弥生時代という転換期
縄文からヤマト建国への移行
時代区分によれば、弥生時代は紀元前300年~紀元300年のおよそ600年間をいう。その後の歴史を知る立場から俯瞰すれば、弥生時代に進行したことは、縄文時代が終わりヤマト建国に向かう転換期で起きた一連の変化だった。主な変化は次のとおりである。
①寒冷化の結果、縄文時代の人口が激減し(中期→晩期に1/3以下に減少)、人々が東から西へ民族大移動を始めた。東から西へ人口や力の重心が移動した。
②人口分布・移民増加・鉄の利用や稲作の普及などにおいて、西と東とで明暗が分かれた。
③西の中でも北部九州は朝鮮半島・中国大陸との交流・交易が活発になり、人・富・力が集中しつつあった。ちなみに九州南部は縄文文化が優勢な地域だった。
④一方、将来の都となる大和盆地では人口が増加し有力な豪族が集結してきた。
⑤邪馬台国をはじめ地域国家(クニ)が各地に誕生しつつあり、縄文時代に力を蓄えてきた大和盆地に陣取る豪族達が危機感を募らせらせた。
銅鐸と鉄器
当時朝鮮半島・中国大陸との交易が活発になっていて、交易の拡大が国内情勢に変化をもたらしつつあった。交易を精力的に進めた地域とそうでない地域に国内は二分され、前者の力が徐々にかつ相対的に大きくなっていった。中でも特筆すべきは鉄である。歴史作家の関裕二氏は著書の中で、次のように述べている。
「ヤマト建国に果たした銅鐸文化圏の役割が想像以上に大きかった。これは考古学が突き止めた事実である。銅鐸は稲作の伝来とほぼ同時期に(紀元前10世紀頃)に朝鮮半島からもたらされたが、やがて西日本の多くの地域で地中に埋納されてしまった。その代表例が出雲の荒神谷(こうじんだに)遺跡である。遺跡からは銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本が出土している。銅鐸を埋めてしまった地域には鉄器がもたらされ、強い王が生まれた。その一方で、近畿地方や東の地域では弥生時代後期に至っても銅鐸文化が維持された。」(資料1)
「弥生時代後期には北部九州が大量の鉄を手に入れて寡占状態を保っていた。北部九州は山陰や瀬戸内海に鉄を供給したが、奈良盆地は鉄の過疎地となった。」(資料1)
大和盆地に東日本からの人々が集結し、大陸との関係の活発化などの情勢変化を踏まえて、ヤマトに勢力を張った東の勢力の中から、北部九州や出雲の勢力を制圧して日本を統一しようとする動きが活発となった。
大和盆地に出現した大規模集落
民族大移動について関裕二氏は次のように分析している。「東から西への民族大移動の結果、3世紀初頭には奈良県三輪山麓の扇状地、「纏向(まきむく)」に忽然と前代未聞の大規模集落が出現した。その南には日本初の市場である海拓榴市(つばいち)も登場した。さらに大和盆地に東海地方の人々が集結し、慌てて各地から人々が押し寄せてきたことが、一気にヤマト建国の機運を高めた要因となった。」(資料1)
但し、纏向に大きな集落ができ市場まで誕生したことが、ヤマト建国の原因だったのかそれとも結果だったのかははっきりしない。ヤマト建国という大事件の一幕であっただけでなく、九州や出雲などを除き大和盆地が次第に中核地域となっていったことは間違いない。
大和盆地に人が集まるようになったのは、瀬戸内海に面した河内、日本海に面した丹波、さらに尾張や東海の豪族にとって、大和盆地が日本の都となるに相応しい要件を備えていたからだろう。大和盆地の地政学的な重要性を当時の実力者が理解していたと考えられる。大和盆地を押さえるものが日本を押さえるというように。
地域国家(クニ)の誕生
