日本文明の源流を探る(2)

弥生時代という転換期

縄文からヤマト建国への移行

 時代区分によれば、弥生時代は紀元前300年~紀元300年のおよそ600年間をいう。その後の歴史を知る立場から俯瞰すれば、弥生時代に進行したことは、縄文時代が終わりヤマト建国に向かう転換期で起きた一連の変化だった。主な変化は次のとおりである。

①寒冷化の結果、縄文時代の人口が激減し(中期→晩期に1/3以下に減少)、人々が東から西へ民族大移動を始めた。東から西へ人口や力の重心が移動した。

②人口分布・移民増加・鉄の利用や稲作の普及などにおいて、西と東とで明暗が分かれた。

③西の中でも北部九州は朝鮮半島・中国大陸との交流・交易が活発になり、人・富・力が集中しつつあった。ちなみに九州南部は縄文文化が優勢な地域だった。

④一方、将来の都となる大和盆地では人口が増加し有力な豪族が集結してきた。

⑤邪馬台国をはじめ地域国家(クニ)が各地に誕生しつつあり、縄文時代に力を蓄えてきた大和盆地に陣取る豪族達が危機感を募らせらせた。

銅鐸と鉄器

 当時朝鮮半島・中国大陸との交易が活発になっていて、交易の拡大が国内情勢に変化をもたらしつつあった。交易を精力的に進めた地域とそうでない地域に国内は二分され、前者の力が徐々にかつ相対的に大きくなっていった。中でも特筆すべきは鉄である。歴史作家の関裕二氏は著書の中で、次のように述べている。

 「ヤマト建国に果たした銅鐸文化圏の役割が想像以上に大きかった。これは考古学が突き止めた事実である。銅鐸は稲作の伝来とほぼ同時期に(紀元前10世紀頃)に朝鮮半島からもたらされたが、やがて西日本の多くの地域で地中に埋納されてしまった。その代表例が出雲の荒神谷(こうじんだに)遺跡である。遺跡からは銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本が出土している。銅鐸を埋めてしまった地域には鉄器がもたらされ、強い王が生まれた。その一方で、近畿地方や東の地域では弥生時代後期に至っても銅鐸文化が維持された。」(資料1)

 「弥生時代後期には北部九州が大量の鉄を手に入れて寡占状態を保っていた。北部九州は山陰や瀬戸内海に鉄を供給したが、奈良盆地は鉄の過疎地となった。」(資料1)

 大和盆地に東日本からの人々が集結し、大陸との関係の活発化などの情勢変化を踏まえて、ヤマトに勢力を張った東の勢力の中から、北部九州や出雲の勢力を制圧して日本を統一しようとする動きが活発となった。

大和盆地に出現した大規模集落

 民族大移動について関裕二氏は次のように分析している。「東から西への民族大移動の結果、3世紀初頭には奈良県三輪山麓の扇状地、「纏向(まきむく)」に忽然と前代未聞の大規模集落が出現した。その南には日本初の市場である海拓榴市(つばいち)も登場した。さらに大和盆地に東海地方の人々が集結し、慌てて各地から人々が押し寄せてきたことが、一気にヤマト建国の機運を高めた要因となった。」(資料1)

 但し、纏向に大きな集落ができ市場まで誕生したことが、ヤマト建国の原因だったのかそれとも結果だったのかははっきりしない。ヤマト建国という大事件の一幕であっただけでなく、九州や出雲などを除き大和盆地が次第に中核地域となっていったことは間違いない。

 大和盆地に人が集まるようになったのは、瀬戸内海に面した河内、日本海に面した丹波、さらに尾張や東海の豪族にとって、大和盆地が日本の都となるに相応しい要件を備えていたからだろう。大和盆地の地政学的な重要性を当時の実力者が理解していたと考えられる。大和盆地を押さえるものが日本を押さえるというように。

地域国家(クニ)の誕生

 中国の『漢書』は、紀元前1世紀頃に「倭国に100ほどのクニが存在していた」と伝えている。これを素直に解釈すれば、中国から眺めると「海を隔てた向こうに倭国という国があり、そこには100程の小さなクニがある」という、ぼんやりとした認識である。倭国というのはそれらの集合体をそう呼んだということで、統一国家の名称ではない。何故なら紀元前1世紀に統一国家は存在していないからだ。クニというのも極めてあいまいである。むしろ『漢書』の記録は、恐らくは地方ごと豪族ごとの集落もしくは集団がバラバラに存在していたという状況を描写したものだろう。

 それからおよそ200年後、ヤマト建国前夜には少なくとも以下の四つの勢力がはっきりと存在していた。

①朝鮮半島・大陸との交易を重視する北部九州勢力

②環日本海交易圏を志向していたタニハ勢力(丹波・但馬・若狭を地盤とする、海部・尾張・安積・物部という出雲系の氏族で構成される集団)

③縄文出身で最初に進出して、大和盆地を最初に押さえた東海勢力

④3世紀の河内(現在の大阪)を支配していた吉備勢力(瀬戸内海)

 地域国家論で知られた歴史学者の門脇禎二氏は、ヤマト建国前夜には出雲、丹波、若狭、吉備などの地域国家が存在していたと主張している。魏志倭人伝にある邪馬台国と女王卑弥呼の存在については、存在自体を疑問視する説もあるが、もし存在していたとすれば、タニハや吉備に匹敵するクニであったと考えられる。 

 そして2世紀後半(147-189)に北九州、出雲、丹波で「倭国の大乱」が起きたという記述が中国の複数の歴史書にある。大乱では出雲勢力が敗れタニハが勝利したという。タニハは海部、尾張、安積、物部という出雲系の氏族で構成されていて、出雲の分家が本家を破ったことになる。タニハはまた出雲の背後で暗躍する北部九州勢力と対峙していて、ヤマト建国よりも、環日本海交易圏を志向していたという。(資料1)

 以上の情報を総合すると、ヤマト建国前夜の状況は次のようなものだったと考えられる。

①紀元前1世頃に、地域ごと豪族ごとの集落や集団が多数存在していた。

②それから2-3世紀を経て人口が増加し集落や集団の規模が大きくなり、銅器や鉄器の普及とともに豪族の力が増大した。

③その過程で有力な豪族が台頭して、土地や富或いは主導権を巡る紛争が増加した。

④やがて紛争が拡大してクニから統一国家へと向かう潮流が形成されていった。

⑤諸勢力の中から、統一国家建設の中核勢力と実力者が絞られていった。 素直に解釈すれば、倭国の大乱は③から④に相当する時期に広範囲に起きた紛争と考えられる。「大乱」という用語に拘れば④に相当し、ヤマト建国に至る重要な過程だったと考えられる。何れにしてもヤマト統一という事件は優に100年に及ぶ大事件だった。

日高見国と大和

 東北大学名誉教授だった田中英道氏は記紀と風土記に記述があることと、鹿島神宮の周辺に「高天原」という地名が現存していることから、縄文時代には既に「日高見国(ひだかみこく)」という国家が存在していて、ヤマト建国とともに日高見国と大和が合体して「大倭日高見国」となったと述べている。(資料2)

 祝詞(のりと)に書かれているように、日本はもともと大倭日高見国という国だった。既に述べたように、縄文時代中期には人口の95%以上が中部、関東、東北に集まっていた。その後「大倭」が残り「日高見国」が記憶から薄れていったのは、歴史を書く史部(ふひとべ)に帰化人が多く、その事実を知らなくなっていたからだ。(資料2)

