奇跡の物語(日本の誕生)

 日本列島を形成した力はプレートの動きである。それを含めて日本列島及び日本人の形成に重大な影響を与えた要因は四つある。第一は地殻変動、第二はヤンガー・ドリヤス寒冷期(以下YD期)の大規模な気候変動とその後に起きた縄文海進による海水面の上昇、第三はカルデラ噴火に代表される大規模な火山活動、第四に大量の移民である。

 それぞれの専門領域に深入りせずに、この四つの要因がもたらした変化を俯瞰的に捉え、日本の起源について洞察してみたい。

地殻変動による日本列島の誕生

 日本列島を形成する地体構造の約7割が「付加体」とその上に形成された堆積岩から成るという。大陸プレートの下に海洋プレートが沈み込むときに、海洋プレート上の堆積物が剥ぎ取られて大陸プレートの海側の端に付加される構造を付加体という。日本列島を形成する付加体は最古のものが5億年前でそれ以降段階的に形成されてきた。

 約3000万年前にユーラシア大陸の東端に亀裂が入り、海水が流れ込んで1500万年前に日本海が形成された。このとき大陸から引き剥がされた付加体は、東北日本と西南日本の二つの陸塊に分離していた。

 日本海の形成が終了する頃、フィリピン海プレート上の海底火山や火山島の列、伊豆弧が南東方向から陸塊に次々に衝突を始めた。300万年前頃には、北進していたフィリピン海プレートが北西へ進路を変えた。それに伴い西に移動していた太平洋プレートが沈み込む日本海溝も西へ動いて東日本を圧縮し始めた。これは「東西圧縮」と呼ばれ、この力で二つの陸塊が合体して日本列島の原型が出来上がった。

 日本列島が現在の姿になったのは2万年程前のことである。但し、プレート運動はもちろん、東西圧縮も伊豆弧の衝突も現在進行形であり、日本列島の形は現在も少しずつ変化を続けている。

ヤンガー・ドリヤス寒冷期(YD期)と気候変動、縄文海進

 旧石器時代は、ホモ・エレクトスがハンド・アックス(握り斧)を使うようになった約260万年前から始まった。サピエンスは6~7万年前に「出アフリカ」を決行しているが、7万年前から最終氷期が始まっていて、当時の日本列島は総じて寒冷期にあった。

 アフリカを出たサピエンスの集団の一部が日本列島に辿り着いたのは約4万年前である。そのとき日本列島は最終氷期にあって海面は現在よりも100m程低く、シベリアと北海道、朝鮮半島と九州は陸続きだった。

 新石器時代は地球が温暖化した11600年前に始まった。最終氷期が終わって温暖化しかけた気候が12800年前に急激に寒冷化した。YD期の始まりである。寒冷化の結果、獲物が減ったためにサピエンスは狩猟採集生活を諦めて農耕定住生活に転換したという。

 それから1200年後の11600年前に今度は約15度の急激な温暖化が起きた。温暖化が定着すると海水面が約100m上昇し、海岸線が内陸へ移動したことから、これは「縄文海進」と呼ばれている。

日本人の祖先と火山

 日本最古の遺跡は約12万年前に出雲で発掘された砂原遺跡である。加工された石器が多数見つかっている。これはサピエンスの到来より8万年も古く、サピエンスの渡来以前に先住民としての旧人(ネアンデルタール人?)が居たことを物語っている。

 過去12万年の間に超巨大噴火(噴火マグニチュードM7以上)に分類されるカルデラ噴火が九州と北海道の7つの火山で11回起きたことが分かっている。最新の鬼界カルデラ噴火は7300年前で、このとき南九州で暮らしていた縄文人は絶滅したと言われる。大規模噴火(M4、M5)~巨大噴火(M6)は過去2000年間に63回発生している。

 これは日本のどこかで約30年に1回の頻度で起きたことになり、縄文人にとって火山は身近な存在であって、畏怖の対象であったと同時に、火、温泉、希少な石(黒曜石、翡翠、メノウ等)という恵みを与えてくれる存在だったと思われる。