中国の『漢書』は、紀元前1世紀頃に「倭国に100ほどのクニが存在していた」と伝えている。これを素直に解釈すれば、中国から眺めると「海を隔てた向こうに倭国という国があり、そこには100程の小さなクニがある」という、ぼんやりとした認識である。倭国というのはそれらの集合体をそう呼んだということで、統一国家の名称ではない。何故なら紀元前1世紀に統一国家は存在していないからだ。クニというのも極めてあいまいである。むしろ『漢書』の記録は、恐らくは地方ごと豪族ごとの集落もしくは集団がバラバラに存在していたという状況を描写したものだろう。
それからおよそ200年後、ヤマト建国前夜には少なくとも以下の四つの勢力がはっきりと存在していた。
①朝鮮半島・大陸との交易を重視する北部九州勢力
②環日本海交易圏を志向していたタニハ勢力(丹波・但馬・若狭を地盤とする、海部・尾張・安積・物部という出雲系の氏族で構成される集団)
③縄文出身で最初に進出して、大和盆地を最初に押さえた東海勢力
④3世紀の河内(現在の大阪)を支配していた吉備勢力(瀬戸内海)
地域国家論で知られた歴史学者の門脇禎二氏は、ヤマト建国前夜には出雲、丹波、若狭、吉備などの地域国家が存在していたと主張している。魏志倭人伝にある邪馬台国と女王卑弥呼の存在については、存在自体を疑問視する説もあるが、もし存在していたとすれば、タニハや吉備に匹敵するクニであったと考えられる。
そして2世紀後半(147-189)に北九州、出雲、丹波で「倭国の大乱」が起きたという記述が中国の複数の歴史書にある。大乱では出雲勢力が敗れタニハが勝利したという。タニハは海部、尾張、安積、物部という出雲系の氏族で構成されていて、出雲の分家が本家を破ったことになる。タニハはまた出雲の背後で暗躍する北部九州勢力と対峙していて、ヤマト建国よりも、環日本海交易圏を志向していたという。(資料1)
以上の情報を総合すると、ヤマト建国前夜の状況は次のようなものだったと考えられる。
①紀元前1世頃に、地域ごと豪族ごとの集落や集団が多数存在していた。
②それから2-3世紀を経て人口が増加し集落や集団の規模が大きくなり、銅器や鉄器の普及とともに豪族の力が増大した。
③その過程で有力な豪族が台頭して、土地や富或いは主導権を巡る紛争が増加した。
④やがて紛争が拡大してクニから統一国家へと向かう潮流が形成されていった。
⑤諸勢力の中から、統一国家建設の中核勢力と実力者が絞られていった。 素直に解釈すれば、倭国の大乱は③から④に相当する時期に広範囲に起きた紛争と考えられる。「大乱」という用語に拘れば④に相当し、ヤマト建国に至る重要な過程だったと考えられる。何れにしてもヤマト統一という事件は優に100年に及ぶ大事件だった。
日高見国と大和
東北大学名誉教授だった田中英道氏は記紀と風土記に記述があることと、鹿島神宮の周辺に「高天原」という地名が現存していることから、縄文時代には既に「日高見国(ひだかみこく)」という国家が存在していて、ヤマト建国とともに日高見国と大和が合体して「大倭日高見国」となったと述べている。(資料2)
祝詞(のりと)に書かれているように、日本はもともと大倭日高見国という国だった。既に述べたように、縄文時代中期には人口の95%以上が中部、関東、東北に集まっていた。その後「大倭」が残り「日高見国」が記憶から薄れていったのは、歴史を書く史部(ふひとべ)に帰化人が多く、その事実を知らなくなっていたからだ。(資料2)
ヤマト建国以前に東に日高見国が存在したことが事実とすると、大和盆地に進出した勢力が日高見国の勢力であって、北部九州や出雲を中心に新興勢力が台頭してきた変化に直面して、併合しようと考えたことがヤマト建国の動機だったと解釈できる。
ちなみに祝詞とは、祭典に奉仕する神職が神に奏上する言葉である。「延喜式(えんぎしき)」という律令の施行細則をまとめた法典には、現存する最古の祝詞として「朝廷の祭儀に関わる二十七編の祝詞」が収録されており、現在でも重視されている。(参照:神社庁HP)