 ヤマト建国以前に東に日高見国が存在したことが事実とすると、大和盆地に進出した勢力が日高見国の勢力であって、北部九州や出雲を中心に新興勢力が台頭してきた変化に直面して、併合しようと考えたことがヤマト建国の動機だったと解釈できる。

 ちなみに祝詞とは、祭典に奉仕する神職が神に奏上する言葉である。「延喜式(えんぎしき)」という律令の施行細則をまとめた法典には、現存する最古の祝詞として「朝廷の祭儀に関わる二十七編の祝詞」が収録されており、現在でも重視されている。(参照:神社庁HP)

 「弥生時代になると、中東から流浪の民である古代ユダヤ人も入ってきた。こうして日高見国から倭国に人口が移動し始めた。寒冷化が進み、三内丸山遺跡など寒い東北や北海道での竪穴式住居では次第に生活できなくなっていったのだ。そして神武天皇と共にほぼ西への移動が完了した。高天原から天孫降臨したという神話はそれを意味している。」(資料2)

天皇家の祖を巡る謎

初代天皇は誰か

 そもそも初代天皇は誰か?候補は第1代神武天皇、第10代崇神天皇、第15代応神天皇の三人に絞られる。しかし神武東征が応神天皇による東征の焼き直しと考えられることと、神武天皇の即位年が無理やり紀元前660年とされたことなどから、神武天皇から第9代開花天皇までは天皇家の系譜を体系化するために創作された可能性が高い。

 しかし丸ごと創作するのであれば、歴代天皇の在位を操作する必要はなく、天皇の数を増やせばいいだけだ。そうしなかったということは、神武天皇から開花天皇まではヤマト建国以前の時代で、実在した人物(豪族の実力者)をもとに造られた偶像だった可能性が高い。

 ヤマト建国以前には縄文から連なる長い歴史があり、既に地方には多くの豪族が存在していたことから、歴史上突然にしかも短期間でヤマト建国が行われたと考えることには無理がある。歴史上の何処かでヤマト建国がなされたことは事実だが、それ以前には複数の有力豪族による連携やら対立やら、或いは地域国家の台頭などの事件や紆余曲折があったと考えられる。日本書紀は編纂された時に整然と体系化された物語であり、史実を忠実に描写したとは限らない。

記紀編纂の方針

 神社の伝承から古代を読み解くことに挑んでいる佐藤洋太氏が著書の中で、記紀の編纂について興味深い点を指摘している(資料3)。それは、記紀を編纂した時に少なくとも二つの方針があったというものである。一つは神武天皇の即位を紀元前660年に据えたことであり、他一つは「万世一系」を守ることだった。以下に要点を説明する。

 初めに、日本書紀によれば神武天皇の即位年は西暦の紀元前660年とされるが、これは史実ではなく、中国の『讖緯(しんい)説』を用いるために、その年代まで引き延ばされたものだ。どういうことかと言えば、紀元前660という年は、暦の六十干支(ろくじっかんし、つまり「えと」)が辛酉(かのととり)で「帝王が変わる」年と言われ、さらにそれが21回繰り返された特別な年にあたり、「国が興る」年であるという。(資料3)

 六十干支と讖緯説を知っていた編者が、天皇の歴史を体系化するにあたり、初代天皇の即位年を西暦660年としたということである。神武天皇即位の年を紀元前660年に据えた結果、神武天皇127歳、神功皇后摂政在位69年など、上古の天皇の寿命と即位年があり得ない程に過去に大幅に伸ばされた。

 もう一つの方針は、「万世一系」に反する不都合な天皇の存在は、たといそれが史実であったとしても天皇家の系譜から削除することだった。代表的な例が邪馬台国の女王卑弥呼と台与(とよ)である。これについては後述する。

三人のキーパーソン

 ヤマト王権誕生以前に大和を支配していたのは東海系のナガスネヒコだったが、その後吉備のニギハヤヒがヤマトに乗り込んできて、ナガスネヒコから大和の支配権を奪った。さらにその後東征を終えて第15代応神天皇が大和にやってくると、ニギハヤヒは王権を応神天皇に譲った。これが日本書紀に書かれている物語であり、ヤマト建国の物語の核心部分である。歴史の世界でこの三人は同じ時代を生きた人物であり、ヤマト建国に直接関わった当事者と考えられる。

 時代背景として注目すべきは、吉備で生まれた埋葬文化が発展して大和で前方後円墳が誕生し、前方後方墳を造り上げた近江・東海と前方後円墳の原型を造っていた吉備が合併してヤマト建国の中心勢力を形成していた事実である。しかも大和盆地では吉備勢力が主導権を持っていたという。(資料1)

 そう考えると、吉備のニギハヤヒは東海のナガスネヒコよりも実力・格が上で、そのニギハヤヒから見て応神はヤマト王権の正統の存在だったことになる。応神天皇は系譜では仲哀天皇と神功皇后の子だが、実際は武内宿禰(すくね)と神功皇后の子だったという説もある。

 記紀は崇神天皇の母と祖母が物部系だったと記録している。もしそれが史実であれば崇神天皇は実在した人物で、さらに物部氏の祖がニギハヤヒだったことを考慮すると、ニギハヤヒが崇神天皇だった可能性が高い。

天皇家の祖を考える

 天皇家の祖は誰か。この謎を幾つかの視点から検証してみよう。

 第一の視点は豪族である。天皇家の祖と近い関係にある豪族としては物部氏の他に、蘇我氏、海部(あまべ)氏などが知られている。物部氏は日高見国=縄文系の豪族でニギハヤヒを祖とし、神道を推進する代表格である。

 一方、蘇我氏は秦氏の流れを組む新興勢力で仏教推進派だった。蘇我氏の祖は武内宿禰である。武内宿禰は第8代孝元天皇の孫にあたり、古事記によれば第12代景行天皇から第16代仁徳天皇に仕えた伝説上の忠臣で、蘇我氏をはじめ多くの中央有力豪族の祖として知られている。つまりヤマト王権成立前夜で最も影響力のある豪族は武内宿禰だったことになる。

 海部氏は、京都府丹後半島の籠神社(元伊勢神社の一つ)の宮司を代々務める由緒ある家柄で、現代の当主は第83代であるという。国宝に指定されている海部氏系図を辿ると、祖先は天皇家と深い関りを持っていることが分かる。

 第二の視点は神社との関係である。天皇家と深い関りがある神社に関して論点を整理してみる。以下の理由から、記紀が編纂されたときに、鹿島神宮と香取神宮はさまざまな意味で天皇家に近いと認識された存在だったことが明らかである。

①天皇家は縄文時代からの太陽神を祖とする。

②日本書紀が明記しているように、鹿島神宮創設は神武天皇即位と同じ年で、「紀元前660年の辛酉(かのととり)」であり、香取神宮創設はその18年後である。

③鹿島神宮は中臣氏(藤原氏)の祖先神を祀る神社であり、香取神宮は物部氏の祖先を祀る神社である。

④江戸時代以前に「神宮」を名乗る神社は、鹿島・香取両神宮に加えて伊勢神宮しか存在しなかった。鹿島・香取とも縄文時代を代表する神社であり、日高見国と深い関りをもっている。しかも両神宮とも本州最東端、即ち最初に太陽が昇る地にある。