 世界最古の土器は青森県から16500年前に出土している。この時を起点として、紀元前10世紀までを縄文時代と呼ぶ。縄文人は世界に先駆けて土器を使用していただけでなく、6つの「縄文の国宝」にみられる高い芸術性を持っていたことが分かる。ちなみに6つの国宝が発掘された遺跡は、茅野市(2)、函館市、八戸市、十日町市、山形県舟形町(以上、各1)であり、何れも東日本に分布している点に注目する必要がある。

三内丸山遺跡が物語る縄文時代

 日本列島には全国に14000を超える膨大な数の後期旧石器時代の遺跡があり、密度において世界最多であるという。

 中でも最も注目すべき遺跡が三内丸山遺跡で、およそ5500年前から4000年前まで使用されていた。田中英道は、「ここには居住空間と広大な墓地、盛り土で囲まれた公共空間の三つの領域があり、共同体としての村落の機能、さらに言えば都市国家の基本を備えていた。」という。さらに、「巨木の柱で作られた建造物があり、後の出雲大社本殿に繋がる神社の原型と考えられる」と述べている。

 また、「三内丸山遺跡は、縄文時代が高い宗教心を持った時代で、日本の基層文化として原初の姿を宿している。住居域と隣接したところに墓域があることから、御霊信仰を基本とする神道の概念が存在していた。」と田中英道はいう。しかも三内丸山遺跡に相当する集落は全国に分布していた。

 最大規模の仁徳天皇陵に代表される本格的な古墳(田中英道の定義によれば、前円後方墳)が登場した古墳時代以前で、最も多くの古墳が発掘されたのは千葉県の12750墓で、奈良県より3割も多いという。これから縄文時代の集落と文化・宗教の重心が関東にあったことが分かる。しかも古墳は偉大な死者に対する御霊信仰の現われであり、神道が基本となっている。

神社の起源

 神社の代表格である出雲大社、熊野本宮大社、諏訪大社、香取神宮、鹿島神宮に祀られている神は、アマテラスを頂点とする天つ神ではなく、何れもオオクニヌシに代表される国つ神である。これは、これら神社の起源が縄文時代にあることを物語っている。

 鹿島神宮の創建は神武天皇元年(BC660)とされている。一方伊勢神宮は第10代崇神天皇の命を受けて第11代垂仁天皇(BC29-AD70)の時に創建されたと言われるから、鹿島神宮の方が600年以上も古いことになる。

 神社の形(建築様式等)が定まったのは、ヤマト王権が成立した古墳時代からである。しかし神社の起源は形が定まる遥か古代にさかのぼり、神道の起源よりも古いという。何故なら火山や巨石、巨木等、自然界の際立った存在は「神の宿るもの」と考えられたからである。

 蒲池明弘によれば、最古の神社の最有力候補は諏訪大社であるという。その理由として、諏訪大社のある茅野市から、「縄文のビーナス」と「仮面の女神」という二つの縄文の国宝が発掘されていること、諏訪大社には狩猟文化の伝統に関わる神事が残っていること、さらに古代の交易路だった、中央構造線と糸魚川静岡構造線の二つの断層の交点に位置している点を挙げている。

 最古の神社のもう一つ有力な候補は、三輪山をご神体としていて本殿を持たず、古神道の形式を残している大神神社(奈良県桜井市)である。

 このように、神道の原型は三内丸山遺跡の時代に既に出現していたと考えられ、神社は縄文時代から自然に対する畏怖と恩恵を表現するものとして作られたと考えられる。

弥生時代、渡来人の大量移民

 縄文から弥生時代への移行は、稲作技術等を携えた大量の移民が大陸から北九州他へ渡来したことによって起きた。不確定な要素が多いものの、弥生時代は概ね紀元前10世紀~紀元3世紀である。

 縄文時代末期におよそ10~20万人だったと推定される日本列島の人口は、弥生時代から急激に増大している。背景には、弥生~古墳時代に優に100万人を超えた渡来者の存在がある。渡来者は高度な製鉄技術や、漢字の文化、醸造や灌漑技術、律令制に則った統治制度などを持ち込んだ。様々な民族が続々と日本列島に渡来し、渡来者を中心とした新しい文化圏が北九州を中心に誕生した。その結果、日本列島に土着していた縄文人は、列島の隅々に追いやられてしまったという。