「弥生時代になると、中東から流浪の民である古代ユダヤ人も入ってきた。こうして日高見国から倭国に人口が移動し始めた。寒冷化が進み、三内丸山遺跡など寒い東北や北海道での竪穴式住居では次第に生活できなくなっていったのだ。そして神武天皇と共にほぼ西への移動が完了した。高天原から天孫降臨したという神話はそれを意味している。」(資料2)
天皇家の祖を巡る謎
初代天皇は誰か
そもそも初代天皇は誰か?候補は第1代神武天皇、第10代崇神天皇、第15代応神天皇の三人に絞られる。しかし神武東征が応神天皇による東征の焼き直しと考えられることと、神武天皇の即位年が無理やり紀元前660年とされたことなどから、神武天皇から第9代開花天皇までは天皇家の系譜を体系化するために創作された可能性が高い。
しかし丸ごと創作するのであれば、歴代天皇の在位を操作する必要はなく、天皇の数を増やせばいいだけだ。そうしなかったということは、神武天皇から開花天皇まではヤマト建国以前の時代で、実在した人物(豪族の実力者)をもとに造られた偶像だった可能性が高い。
ヤマト建国以前には縄文から連なる長い歴史があり、既に地方には多くの豪族が存在していたことから、歴史上突然にしかも短期間でヤマト建国が行われたと考えることには無理がある。歴史上の何処かでヤマト建国がなされたことは事実だが、それ以前には複数の有力豪族による連携やら対立やら、或いは地域国家の台頭などの事件や紆余曲折があったと考えられる。日本書紀は編纂された時に整然と体系化された物語であり、史実を忠実に描写したとは限らない。
記紀編纂の方針
神社の伝承から古代を読み解くことに挑んでいる佐藤洋太氏が著書の中で、記紀の編纂について興味深い点を指摘している(資料3)。それは、記紀を編纂した時に少なくとも二つの方針があったというものである。一つは神武天皇の即位を紀元前660年に据えたことであり、他一つは「万世一系」を守ることだった。以下に要点を説明する。
初めに、日本書紀によれば神武天皇の即位年は西暦の紀元前660年とされるが、これは史実ではなく、中国の『讖緯(しんい)説』を用いるために、その年代まで引き延ばされたものだ。どういうことかと言えば、紀元前660という年は、暦の六十干支(ろくじっかんし、つまり「えと」)が辛酉(かのととり)で「帝王が変わる」年と言われ、さらにそれが21回繰り返された特別な年にあたり、「国が興る」年であるという。(資料3)
六十干支と讖緯説を知っていた編者が、天皇の歴史を体系化するにあたり、初代天皇の即位年を西暦660年としたということである。神武天皇即位の年を紀元前660年に据えた結果、神武天皇127歳、神功皇后摂政在位69年など、上古の天皇の寿命と即位年があり得ない程に過去に大幅に伸ばされた。
もう一つの方針は、「万世一系」に反する不都合な天皇の存在は、たといそれが史実であったとしても天皇家の系譜から削除することだった。代表的な例が邪馬台国の女王卑弥呼と台与(とよ)である。これについては後述する。
三人のキーパーソン
ヤマト王権誕生以前に大和を支配していたのは東海系のナガスネヒコだったが、その後吉備のニギハヤヒがヤマトに乗り込んできて、ナガスネヒコから大和の支配権を奪った。さらにその後東征を終えて第15代応神天皇が大和にやってくると、ニギハヤヒは王権を応神天皇に譲った。これが日本書紀に書かれている物語であり、ヤマト建国の物語の核心部分である。歴史の世界でこの三人は同じ時代を生きた人物であり、ヤマト建国に直接関わった当事者と考えられる。
時代背景として注目すべきは、吉備で生まれた埋葬文化が発展して大和で前方後円墳が誕生し、前方後方墳を造り上げた近江・東海と前方後円墳の原型を造っていた吉備が合併してヤマト建国の中心勢力を形成していた事実である。しかも大和盆地では吉備勢力が主導権を持っていたという。(資料1)
そう考えると、吉備のニギハヤヒは東海のナガスネヒコよりも実力・格が上で、そのニギハヤヒから見て応神はヤマト王権の正統の存在だったことになる。応神天皇は系譜では仲哀天皇と神功皇后の子だが、実際は武内宿禰(すくね)と神功皇后の子だったという説もある。