 第三の視点は、ヤマト建国に関わった人物である。既に述べたように、ニギハヤヒ(饒速日命)がナガスネヒコ(長脛彦)から大和の支配権を譲り受けた物語が、いわゆる「大和への天孫降臨」と考えられることから、そうすると初代天皇=崇神天皇=ニギハヤヒの可能性が高まる。

 第四の視点は、記紀の編集方針である。既に述べたように、日本書紀が編纂されたときに考慮された二つの方針は、神武天皇の即位年を紀元前660年とすることと、「万世一系」を貫くことだった。

 上記視点を考慮し、この謎を改めて俯瞰してみると、初代天皇は誰かと問うこと自体あまり意味がないように思われる。そう考える理由は二つある。第一に、ヤマト建国は1万年以上続いた縄文時代が終焉し、新しい時代へ移行する転換点で起きた事件であり、整斉粛々と進んだ筈がなく、多くの事件や紆余曲折を乗り越えて成し遂げられた偉業である。その紆余曲折のどこが新体制の始まりなのかと問うことにどれほどの意味があるのかだ。

 第二に、そもそも祖先を辿ってゆけば祖先は過去に遡るほど収束してゆき、ミトコンドリア・イブではないが、全ての人の祖先は最終的には一人の人物に行き着くことになる。

 天皇家の場合も同じで、祖は誰かと辿ってゆけば当時の複数の有力豪族と共通の祖先に辿り着くであろう。何故なら当時の有力な豪族の中から天皇家が誕生したと考えられるからだ。しかもその有力な豪族が一つとは限らない。むしろ複数の豪族の遠い祖先が後の天皇家と深い関係にあったとしても何ら不思議ではない。天皇家の祖と有力豪族の祖を辿る「複数の糸」は絡み合っていて、単純な形には収束しないであろう。

日本書紀の信憑性

 「天皇」という称号を最初に使ったのは第40代天武天皇であるが、日本書紀では神武以降の歴代が天皇と称されている。つまり記紀を編纂した人々が、天武天皇期に初めて使われた「天皇」という称号を、実存がはっきりしない神武にまで遡って当て嵌めているために、ヤマト王権の真の初代が分からなくなっているのである。これをミステリーと捉えれば、そこには日本書紀を編纂した作者の意図が隠れているのかもしれない。

 日本書紀は歴史書ではなく、天武天皇(673~686)が編纂を命じて、第44代元正天皇の720年に完成した物語である。ヤマト王権成立の物語は、縄文時代が終わって弥生時代を経て古墳時代が始まる転換点において、文字が存在しなかった時代の記憶と伝承をもとに綴られた、新体制の成立を体系的に描いた物語なのだ。

 日本書紀の記述の信憑性を考える上で、考慮すべきことがもう一つある。それは日本書紀を編纂した中心人物が藤原不比等だということだ。不比等は中臣鎌足の子で、父の鎌足は645年に起きた「乙巳(いっし)の変」で、中大兄皇子(後に第38代天智天皇)と共謀して挙兵し、蘇我入鹿を暗殺し蘇我宗家を滅亡させている。蘇我氏は武内宿禰の系譜に名を連ねる豪族である。

 関裕二氏は、「日本書紀の編者である藤原不比等からすれば、蘇我氏の祖の功績を歴史に残す気はなく、蘇我氏の祖が天皇家の系譜に名を連ねる事実も隠ぺいし神話に封印した」という。(資料1)つまり日本書紀編纂の背景には、藤原氏と蘇我氏の主導権争いがあり、両豪族とも天皇家の系譜と深い関りを持っている。「天皇家の祖は誰か」を考える上で、その片方が日本書紀編纂の中心人物だった事実を軽視すべきではないだろう。

ヤマト建国に関わる謎

倭国の大乱

 日本の古代は、縄文時代が16,500~2,300年前、弥生時代は紀元前300~紀元300の600年、古墳時代はヤマト建国の3世紀後半以降と区分される。そしてヤマト建国と同時に古墳時代が始まった。

 弥生時代にヤマト建国に至る過程で起きた事件に関しては、未だに解明されていない謎が存在する。その代表的なものは倭国と邪馬台国、並びに卑弥呼に関わるものである。以下に要点を整理する。

 謎1:倭国とはどこに存在したのか。九州北部か、出雲から畿内にかけてか、北九州・畿内・山陰に及ぶ広い地域か。視点を変えれば、倭国は一つの地域国家(クニ)だったのか、それとも統一国家だったのか。

 Wikipediaの記述を引用すれば、「倭ないし倭人が、中国の歴史書に登場するのは、弥生時代中期の紀元前150年頃のことであり、中国では、『漢書』に記された前漢代にあたる。『漢書地理志』によると、紀元前2世紀から紀元前後頃にかけて100余りのクニを形成していたことが知られていた。」という。

 謎2:147~189年頃に倭国で大乱が起きた。中国正史でいう大乱は王朝の交代を意味するというが、「倭国の大乱」はヤマト建国の一過程だったのか、それとも地域的な事件だったのか。

 200年頃、邪馬台国で卑弥呼が即位したという。倭国は元々男子の王が統治していた。紀元57及び107年に、倭国から後漢に遣使していて、57年遣使の時に光武帝から金印を授かっている。

 謎3:そして卑弥呼は248年に死去し、壱与または台与(イヨ、トヨ)が女王に即位した。「卑弥呼は倭国の大乱で死亡した、若しくは殺された」という説もあるが、上記年代が正しいとすれば、倭国の大乱と卑弥呼死亡の年代は合致しない。また、卑弥呼の即位が200年頃で死亡が248年であれば十分長寿であり、老衰だった可能性もある。

邪馬台国

 邪馬台国は266年以降歴史から姿を消している。理由は不明である。

 Wikipediaでは、「ヤマト王権は大和盆地及び河内平野を本拠とし2〜3世紀頃に瀬戸内海周辺、山陰及び北九州を含む西日本全域、東海などの地域にまで勢力を及ぼし、原始的な国家ないし国家連合として成立し、纏向遺跡などの計画都市を造営した。4世紀以降では関東・北陸・南九州などをも統合、王権の象徴となる巨大な前方後円墳を築いた。」とある。

 ヤマトによる国家統一は2~4世紀にかけて段階的に地域を拡大していったことが分かる。そうだとすれば、その過程で地域国家(クニ)は順次平定されていったことになり、「266年頃に邪馬台国がヤマトに平定され消滅した」可能性は十分あり得る。そして、もしそうであれば邪馬台国は一地方に存在したクニだったことになる。

 このように倭国と邪馬台国、女王卑弥呼を巡る謎は多い。佐藤洋太氏は「卑弥呼(初代女王)と台与(2代女王とよ)は地方国家の女王ではなく、天皇家の系譜の中にいた可能性が高い」と考察している。台与は266年に30歳で崇神天皇と結婚したとされるが、台与の父親が不明であり、卑弥呼と台与を天皇家の系譜に組み入れると、「万世一系」が崩れるために、系図から排除されたという。(資料3)

神功皇后

 日本書紀によれば、第10代崇神天皇(紀元前97~紀元前30年)と第15代応神天皇(紀元270~310年)の間には、4人の天皇がいて、更に天皇が不在だった神功皇后の摂政期(201~269年)がある。この間に倭国の大乱(2世紀後半)が起き、ヤマトタケルによる熊襲征伐(2世紀末)があった。