 古事記の神話は、出雲での国譲りの物語に続いて、日向を舞台にした天孫降臨へと主題が変化しているが、その背景には、縄文から弥生への革命的な時代変化と、出雲から日向への重心の移動がある。

秦氏の活躍とユダヤ民族

 移民の中で最も中心的な役割を果たしたのは秦氏だった。秦氏は皇族を支えヤマト王権の確立に際立った貢献をしたと言われる。日本の古代史において、秦氏は他の豪族と比べて目立たない存在であるが、弥生時代から古墳時代にかけてヤマト王権を樹立して国家の礎を創った立役者だった。

 ヤマト王権が成立したのは、奈良に前円後方墳が作られるようになった古墳時代からである。それは第15代応神天皇(AD270-310)、または第16代仁徳天皇(AD313-399)の頃と言われる。

 聖徳太子は、第33代推古天皇(592-628)の摂政として活躍した。聖徳太子のブレーンとして活躍した人物に秦河勝が居る。彼は聖徳太子が進める政策を支え、縄文由来の神道に伝来の仏教を加えた神仏習合の宗教を日本に普及させることに多大な貢献をした。広隆寺、大覚寺、仁和寺等の寺院、宇佐八幡神宮、伏見稲荷大社の創建に尽力し、全国に多くの神社を作ったのは秦氏だったと言われる。

 秦氏の活躍に象徴されるように、日本の形成にはユダヤ人渡来者による少なからぬ尽力があったことが明らかになっている。秦氏は数奇な経歴を背負った民族で、紀元前922年に南北に分裂し、紀元前722年に滅亡したイスラエル王国の南ユダ王国にルーツを持っている。祖国が滅亡した後に流浪の民となり世界中に拡散したユダヤ民族の一グループは、シルクロードを経由して中国に渡り、秦の始皇帝時代(BC221-206)に中国で活躍して財を成したという。彼らは秦姓を名乗り、秦王朝の崩壊を機に東に移動して、朝鮮半島経由で日本にやってきた。

 歴代天皇の在位を参照すると、日本で神武天皇が即位したのが紀元前660年で、第10代崇神天皇は紀元前97年~紀元前30年に在位し、ヤマトタケルが活躍したのは第12代景行天皇(AD71-130)の時である。そして古墳時代は第15代応神天皇(AD270-310)の頃に始まっていた。これらを総合的に考えると、秦氏が日本に最初にやってきた時期は中国の秦王朝崩壊後の紀元前2世紀以降の弥生時代だったと推定される。

古事記神話と旧約聖書・ギリシャ神話の類似性

 古事記神話と旧約聖書、ギリシャ神話には物語の類似性が多い。古事記は第40代天武天皇(673-686)が編纂を命じて、奈良時代の第43代元明天皇(707-715)の時代に完成している。一方、旧約聖書が最初に成立したのは紀元前5~4世紀であり、ユダヤ教が成立したのは出エジプトの時で紀元前13世紀に遡る。秦氏を中心とするユダヤのルーツを持つ渡来人の中に、旧約聖書、ギリシャ神話を良く知る人物がいた可能性は十分高いと思われる。

 古事記の編纂に関わった稗田阿礼は謎の多い人物である。「年は28歳。聡明な人で、目に触れたものは即座に言葉にすることができ、耳に触れたものは心に留めて忘れることはない。」と古事記に記されている。稗田阿礼は秦氏の流れを組む人物であった可能性がある。

 田中英道は、「旧約聖書と日本神話は、一方が流浪の民となったユダヤ民族、他方は島国という安全地帯に定住したヤマト民族という運命が異なる二つの民族の神話である。二つの神話には類似性があると同時に、旧約聖書は自然さえも神が創ったとする神話だが、日本神話では神以前に自然があり、その自然から神が生まれている。」と両者の相違点を指摘している。とても興味深い洞察である。何故なら、旧約聖書を下敷きにしたものの、日本の風土に合致するように、自然の造形と神の関係さえも書き変えたことを意味するからだ。