記紀は崇神天皇の母と祖母が物部系だったと記録している。もしそれが史実であれば崇神天皇は実在した人物で、さらに物部氏の祖がニギハヤヒだったことを考慮すると、ニギハヤヒが崇神天皇だった可能性が高い。
天皇家の祖を考える
天皇家の祖は誰か。この謎を幾つかの視点から検証してみよう。
第一の視点は豪族である。天皇家の祖と近い関係にある豪族としては物部氏の他に、蘇我氏、海部(あまべ)氏などが知られている。物部氏は日高見国=縄文系の豪族でニギハヤヒを祖とし、神道を推進する代表格である。
一方、蘇我氏は秦氏の流れを組む新興勢力で仏教推進派だった。蘇我氏の祖は武内宿禰である。武内宿禰は第8代孝元天皇の孫にあたり、古事記によれば第12代景行天皇から第16代仁徳天皇に仕えた伝説上の忠臣で、蘇我氏をはじめ多くの中央有力豪族の祖として知られている。つまりヤマト王権成立前夜で最も影響力のある豪族は武内宿禰だったことになる。
海部氏は、京都府丹後半島の籠神社(元伊勢神社の一つ)の宮司を代々務める由緒ある家柄で、現代の当主は第83代であるという。国宝に指定されている海部氏系図を辿ると、祖先は天皇家と深い関りを持っていることが分かる。
第二の視点は神社との関係である。天皇家と深い関りがある神社に関して論点を整理してみる。以下の理由から、記紀が編纂されたときに、鹿島神宮と香取神宮はさまざまな意味で天皇家に近いと認識された存在だったことが明らかである。
①天皇家は縄文時代からの太陽神を祖とする。
②日本書紀が明記しているように、鹿島神宮創設は神武天皇即位と同じ年で、「紀元前660年の辛酉(かのととり)」であり、香取神宮創設はその18年後である。
③鹿島神宮は中臣氏(藤原氏)の祖先神を祀る神社であり、香取神宮は物部氏の祖先を祀る神社である。
④江戸時代以前に「神宮」を名乗る神社は、鹿島・香取両神宮に加えて伊勢神宮しか存在しなかった。鹿島・香取とも縄文時代を代表する神社であり、日高見国と深い関りをもっている。しかも両神宮とも本州最東端、即ち最初に太陽が昇る地にある。
第三の視点は、ヤマト建国に関わった人物である。既に述べたように、ニギハヤヒ(饒速日命)がナガスネヒコ(長脛彦)から大和の支配権を譲り受けた物語が、いわゆる「大和への天孫降臨」と考えられることから、そうすると初代天皇=崇神天皇=ニギハヤヒの可能性が高まる。
第四の視点は、記紀の編集方針である。既に述べたように、日本書紀が編纂されたときに考慮された二つの方針は、神武天皇の即位年を紀元前660年とすることと、「万世一系」を貫くことだった。
上記視点を考慮し、この謎を改めて俯瞰してみると、初代天皇は誰かと問うこと自体あまり意味がないように思われる。そう考える理由は二つある。第一に、ヤマト建国は1万年以上続いた縄文時代が終焉し、新しい時代へ移行する転換点で起きた事件であり、整斉粛々と進んだ筈がなく、多くの事件や紆余曲折を乗り越えて成し遂げられた偉業である。その紆余曲折のどこが新体制の始まりなのかと問うことにどれほどの意味があるのかだ。
第二に、そもそも祖先を辿ってゆけば祖先は過去に遡るほど収束してゆき、ミトコンドリア・イブではないが、全ての人の祖先は最終的には一人の人物に行き着くことになる。
天皇家の場合も同じで、祖は誰かと辿ってゆけば当時の複数の有力豪族と共通の祖先に辿り着くであろう。何故なら当時の有力な豪族の中から天皇家が誕生したと考えられるからだ。しかもその有力な豪族が一つとは限らない。むしろ複数の豪族の遠い祖先が後の天皇家と深い関係にあったとしても何ら不思議ではない。天皇家の祖と有力豪族の祖を辿る「複数の糸」は絡み合っていて、単純な形には収束しないであろう。
日本書紀の信憑性