 西暦に置き換えるとこのとおりだが、数字が過去に大幅に引き伸ばされているので、そのまま受け止めることはできない。疑問点は次のとおりである。

①崇神天皇の在位は67年に及ぶ。

②崇神天皇から応神天皇まで6人の天皇が407年を統治している計算になり、単純計算で平均任期は約68年である。

③但しその間に、神功皇后が摂政を務めた期間が68年あり、この期間天皇は不在だった。

 67~68年という数値が均等に割り振られて、作為的に全体が引き伸ばされた感がある。前述したように、これは神武天皇即位年を紀元前660年としたために引き伸ばされた結果である。

 ヤマト王権成立前夜の事件として、もう一つの事件がある。それはヤマトタケル(第12代景行天皇の子)、第14代仲哀天皇(同孫)、神功皇后(仲哀天皇の后)が揃って北部九州に遠征していることだ。西暦に換算して比較すると、神功皇后の摂政期は卑弥呼が死亡した248年と重なっている。

 ここから「神功皇后が邪馬台国を滅ぼし卑弥呼を殺害した」という説が出てくるのだが、崇神天皇から応神天皇に至る系譜自体が過去に引き伸ばされていることを考えれば、むしろ佐藤洋太氏が言うように、卑弥呼の存在を表舞台から消去するために神功皇后の摂政期を重ねたという解釈の方にリアリティがある。

ヤマトタケル

 ヤマト王権による日本統一を成し遂げるために、出雲勢力と北部九州勢力を従わせることが必須要件だったことは事実だが、年代を不問としても、神功皇后の大遠征もヤマトタケルによる熊襲征伐も史実なのかどうかはっきりしない。

 蒲池明弘氏は、ヤマトタケルの征伐は天孫降臨とは全く関係なく、火山噴火の混乱の歴史を辿った記憶を綴ったものだと、次のように解釈している。

 ヤマトタケルが西国遠征で成し遂げた仕事は、九州南部と出雲の勇者を殺したことだけである。ヤマトタケルの戦いをヤマト建国の戦争の一幕とするには不審なことが多い。ヤマトタケルの戦いの舞台となった九州南部と出雲は、国譲りと天孫降臨の舞台と完全に重複する。ヤマトタケルが九州南部と出雲で殺したのはクマソタケルとイズモタケルで三人の名前は固有名詞ではなく、<タケル>という抽象的な存在でしかない。もし<タケル>が火山に象徴されるエネルギーを示しているのなら、九州南部と出雲の「火山的混沌」に他ならず、ヤマトタケルの西国遠征は天孫降臨と国譲りの焼き直しでしかない。(資料4)

伊勢神宮

 伊勢神宮はいつ造営されたのか。アマテラスは天皇家の皇祖神だが、第41代持統天皇が692年に僥倖している以外に、その後明治天皇に至るまで歴代天皇は誰も伊勢神宮に参拝されていないのは何故か。ヤマト建国に直結する伊勢神宮には、幾つかの謎が存在している。

 関裕二氏は、伊勢神宮が今の形に整備されたのは7世紀後半のことだったことを考古学調査が明らかにしたという。(資料1)ちなみに持統天皇の在位は690~697年である。

 伊勢神宮に関して、公式HPには次のように書かれている。

 天孫降臨以来、アマテラスは宮中に祀られてきたが、崇神天皇は御殿を共にすることが恐れ多いと考え、アマテラスをふさわしい場所に祀る決意をした。

 第11代垂仁(すいにん)天皇の皇女倭姫命(やまとひめのみこと)が大和、伊賀、近江、美濃、伊勢を訪ねた折に、アマテラスは「この神風の伊勢の国は、・・・美しい国である。この国にいようと思う。」と言われた。この教えに従い、皇女倭姫命は伊勢の五十鈴川の川上に宮を建てた。これが二千年前に遡る皇大神宮御鎮座の歴史である。

 垂仁天皇の在位は紀元前29~紀元70であり、考古学調査の結果と合致しない。日本書紀の編纂は第40代天武天皇が指示し、藤原不比等が編纂を統括したものである。基本的な認識として、歴代天皇の系譜も、史実と神話の関係も、伊勢神宮の整備も、天武天皇と持統天皇の7世紀に、ヤマト建国の勝者側の立場で整備されたという認識が必要である。

 京都府丹後半島に「元伊勢」と呼ばれる神社が複数ある。元伊勢神社には、伊勢神宮(内宮と外宮)造営以前に、天照大御神(内宮の主祭神)と豊受大御神(外宮の主祭神)が祀られていた。伝承によれば、伊勢を永遠の鎮座地とする前にアマテラスは25回引越しをしたという。

 「元伊勢神社」の一つに籠(この)神社がある。籠神社のHPにはアマテラスが伊勢神宮に祀られる以前の状況について興味深い記述がある。要点は次のとおりである。

 崇神天皇の御代にアマテラスは、「倭国笠縫邑(かさぬいむら)」から遷られた後、豊受大神と一緒に4年間、現在籠神社の奥宮として知られる眞名井神社の匏宮(よさのみや)に祀られていた。なお笠縫邑の現在地は不明である。

 豊受大神はそれ以前に、神代の遠く遥かな昔から奥宮の眞名井原にある匏宮(よさのみや)に祀られてきた。伊勢神道によれば、伊勢神宮下宮の主祭神である豊受大神は万物を生み出す神で記紀の始原神であり、天之御中主神(あめのみなかぬし)および国常立神(くにのとこたち)と同一神とされている。もしそうだとすれば、「始原神が遠く遥かな昔から丹後半島の眞名井神社に祀られていた」ことになる。但し、神社本庁はこの説をとらず、「豊受大御神はお米をはじめ衣食住の恵みをお与えくださる産業の守護神」としている。

 アマテラスは第11代垂仁天皇(紀元前29~紀元70)の時に、豊受大神は第21代雄略天皇(456~479)の時にそれぞれ伊勢に遷られた。

 その後、養老三年(719)に本宮を奥宮眞名井神社から、現在の籠神社へ遷し、社名を吉佐宮(よさのみや)から籠宮(このみや)と改め、天孫彦火明命(ひこほあかりのみこと)を主祭神としてお祀りした。ちなみに彦火明命は海部家の祖である。

 豊受大神は古事記には登場するが、日本書紀には登場しない。もし始原神であるとすれば、とても不可解という他ない。この事実をどう理解すればいいのだろうか。この謎を解くカギは、日本書紀と古事記の違いにある。

 日本書紀が歴代天皇の系譜を天皇家側から綴った、藤原不比等の編集意図が反映された書であるのに対して、古事記は各地の風土記の記述にも配慮した、さりげなく日本書紀の記述に異議を唱える書、言い換えればヤマト建国における敗者側の視点から綴られた書である。豊受大神が丹後半島の眞名井神社に神代から祀られていたことと、アマテラスよりも大幅に遅れて伊勢神宮下宮に主祭神として祀られた事実を合わせて考えれば、豊受大神はヤマト建国の敗者、即ちヤマト王権に制圧された豪族の祖先として祀られていた可能性がある。

