革命は蒸気機関を実用化したことで、生産手段の機械化という革命を起こした。蒸気船の実用化は大航海時代に開拓された航路を定期便とし、植民地と本国の間の物流を活発にして経済の国際化を拡大した。

 銀行の発達は金融を事業化するとともに、マネーの流通を経済の血流とすることに貢献した。さらにイギリスが初めて実現させた中央銀行による公債発行は、政府の資金調達に道を開いた。イギリスは資本主義をシステム化し、商業ベースだった資本主義を国家の経済ベースに格上げしたのである。こうして資本主義というゲームのアクターに国家が加わった。

 現代に至る過程で、資本主義が大きく変質した最大の要因は、マネーの力が強大化したことによる。図2に資本主義の現代版の姿を図解して示す。図1と図2を比較すれば、資本主義がどう変質したのかが分かる。

 注目すべき要点が4つあるので、順に説明しよう。図2で破線で囲った部分は産業の領域を示す。資本主義が始まった16世紀の姿と比べれば、産業が成長して規模が大きくなり、多様化して複雑になり、グローバルになり、さらに時間の進み方が格段に速くなったことを除けば、基本構造は変わっていない。

 第1の要点は、金融市場が形成されたことだ。大きさをイメージする的確な指標が見当たらないが、現在世界のGDP総額が約100兆ドルであるのに対して、世界の債務総額は約300兆ドルと言われる。つまり世界にはGDPの約3倍の債務がある。日本円に換算すると1.4京円と4.2京円という途方もない金額だ。(1ドル=140円で単純計算)

 第2の要点は、金融市場のアクターとして実質的に政府と中央銀行が組み込まれたことだ。政府が国債を発行すれば金融市場から資金を回収することになり、その資金をもとに財政出動を行えば、或いは中央銀行が金融緩和を行えば金融市場に資金が供給される。

 第3の要点は、国際金融資本家の動きである。国際金融資本家は各国の金利差を巧みに利用して巨額の資金を調達して、その資金を将来の有望市場に半ば投機として投入してきた。さらに歴史を振り返れば、国際金融資本家は双方に戦費を用立てて戦争を画策し、高利で回収して大儲けをしてきた。また財務体質がぜい弱な国の通貨を売り浴びせて暴落させ、金融危機を起こすという通貨戦争をも仕掛けてきた。

 日露戦争の例を挙げよう。明治政府は日露戦争(1904~1905)の戦費を約4.5億円(当時のGDPの約2割に相当)と見積もり、この内約1億円(日本銀行が保有する外貨の約2倍)の外債を発行して海外から調達することを閣議決定した。当時イギリスとは同盟関係にあり、当時の高橋是清日銀副総裁が奔走して英米の国際金融資本から調達した。

 そして第4の要点は、ICTの活用が金融の世界を一変させたことだ。ICTを金融取引に最大活用することで、金融は光のスピードで世界中を駆け巡るようになった。株取引は組み込まれたアルゴリズムとAIを搭載したコンピュータどうしが1ミリ秒を争うようになった。さらに大きなレバレッジが利いたリスクある金融商品が次々に生み出された。そしてICTを開発する一握りの企業が、時価主義の金融市場で途方もない資産を独占するようになった。

 以上資本主義が大きく変質した四つの要因について説明したが、それらの総合的な結果として重要なことが二つある。一つはバブル経済が常態化したことであり、他一つはマネーが経済領域に止まらず、政治をも、戦争ですら動かす力を得たことだった。ウクライナ戦争にしても、イスラエル対ハマス戦争にしても、背後にはこの力が働いていることが明白である。

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