「天皇」という称号を最初に使ったのは第40代天武天皇であるが、日本書紀では神武以降の歴代が天皇と称されている。つまり記紀を編纂した人々が、天武天皇期に初めて使われた「天皇」という称号を、実存がはっきりしない神武にまで遡って当て嵌めているために、ヤマト王権の真の初代が分からなくなっているのである。これをミステリーと捉えれば、そこには日本書紀を編纂した作者の意図が隠れているのかもしれない。
日本書紀は歴史書ではなく、天武天皇(673~686)が編纂を命じて、第44代元正天皇の720年に完成した物語である。ヤマト王権成立の物語は、縄文時代が終わって弥生時代を経て古墳時代が始まる転換点において、文字が存在しなかった時代の記憶と伝承をもとに綴られた、新体制の成立を体系的に描いた物語なのだ。
日本書紀の記述の信憑性を考える上で、考慮すべきことがもう一つある。それは日本書紀を編纂した中心人物が藤原不比等だということだ。不比等は中臣鎌足の子で、父の鎌足は645年に起きた「乙巳(いっし)の変」で、中大兄皇子(後に第38代天智天皇)と共謀して挙兵し、蘇我入鹿を暗殺し蘇我宗家を滅亡させている。蘇我氏は武内宿禰の系譜に名を連ねる豪族である。
関裕二氏は、「日本書紀の編者である藤原不比等からすれば、蘇我氏の祖の功績を歴史に残す気はなく、蘇我氏の祖が天皇家の系譜に名を連ねる事実も隠ぺいし神話に封印した」という。(資料1)つまり日本書紀編纂の背景には、藤原氏と蘇我氏の主導権争いがあり、両豪族とも天皇家の系譜と深い関りを持っている。「天皇家の祖は誰か」を考える上で、その片方が日本書紀編纂の中心人物だった事実を軽視すべきではないだろう。
ヤマト建国に関わる謎
倭国の大乱
日本の古代は、縄文時代が16,500~2,300年前、弥生時代は紀元前300~紀元300の600年、古墳時代はヤマト建国の3世紀後半以降と区分される。そしてヤマト建国と同時に古墳時代が始まった。
弥生時代にヤマト建国に至る過程で起きた事件に関しては、未だに解明されていない謎が存在する。その代表的なものは倭国と邪馬台国、並びに卑弥呼に関わるものである。以下に要点を整理する。
謎1:倭国とはどこに存在したのか。九州北部か、出雲から畿内にかけてか、北九州・畿内・山陰に及ぶ広い地域か。視点を変えれば、倭国は一つの地域国家(クニ)だったのか、それとも統一国家だったのか。
Wikipediaの記述を引用すれば、「倭ないし倭人が、中国の歴史書に登場するのは、弥生時代中期の紀元前150年頃のことであり、中国では、『漢書』に記された前漢代にあたる。『漢書地理志』によると、紀元前2世紀から紀元前後頃にかけて100余りのクニを形成していたことが知られていた。」という。
謎2:147~189年頃に倭国で大乱が起きた。中国正史でいう大乱は王朝の交代を意味するというが、「倭国の大乱」はヤマト建国の一過程だったのか、それとも地域的な事件だったのか。
200年頃、邪馬台国で卑弥呼が即位したという。倭国は元々男子の王が統治していた。紀元57及び107年に、倭国から後漢に遣使していて、57年遣使の時に光武帝から金印を授かっている。
謎3:そして卑弥呼は248年に死去し、壱与または台与(イヨ、トヨ)が女王に即位した。「卑弥呼は倭国の大乱で死亡した、若しくは殺された」という説もあるが、上記年代が正しいとすれば、倭国の大乱と卑弥呼死亡の年代は合致しない。また、卑弥呼の即位が200年頃で死亡が248年であれば十分長寿であり、老衰だった可能性もある。
邪馬台国
邪馬台国は266年以降歴史から姿を消している。理由は不明である。
Wikipediaでは、「ヤマト王権は大和盆地及び河内平野を本拠とし2〜3世紀頃に瀬戸内海周辺、山陰及び北九州を含む西日本全域、東海などの地域にまで勢力を及ぼし、原始的な国家ないし国家連合として成立し、纏向遺跡などの計画都市を造営した。4世紀以降では関東・北陸・南九州などをも統合、王権の象徴となる巨大な前方後円墳を築いた。」とある。