参照資料

 1.『イザナキとイザナミの正体』、関裕二、PHP新書

 2.『日本創生史』、田中英道、ダイレクト出版

 3.『神武天皇と卑弥呼の時代』、佐藤洋太、古代史考証

 4.『火山で読み解く古事記の謎』、蒲池明弘、文藝出版

 日本古代史の謎

エピローグ

 3年半ほど前に『奇跡の物語、日本の誕生』と題した記事を書いた。伊勢谷武氏が『アマテラスの暗号』というミステリー小説を書いている。「ダ・ヴィンチ・コード」や「天使と悪魔」、「インフェルノ」など、ダン・ブラウンが書いて映画化されたミステリー小説に匹敵する面白さである。形式はミステリー小説の形をとっているが、この本は日本神話の謎に挑んだ秀作と言っていい。

 言うまでもなく、日本は世界最長の歴史を持ち、しかも紀元前から続く万世一系の天皇制を保持し、世界から独立した文明をもっている。古事記に綴られた神話は日本の成立と日本人の起源に係る謎を解読するための暗号である。

 付図に、日本の古代史の主要事件の全体像を描いてみた。

火山列島の誕生

 約3,000万年前にユーラシア大陸の東端で二つの陸塊が大陸から引き剥がされて分離を始めた。1,500万年前には海水が流れ込んで日本海が形成された。約300万年前にはフィリピン海プレートと太平洋プレートが西に向きを変える「東西圧縮」が起きて、東西二つの陸塊が合体して日本列島の原型が出来上がった。そして約2万年前に日本列島はほぼ現在の姿になった。以上が日本列島誕生の大掴みな歴史である。

 つまり日本列島は火山列島として誕生した。現実に過去12万年の間に超巨大噴火(噴火マグニチュードM7以上)であるカルデラ噴火が九州と北海道の7つの火山で11回も発生している。最後に起きた鬼界カルデラ噴火は7,300年前であり、南九州で暮らしていた縄文人は絶滅したという。大規模噴火(M4、M5)~巨大噴火(M6)は過去2,000年間に63回発生している。

 参考までに代表的なカルデラ湖を上げると、屈斜路湖、支笏湖、洞爺湖、摩周湖、十和田湖、蔵王のお釜、芦ノ湖、池田湖等々がある。また阿蘇のカルデラは湖にこそなっていないが、世界最大級のカルデラである。

日本人の祖先集団

 約7万年前に「出アフリカ」を敢行したホモ・サピエンスの祖先集団が、凡そ3万年に及ぶ「グレート・ジャーニー」を成し遂げて、約4万年前に日本列島に到達した。彼らは更に2~3万年の歳月をかけて日本各地に移住して日本人の祖先集団となった。

 世界では約260万年前から旧人ホモ・エレクトスが手斧を使うようになり、旧石器時代が始まった。日本列島でも10万年程前の旧石器時代の遺跡が発掘され石器が出土しているものの、ホモ・サピエンス以前の旧人が存在した可能性について未だ統一見解はない。

 一方で最近のDNA分析は、現代の日本人が世界で最も旧人デニソワ人のDNAを引き継いでいる事実を明らかにした。今後DNA分析が進むことが予測され、日本人が何処からきてどう形成されたのかについて詳細な足跡が解明されてゆくことが期待される。

縄文時代の始まり

 日本列島は四季に恵まれた温帯にあり、二つの海流に囲まれた世界有数の火山列島であり、豊富な水と山海の幸があり、領土の奪い合いも殺戮もなく平穏に暮らしてゆけた日本列島は、旧石器時代から世界でも唯一無二の恵まれた環境だった違いない。その環境が世界で孤立した文明を生み、さまざまな民族を引き寄せ、多様な民族・文化・宗教の融合が生まれて日本という国が形成されたのだった。

 16,500年前に作られた世界最古の土器が青森県の大平山元遺跡から出土した。これ以降BC10世紀までを縄文時代と呼ぶ。縄文人は世界に先駆けて土器を使っていただけでなく、6つの「縄文の国宝」にみられる高い芸術性を備えていたことが分かっている。6つの国宝が発掘された遺跡は、茅野市、函館市、八戸市、十日町市、山形県舟形町であり、何れも東日本に分布していることが注目される。この事実は、当時の縄文時代の中心が東日本にあったことを物語っている。

 縄文人にとって火山は身近な存在だったことが明らかだ。火山は畏怖の対象であると同時に、火、温泉、希少な石(黒曜石、翡翠他)という恵みを与えてくれる存在でもあった。縄文人にとって火山は自然に信仰の対象となったことだろう。

三内丸山遺跡

 日本には後期旧石器時代の遺跡は全国に1万以上あり、密度において世界最多であるという。中でも最も注目すべき遺跡が三内丸山遺跡で、凡そ5,500年前から4,000年前まで使用されていただけでなく、同様の集落は全国に分布していた。

 東北大学名誉教授の田中英道氏は、三内丸山遺跡について次のように考察を加えている。

<遺跡には居住空間と広大な墓地、盛り土で囲まれた公共空間の三領域があり、共同体としての村落の機能、さらに言えば都市国家の基本を備えていた。さらに巨木の柱で作られた建造物があり、後の出雲大社本殿に繋がる神社の原型と考えられる。>

<三内丸山遺跡は、縄文時代が高い宗教心を持った時代で、日本の基層文化として原初の姿を宿している。住居域と隣接したところに墓域があることから、御霊信仰を基本とする神道の概念が存在していた。>

 日本の古代史は、後期旧石器時代→縄文時代(16,500年前~)→弥生時代(BC10世紀~)→古墳時代(AD3世紀~)と推移した。三内丸山遺跡は縄文時代に神社の原形が自然発生的に形成され、死者を祀る神道の原型が作られていたことを物語っている。同様の集落が東日本を中心に作られ、太陽信仰の場として香取神宮と鹿島神宮が作られた。現代の建築様式が登場する以前の神社の原型とともに、国家の骨組みが登場する以前の古代国家の原型が縄文時代に存在していたことが窺える。

移民が起こした革命       

 日本の古代史には大別して三段階の移民があった。第1段として、出アフリカを果たしたサピエンスが約4万年前に到来して縄文人の祖先となった。第2段として、滅亡した祖国を出た古代ユダヤ人が相次いで到来した。そして第3段として、弥生から古墳時代にかけて優に100万人を超える渡来者が大陸からやってきた。ちなみに、縄文時代末期の人口は10~20万人だったと推定されている。

 第1段の移民については既に述べた。

 第2段のユダヤの民は三波に分かれて渡来したことが確認されている。第1波はBC8世紀に滅亡した北イスラエル王国の「失われた十支族」の末裔である。第2波はBC6世紀に滅亡した南ユダ王国のダビデ王の末裔である。そして第3波はAD68にローマ帝国から追放され流浪の民(ディアスポラ)となった原始キリスト教エルサレム教団のユダヤ人である。彼らはシルクロードを東に向かい、中央アジアの弓月国と中国の秦国を経由して日本に到来した。彼らは「大秦国(ローマ帝国)から来た秦氏」と名乗っていたという。

 なかでも第3波の秦氏を名乗っていた集団の活躍が特に注目される。後述するように、彼らは大和王権の成立、神仏習合の促進、神社の創建等、日本国の形成に多大な貢献をしている。さらに大胆に推理すれば、第1波及び第2波で到来した古代ユダヤ人は滅亡した古代イスラエル王国と南ユダ王国の末裔であって、定住して後に豪族となるなど日本に国家ができる過程で有形無形の貢献をした可能性が充分考えられる。

 神武天皇が即位したのがBC660年、第10代崇神天皇の在位はBC97年~BC46年で、何れも弥生時代のことだった。古墳時代は第15代応神天皇(AD270~310)の頃に始まったとされるから、秦氏が到来した時期は中国で秦王朝が崩壊したBC206以降の弥生時代だったと推定されている。