ヤマトによる国家統一は2~4世紀にかけて段階的に地域を拡大していったことが分かる。そうだとすれば、その過程で地域国家(クニ)は順次平定されていったことになり、「266年頃に邪馬台国がヤマトに平定され消滅した」可能性は十分あり得る。そして、もしそうであれば邪馬台国は一地方に存在したクニだったことになる。
このように倭国と邪馬台国、女王卑弥呼を巡る謎は多い。佐藤洋太氏は「卑弥呼(初代女王)と台与(2代女王とよ)は地方国家の女王ではなく、天皇家の系譜の中にいた可能性が高い」と考察している。台与は266年に30歳で崇神天皇と結婚したとされるが、台与の父親が不明であり、卑弥呼と台与を天皇家の系譜に組み入れると、「万世一系」が崩れるために、系図から排除されたという。(資料3)
神功皇后
日本書紀によれば、第10代崇神天皇(紀元前97~紀元前30年)と第15代応神天皇(紀元270~310年)の間には、4人の天皇がいて、更に天皇が不在だった神功皇后の摂政期(201~269年)がある。この間に倭国の大乱(2世紀後半)が起き、ヤマトタケルによる熊襲征伐(2世紀末)があった。
西暦に置き換えるとこのとおりだが、数字が過去に大幅に引き伸ばされているので、そのまま受け止めることはできない。疑問点は次のとおりである。
①崇神天皇の在位は67年に及ぶ。
②崇神天皇から応神天皇まで6人の天皇が407年を統治している計算になり、単純計算で平均任期は約68年である。
③但しその間に、神功皇后が摂政を務めた期間が68年あり、この期間天皇は不在だった。
67~68年という数値が均等に割り振られて、作為的に全体が引き伸ばされた感がある。前述したように、これは神武天皇即位年を紀元前660年としたために引き伸ばされた結果である。
ヤマト王権成立前夜の事件として、もう一つの事件がある。それはヤマトタケル(第12代景行天皇の子)、第14代仲哀天皇(同孫)、神功皇后(仲哀天皇の后)が揃って北部九州に遠征していることだ。西暦に換算して比較すると、神功皇后の摂政期は卑弥呼が死亡した248年と重なっている。
ここから「神功皇后が邪馬台国を滅ぼし卑弥呼を殺害した」という説が出てくるのだが、崇神天皇から応神天皇に至る系譜自体が過去に引き伸ばされていることを考えれば、むしろ佐藤洋太氏が言うように、卑弥呼の存在を表舞台から消去するために神功皇后の摂政期を重ねたという解釈の方にリアリティがある。
ヤマトタケル
ヤマト王権による日本統一を成し遂げるために、出雲勢力と北部九州勢力を従わせることが必須要件だったことは事実だが、年代を不問としても、神功皇后の大遠征もヤマトタケルによる熊襲征伐も史実なのかどうかはっきりしない。
蒲池明弘氏は、ヤマトタケルの征伐は天孫降臨とは全く関係なく、火山噴火の混乱の歴史を辿った記憶を綴ったものだと、次のように解釈している。
ヤマトタケルが西国遠征で成し遂げた仕事は、九州南部と出雲の勇者を殺したことだけである。ヤマトタケルの戦いをヤマト建国の戦争の一幕とするには不審なことが多い。ヤマトタケルの戦いの舞台となった九州南部と出雲は、国譲りと天孫降臨の舞台と完全に重複する。ヤマトタケルが九州南部と出雲で殺したのはクマソタケルとイズモタケルで三人の名前は固有名詞ではなく、<タケル>という抽象的な存在でしかない。もし<タケル>が火山に象徴されるエネルギーを示しているのなら、九州南部と出雲の「火山的混沌」に他ならず、ヤマトタケルの西国遠征は天孫降臨と国譲りの焼き直しでしかない。(資料4)
伊勢神宮
伊勢神宮はいつ造営されたのか。アマテラスは天皇家の皇祖神だが、第41代持統天皇が692年に僥倖している以外に、その後明治天皇に至るまで歴代天皇は誰も伊勢神宮に参拝されていないのは何故か。ヤマト建国に直結する伊勢神宮には、幾つかの謎が存在している。