 次に第3段として弥生時代から古墳時代にかけて大陸から大量の移民が渡来した。縄文から弥生時代への移行は、この大量の渡来者がもたらした革命の結果だった。渡来者は製鉄、醸造、灌漑等に係る技術の他、漢字や律令制に係る知識をもたらし、その変化が狩猟採集から農耕へ縄文時代から弥生時代への移行という革命を引き起こしたのだった。 

大和王権の成立

 大和王権は、天皇家となった氏族を中心に全国の豪族が統合される形で形成された。大和王権が成立したのは、奈良に前円後方墳が作られるようになった古墳時代、第15代応神天皇(AD270~310)、または第16代仁徳天皇(AD313~399)の頃である。

 秦氏は他の豪族と比べて目立たない存在だったが、皇族を支え大和王権の確立に際立った貢献を果たした。弥生から古墳時代にかけて大和王権を樹立して国家の礎を創った立役者だったのである。

 既に述べたように、大陸から縄文人の人口よりも桁外れに多い渡来人がやってきたことが、狩猟採集社会だった縄文時代から農耕社会の弥生時代への革命を起こした。渡来者を中心とした新しい文化圏が北九州を中心に誕生して、社会の重心が東日本から西日本へ移り、日本列島に土着していた縄文人は、列島の隅々に追いやられたのだった。

 そして弥生から古墳時代への移行期には、大和王権のもとに日本を統一する国家の骨組みが形成されていった。聖徳太子が定めた17条の憲法や冠位12階、仏教の普及等がその基礎となった。古墳時代は天皇家を中心に豪族が協力して大和王権を確立し、重心が大和に移動した時代だったのである。

日本列島に自然発生した神道

 火山列島の日本に、旧石器時代から縄文時代にかけて自然発生的に神道の原型となる信仰が生まれた。信仰の対象は太陽や火山の他、巨石・巨木等自然界のさまざまな造形だったに違いない。とりわけ太陽は恩恵の象徴であり、火山の噴火は畏怖を代表する存在だった。

 西行法師が伊勢神宮を参拝した時に詠んだ「何事のおわしますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼるる」という一句に込められた信仰心が、縄文時代に自然に育まれたと考えられる。

 神道は日本の美しく豊かな自然から生まれ、様々なものを包み込みながら、長い歳月をかけて人間の営みと自然との対話の中で熟成されてきた信仰である。トインビーが指摘したように、神道は全ての宗教をまとめることができる宗教の原点としての特徴を備えている。

 後述するように、聖徳太子に仕えた秦河勝は「神道と仏教の習合こそが日本には相応しい」と考えて、日本全国に神社を創建するという途方もない尽力をしたのだが、そもそも一神教の信奉者だったユダヤ人が日本に帰依して、神道の普及に人生をかけたのは何故だろうか?

 その謎を解くためには、当時の日本・日本人と、彼らの祖国である古代ユダヤ王国・ユダヤ人との間に存在する決定的な相違点に注目する必要がある。祖国が滅ぼされて離散の民(ディアスポラ)となり遠く離れた日本列島までやってきたユダヤ人の祖先は、祖国で戦争に破れ征服されて奴隷となった経験をしている。一方日本列島は戦争も征服も奴隷も無縁だった。自然の恵みが豊かで奪い合う必要がなかったからだ。

 そう考えると、彼らが幾ら熱心な一神教の信者であったとしても、この楽園のような日本列島で暮らす内に、自然に畏怖し恩恵に感謝する神道という信仰を葛藤なく受け容れていったのではないだろうか。心で素直に感じる信仰が理屈で武装された宗教を融解させてしまったということだ。

 ここで日本の古代史で展開された変化について、二つの仮説に思い至る。一つは「自然の中に畏怖と恩恵の対象(太陽と火山等)がある環境が多神教を育んだ」ということであり、他一つは「多神教が生まれる環境には一神教が入り込む余地がない」ということである。

 田中英道氏は、「仏教は日本で聖徳太子の法隆寺と共に神道化している。神道の共同宗教としての御霊信仰と、仏教の個人宗教としての人生観が聖徳太子の思想の中に融合し、太子としての皇祖神信仰とともに、日本の宗教の基本が出来上がっていった。」と洞察している。

 そう考えると、大和王権成立の過程で、旧石器時代からの縄文人もユダヤ人やアジアからの渡来者も、或いは神道の信仰をもつ人も、ユダヤ教や古代キリスト教の信者だった人も、仏教を信仰する人々も、争うことなく協力して王権の成立を受け容れた歴史が垣間見えるのである。

神社の起源

 神社庁が管轄する神社が約8万社、管轄外を含めて日本には約12万社の神社が存在する。内訳は、稲荷神社(総本宮は伏見稲荷大社)が約3万社、八幡神社(同宇佐神宮)が管轄外を含めて約4万社(最多)、八坂神社が約2,900社、白山神社が約2,700社、日吉神社、日枝神社、山王神社合計で約2,000社(総本社は松尾大社)、金毘羅神社が1,900社となっている。

 この内、伏見稲荷大社は秦氏の創建であり、宇佐神宮は秦氏の本拠地にあって主祭神は秦氏を日本に受け入れた応神天皇である。白山信仰の聖地である白山の開祖も秦氏であり、松尾大社を創建したのも秦氏であるという。この事実を踏まえると、日本に神道を普及させた最大の功労者は秦氏一族であると言っても過言ではない。

 古事記の神話ではアマテラスを最高神とする高天原の神々の物語と、出雲を舞台に繰り広げられた国譲りの物語(オオクニヌシがアマテラスに対し国を譲る)が大きなテーマとなっているが、出雲大社、熊野本宮大社、諏訪大社、香取神宮、鹿島神宮に祀られている神は、何れも大国主に代表される「国津神」であり、これら神社の起源は何れも縄文時代にある。

 それに対して、「天津神」の代表である伊勢神宮が現在の形になったのは7世紀末~8世紀初めである。この事実は、天津神よりも国津神の方が歴史的に遥かに古く、言い方を変えれば大和王権が誕生する以前に各地方に国津神が存在したことを物語っている。

 ちなみに鹿島神宮の創建は神武天皇元年(BC660)であり、第10代崇神天皇(BC97~46)の命を受けて第11代垂仁天皇(BC29~AD70)の時に創建された伊勢神宮よりも600年以上も古い。

 神社の形(建築様式等)が定まったのは大和王権が成立した古墳時代であるが、田中英道氏は「三内丸山遺跡には巨木の柱で作られた建造物があり、後の出雲大社本殿に繋がる神社の原型と考えられる」と述べている。

 神話では、神々が住む高天原(たかまがはら)、人間が住む葦原中国(あしはらのなかつくに)、地下の黄泉の国(よみのくに)の三つの世界があり、高天原にいる神々を天津神(あまつかみ)と総称し、葦原中国に現れた神々を国津神(くにつかみ)と総称する。

 神話には「出雲の国譲り」の物語が登場するが、出雲には葦原中国を代表するような大きな国が存在した記録はなく、「出雲国風土記」に国譲り神話はないという。また現在の出雲大社は明治まで杵築(きづき)大社と呼ばれていて、出雲の神とは京都にある出雲大神宮のことだった。つまり国譲りが行われたのは京都で、出雲大神宮がその舞台だったと考えられる。

 日本三景の一つ天橋立の近くに、籠(この)神社という古い神社がある。西日本で最も古く由緒正しい神社の一つで、神話に関わる謎を秘めた神社である。特に籠神社の奥宮である眞名井(まない)神社は籠神社発祥の神社で、なんと神紋はユダヤの六芒星である。真名井神社の「真名」とはユダヤの三種の神器の一つ「マナの壺」を意味していて、古代の神社とユダヤの関連性を物語っている。

聖徳太子と秦河勝

 第33代推古天皇(AD592~628)の摂政として活躍した聖徳太子のブレーンとなり、太子が進める政策を支援した秦河勝という人物がいた。「縄文由来の神道に、伝来した仏教を組み合わせた神仏習合こそが日本に相応しい」と考えた河勝は、広隆寺、大覚寺、仁和寺等の寺院、宇佐神宮や伏見稲荷大社の創建に尽力して日本国の骨格作りに多大な貢献を果たしている。

 弥勒菩薩半枷思惟像で有名な広隆寺は、秦氏が平安京の本拠地である太秦(うずまさ)に創建した寺院で、別名を太秦寺という。中国の「大秦(だいしん)寺」が景教の寺として建立されたように、広隆寺は当初はキリスト教ネトリウス派(景教)の隠れ寺として創建されたという。余談になるが、エルサレムの語源は「エル・シャローム」で平安京という意味であるという。

 既に述べたように、神社の創建と普及に秦氏が幾代にもわたって尽力したことが明らかにされているが、一体秦氏は何故そこまで神道の普及に尽力したのだろうか。

 素直に解釈すれば、日本の風土で暮らす内に、イスラエルから持ってきた宗教も民族も捨てて日本に帰依した結果と考えられる。さらに養蚕、織物、灌漑、土木、建築、冶金、農業の技術を使って莫大な富を作り、政治、経済、文化、宗教だけでなく、猿楽、散楽、雅楽、伎楽などの分野に多大な影響を及ぼす活躍をした。

 ユダヤの民族・宗教・文化と日本古来の民族・宗教・文化が邂逅して、二つが融合する形で一体化したと考えられる。旧石器時代を経て1万年以上も続いた縄文時代において、日本の環境で育まれてきた信仰(神道)を土台として、秦氏が持ち込んだユダヤ教、原始キリスト教が融合し、更に聖徳太子の時代に伝来した仏教も融合して現在に至る神道が形作られた。そう考えられるのだ。

 秦河勝にとって古代イスラエル国家の再興という願いが、日本で天皇制を強固で普遍的なものにし、その上で国家を建設するという使命感に転化したのではないだろうか。

記紀の成立

 日本書紀と古事記は第40代天武天皇(673~686)が編纂を命じたもので、何れも奈良時代の8世紀初め(古事記は712年、日本書紀は720年)に成立している。未だ文字がなかった旧石器時代及び縄文時代の記憶をもとに古事記は稗田阿礼と太安万侶によって編纂され、日本書紀は舎人親王によって編纂された。

 古事記は大和王権が日本を平定していった歴史を、大和王権の正統性を裏打ちする神話として描いたものだ。その古事記の神話と旧約聖書、ギリシャ神話には物語の類似性が多いと言われる。ギリシャ神話はBC15世紀頃、旧約聖書はBC5~4世紀に成立した。ユダヤ教の成立は出エジプトの時でBC13世紀に遡る。

 古代史研究家である蒲池明広氏は、日本神話と旧約聖書の関係について両者の類似性と相違点について、次のように指摘している。旧約聖書を下敷きにしたものの、日本の風土に合致するように、自然の造形と神の関係さえも書き変えている点はとても興味深い。

<旧約聖書と日本神話は、一方が流浪の民となったユダヤ民族、他方は島国という安全地帯に定住した大和民族という、運命が異なる二つの民族の神話である。二つの神話には類似性がある一方で、旧約聖書は自然さえも神が創ったとするが、日本神話では神以前に自然がありその自然から神が生まれている。>

 田中英道氏は、記紀が編纂された時代背景について、次のように考察している。

<奈良時代には神話、宗教、詩歌、美術、建築など、全ての原型と理想が表現されていた。そこには日本の歴史の古典という様式があり、他の時代では創造できない独立した時代でもあった。西洋では国民国家の誕生はフランス革命以降とされているが、日本では国民・国家意識が7、8世紀に既に成立していた。>

<この時代の共同体観を知る上で、飛鳥時代の聖徳太子の十七条の憲法や隋との外交、大化の改新、そして白鳳時代の天武天皇による一連の施策、律令体制の確立、仏教思想の導入の過程を辿るために、日本の成り立ちを語る日本書紀と続日本紀を紐解くことが必要だ。>

神話の成立

 神話学の世界的権威レヴィ=ストロースは、「世界の神話は歴史との連続性はないが、唯一日本神話だけは歴史と結びつき、神話から歴史への移行は巧妙である。」と評している。恐らくその理由は、天皇家が日本を統一していった正統性を神話によって裏打しようとする意図のもとに編纂されたからだろう。

 たとえば田中英道氏は、神話の「天孫降臨」と当時の社会に起きていた大規模な移民の到来が起こした重心の移動との関係について、次のように分析している。

<天孫降臨は、寒冷化による東国から西国への人口移動に伴い、日本の中心が移動したことを意味している。東国は大和国家の東方にある一大国として常に存在していて、西国に増加した帰化人を東国に送り込むことも多かった。東国に圧倒的に多く出土する人物埴輪には、明らかに渡来人の風貌をしているものが多く見受けられる。>

日本人はどこから来たか

 日本人はどこから来たのかについて、近年DNA分析を駆使した研究成果が公表されている。

 それによると、日本人のDNAには世界でも稀な大きな多様性があるという。サピエンスはアフリカを出てレバント地方(アラビア半島の地中海に面した地域)へ渡った後、太陽が昇る方向をめざして東へ東へと歩き、3万年に及ぶ「グレート・ジャーニー」を果たして最終的に日本列島にやってきた。この過程で、さまざまな民族のDNAがブレンドされて、最後に日本人のDNAが形成されたと考えられる。

 アフリカを脱出したサピエンスがアジアに辿り着くと、北上して中国人となったグループと、南下して東南アジア人となったグループに分岐した。しかし縄文人はその何れでもなく分岐する前の人類で、現在地球上に縄文人と同じDNAを持つ人類は存在しないという。だとすると、彼らはどのルートを通って日本にやってきたのだろうか?

 サピエンスの前に出アフリカを果たしてユーラシア大陸に拡散した旧人に、ネアンデルタール人とデニソワ人の存在がある。ネアンデルタール人はユーラシア大陸のヨーロッパ側に、デニソア人はアジア側に住み着いたことが分かっている。そして日本人はデニソワ人のDNAを最も強く引き継いでいる民族であることが解明されているが、一体どう考えればいいのだろうか?