関裕二氏は、伊勢神宮が今の形に整備されたのは7世紀後半のことだったことを考古学調査が明らかにしたという。(資料1)ちなみに持統天皇の在位は690~697年である。
伊勢神宮に関して、公式HPには次のように書かれている。
天孫降臨以来、アマテラスは宮中に祀られてきたが、崇神天皇は御殿を共にすることが恐れ多いと考え、アマテラスをふさわしい場所に祀る決意をした。
第11代垂仁(すいにん)天皇の皇女倭姫命(やまとひめのみこと)が大和、伊賀、近江、美濃、伊勢を訪ねた折に、アマテラスは「この神風の伊勢の国は、・・・美しい国である。この国にいようと思う。」と言われた。この教えに従い、皇女倭姫命は伊勢の五十鈴川の川上に宮を建てた。これが二千年前に遡る皇大神宮御鎮座の歴史である。
垂仁天皇の在位は紀元前29~紀元70であり、考古学調査の結果と合致しない。日本書紀の編纂は第40代天武天皇が指示し、藤原不比等が編纂を統括したものである。基本的な認識として、歴代天皇の系譜も、史実と神話の関係も、伊勢神宮の整備も、天武天皇と持統天皇の7世紀に、ヤマト建国の勝者側の立場で整備されたという認識が必要である。
京都府丹後半島に「元伊勢」と呼ばれる神社が複数ある。元伊勢神社には、伊勢神宮(内宮と外宮)造営以前に、天照大御神(内宮の主祭神)と豊受大御神(外宮の主祭神)が祀られていた。伝承によれば、伊勢を永遠の鎮座地とする前にアマテラスは25回引越しをしたという。
「元伊勢神社」の一つに籠(この)神社がある。籠神社のHPにはアマテラスが伊勢神宮に祀られる以前の状況について興味深い記述がある。要点は次のとおりである。
崇神天皇の御代にアマテラスは、「倭国笠縫邑(かさぬいむら)」から遷られた後、豊受大神と一緒に4年間、現在籠神社の奥宮として知られる眞名井神社の匏宮(よさのみや)に祀られていた。なお笠縫邑の現在地は不明である。
豊受大神はそれ以前に、神代の遠く遥かな昔から奥宮の眞名井原にある匏宮(よさのみや)に祀られてきた。伊勢神道によれば、伊勢神宮下宮の主祭神である豊受大神は万物を生み出す神で記紀の始原神であり、天之御中主神(あめのみなかぬし)および国常立神(くにのとこたち)と同一神とされている。もしそうだとすれば、「始原神が遠く遥かな昔から丹後半島の眞名井神社に祀られていた」ことになる。但し、神社本庁はこの説をとらず、「豊受大御神はお米をはじめ衣食住の恵みをお与えくださる産業の守護神」としている。
アマテラスは第11代垂仁天皇(紀元前29~紀元70)の時に、豊受大神は第21代雄略天皇(456~479)の時にそれぞれ伊勢に遷られた。
その後、養老三年(719)に本宮を奥宮眞名井神社から、現在の籠神社へ遷し、社名を吉佐宮(よさのみや)から籠宮(このみや)と改め、天孫彦火明命(ひこほあかりのみこと)を主祭神としてお祀りした。ちなみに彦火明命は海部家の祖である。
豊受大神は古事記には登場するが、日本書紀には登場しない。もし始原神であるとすれば、とても不可解という他ない。この事実をどう理解すればいいのだろうか。この謎を解くカギは、日本書紀と古事記の違いにある。
日本書紀が歴代天皇の系譜を天皇家側から綴った、藤原不比等の編集意図が反映された書であるのに対して、古事記は各地の風土記の記述にも配慮した、さりげなく日本書紀の記述に異議を唱える書、言い換えればヤマト建国における敗者側の視点から綴られた書である。豊受大神が丹後半島の眞名井神社に神代から祀られていたことと、アマテラスよりも大幅に遅れて伊勢神宮下宮に主祭神として祀られた事実を合わせて考えれば、豊受大神はヤマト建国の敗者、即ちヤマト王権に制圧された豪族の祖先として祀られていた可能性がある。
参照資料
1.『イザナキとイザナミの正体』、関裕二、PHP新書
2.『日本創生史』、田中英道、ダイレクト出版
3.『神武天皇と卑弥呼の時代』、佐藤洋太、古代史考証
4.『火山で読み解く古事記の謎』、蒲池明弘、文藝出版