 DNA分析で人種の特徴や系譜を調べる場合、母方のミトコンドリア染色体を使う方法と父方のY染色体を使う方法の二つがある。日本人の場合ミトコンドリア染色体の分析からは目立った特徴が発見されていないが、Y染色体の分析は日本人がもつ非常に特異的な事実を明らかにしている。

 第一に日本人はとても多様な民族であることだ。Y染色体の遺伝子構造は大別してAからRまで18のハブログループに分類できる。人類がアフリカを出た後のハブログループはC、DとE、F~Rの3グループに分類できるが、世界で唯一、日本にはその全てのグループが存在するという。

 この事実はユーラシア大陸の東端に位置する日本が、複数の民族にとって「グレート・ジャーニー」の最終目的地だったことと符合する。その結果、古代日本は人種のるつぼとなったのだ。

 もう一つ重要な事実がある。それは日本人にはOとDとCが多く、特にDは40%存在するが、中国、モンゴル、朝鮮半島にOとCは多いがDはゼロに近いことだ。ハブログループDは世界で一カ所だけ、チベット、ミャンマーとインド洋のアンダマン諸島に存在する。さらに古代イスラエル王国の「失われた十支族」の内、マナセ族とエフライム族はDだったという。ここにも謎が存在する。日本にDを持ち込んだ民族は、中国や朝鮮半島を経由せずに日本に来たことになる。

古代史の謎

 16,500年前に始まり13,000年以上も続いた縄文時代には、シベリア、朝鮮半島、南方からさまざまな民族が渡来した。さらに弥生時代には大陸から当時の人口を遥かに上回る規模の移民がやってきた。文字通り人種のるつぼだった日本列島に、万世一系の天皇を中心とする国が平穏に形成されたことは奇跡に等しい、日本古代史の謎である。

 古事記に綴られた神話は、天皇家が諸国を統一していった歴史をもとに創作された物語であるから、謎を解くカギは神話の中に記されていることになる。

 神話に登場する神々の系譜は、天御中主神(アメノミナカヌシ)に始まり、造化三神(アメノミナカヌシ、タカミムスヒ、カミムスヒ)を経てアマテラスに至っている。まず最近の研究が明らかにしてきたことは、アマテラス以前の神々は王権成立以前の縄文時代の神々であり、アマテラス以降の神々は王権成立の歴史に対応しているということだ。

 19世紀の国学者で神道家だった平田篤胤は、「天地万物に大元皇祖神が存在し、その名を天御中主神といい、その神は始めなく終りもなく、天上にあって天地万物を生じる徳を持ち、万有を主宰している」と説いた。平田篤胤の子の鉄胤に師事した国学者の松山高吉は、「日本人が礼拝対象とした神は造化三神だけであり、しかも造化三神は功徳を分けて呼んだだけであって、その実は一神(即ち天御中主神)である。」と述べている。

 田中英道氏の考察によれば、①縄文時代は1万年以上も続いた、②三内丸山遺跡に代表される遺跡が東日本に分布していた、③当時は太陽崇拝であり、日本の東端に位置する鹿島神宮、香取神宮が祭祀場だったという。これらを勘案すると、大和の東方に国の原型もしくは勢力の存在があったことが明らかだ。造化三神の一人であるタカミムスヒは大和王権成立以前に存在した「日高見国」の統治者だったという。

 王権成立以前には、造化三神のもとに各豪族の祖先を神々とする信仰があったと考えられる。それが王権成立後は、アマテラスを最高神とする天津神と、スサノオを最高神とする国津神の二つの系譜が造化三神のもとに体系化された。

 実世界では縄文時代に東方に存在した勢力が大和王権のもとに統合され、神話の世界では太陽崇拝中心で「天御中主神」が唯一信仰の対象であったものが、アマテラスを最高神とする皇祖霊信仰に修正されている。

 古事記によれば、神武天皇はアマテラス直系の子孫となっている。アマテラス→オシホミミ→ニニギノミコト→ホホデミ→ウガヤフキアエズ→神武天皇という系譜である。これが天皇家の正統性を示している。但し、神武天皇と崇神天皇は同一人物であって、即位前を神武といい即位後を崇神と呼んでいるという説があり、また神武天皇は実在せず崇神天皇は実在した人物という説もある。

 さらにアマテラス=神武天皇であり、その間に登場する神々は創作上の存在であるという説もある。しかも神武天皇=崇神天皇であるならば、崇神天皇以降が実在の人物で、神武天皇以前は大和王権の成立と天皇の正統性を裏付けるために創作された物語ということになる。

 謎はもうひとつある。伊勢神宮には外宮と内宮があるが、外宮が主であり、主役はアマテラス(内宮の主祭神)ではなく豊受=天御中主神(外宮の主祭神)であることが複数の理由から推察される。つまり外宮が先に内宮が後から造営された感じがするのである。しかも伊勢神宮創設以前、アマテラスは京都府にある天橋立の近くにある籠神社他複数の神社に祀られていたという。

 既に述べたように、国譲りが行われた「出雲」は京都府にある出雲大神宮であって、現在の出雲大社ではなかった。そして国を譲った側の権力者がニギハヤヒ(国津神)であって、国譲り後にニギハヤヒは奈良県の三輪山に葬られた。そして三輪山は日本最古と言われる大神(オオミワ)神社の御神体となり、ニギハヤヒは神として祀られた。

 国を譲った勢力の人々が神としてどう処遇されたかをみると興味深い。まず、国譲りを大国主に認めさせた経津主(フツヌシ)と建御雷(タケミカヅチ)がそれぞれ香取神宮と鹿島神宮に、大国主は出雲大社に、大国主の息子二人は諏訪大社に祀られた。何れの神々も神社の中で格式の高い「神宮」と「大社」の主祭神として厚遇されている。

 さらにスサノオは全国各地の多数のスサノオ(素盞嗚、素戔嗚、素盞鳴、素盞雄、須佐男、須佐之男、他)神社に祀られた。このように大和王権に対し国を譲った側の豪族の権力者が国津神として祀られていることが分かる。国譲り=万世一系の天皇制の確立という大事業を整斉と成し遂げた、計算された配慮が見てとれるのである。 一方国を譲られた側では、天津神アマテラスを内宮の主祭神に祀る伊勢神宮が造営された。こうして国譲りが完遂し大和王権成立というドラマが完結した。素直に解釈すれば、アマテラス神話は大和王権が全国を平定し豪族を統合した歴史を神話化して作られた物語だったのであり、その物語を定着させるために古事記が編纂され伊勢神宮が造営されたと考えるとつじつまがあうのである。

エピローグ

 騒乱なき大和王権成立の舞台裏には、日本に移住し帰依した古代ユダヤ人の活躍があったと思われる。神話には旧約聖書との類似性と固有性がある事実と、後に聖徳太子を全面的に支援した秦河勝の活躍を考慮すると、その可能性は否定できない。

 今まで述べてきたように、日本という国は、日本列島が備える地理的に恵まれた環境と、日本人がもつDNAの固有性によって作られている。その昔聖徳太子は推古天皇から隋の皇帝にあてた親書の中で、「日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや。」と書いた。これはさまざまな民族がユーラシア大陸を横断して日本列島に辿り着いた歴史を踏まえたメッセージと考えると興味深い。さらに太子は、統一国家を形成するにあたって、当時の日本が人種のるつぼで多民族の渡来者で構成されている現状を踏まえて、17条の憲法の冒頭に「和を以て貴しと為し、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。」と書き込んだのかもしれない。

参照資料

1)「アマテラスの暗号」上下巻、伊勢谷武、宝島社

2)「日本国史の源流」、田中英道、育鵬社

3)「日本とユダヤ、運命の遺伝子」、久保有政、学研

4)「日本人の源流」、斎藤成也、河出書房新社

5)「奇跡の物語」、https://kobosikosaho.com/chronicle/532/