 もう一つ日本とギリシャの類似性にも注目すべきである。両国には共に大陸の縁にあって二つのプレートが衝突するところにあり火山が多いという共通性がある。一つの推論だが、自然の中に畏怖の対象となる存在がある環境が多神教を育んだ背景にあると考えられる。さらに加えれば、多神教が育つ環境では一神教が登場する余地がないとも考えられる。なぜなら、預言者が登場する遥か以前から人々は自然の中に信仰の対象を体得していたからである。

 2000年以上も前にディアスポラという運命を背負い、世界中に拡散したユダヤ人が、その土地に同化して、金融分野を中心に卓越した才能を開花させたことは世界史における公知の事実である。その事実を知った上で、弥生~古墳時代に渡来した秦氏一族の活躍を振り返るとき、日本を安住の地と捉えて日本の風土と社会を受け入れて、一神教のユダヤ教から多神教の神道へ改宗したことは十分あり得ることと考えられる。何れにしても日本の国家・文化の形成にユダヤ民族が深く関与していたことは、古代のミステリーという他ない。

総括

 日本の歴史は、縄文時代→弥生時代→古墳時代と推移した。神社の原形が縄文時代に自然発生的に形成され、死者を祀る神道の原型が作られた。三内丸山遺跡に代表される集落が東日本を中心に作られ、太陽信仰の場としての香取・鹿島神宮が作られ、黒曜石がとれた諏訪大社、玉髄がとれた出雲大社等が、ハブとなって緩やかなネットワークが形成された。現代の建築様式が登場する以前の神社の原型があったように、国家の骨組みが登場する以前の古代国家の原型が縄文時代にはあったと考えられる。

 縄文から弥生時代への変化は、大陸からの大量の移民が、稲作を含む様々な知識と技術を持ち込んで起こした革命だった。縄文人の人口の10倍規模の渡来人がやってきたことが事実であるとすれば、その変化は革命と呼ぶに値するものだったと思われる。歴史ではこのときに狩猟採集社会から農耕社会への転換が起きたとされる。社会の重心は、この時に出雲から日向へ、東日本から西日本へ移ったのである。

 そして弥生から古墳時代への移行は、ヤマト王権のもとに日本を統一してゆく国家の骨組みが形成されてゆく変化だった。聖徳太子が進めた17条の憲法や冠位12階、仏教の普及がその基礎となった。古墳時代は天皇家を中心に豪族が協力してヤマト王権を確立し、重心が大和に移動した時代である。この国家形成の歴史が古事記における神武東征として神話化して描かれたのではないだろうか。

 古事記神話は、ヤマト王権成立後に天武天皇が、縄文時代からの記憶の伝承をもとに作らせたものであり、編集者は王権成立に至る天皇家の系譜を神話として描いたものだ。編集当時、日本には大量の移民があり、豪族の中には秦氏のように渡来人で日本の文化に同化した勢力があった。編集に携わったものの中にユダヤにルーツを持つ人物がいて、古代からの記憶の伝承を神話として編纂してゆく過程で、旧約聖書やギリシャ神話の物語を下絵として利用した可能性がある。

 最新のDNA鑑定によれば、日本人のDNAには世界でも稀な大きな多様性があるという。サピエンスはアフリカを出てレバント地方へ渡った以降、太陽が昇る方向をめざして東へ東へと歩き、最終的に日本列島まで辿り着いている。その2~3万年に及ぶ「グレイト・ジャーニー」の過程で、さまざまな民族のDNAがブレンドされて、最後に日本人のDNAが形成されたことになる。

 こう考えてくると、日本のユニークさは日本列島がユーラシア大陸の最東端に位置することに由来していることが分かる。その昔聖徳太子は推古天皇から隋の皇帝にあてた親書の中で、「日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや。」と書いた。これは出アフリカ後にサピエンスが世界に拡散した旅が、太陽の昇る方向をめざして東へ向かい日本列島に辿り着いた事実と符合するものであり、実際にユダヤ人を含む多様な民族が日本をめざして集まってきた歴史を認識した上で書き込んだものと考えられる。

 さらに、当時の日本には多民族の渡来者が結集していることによる多様性があることを踏まえて、統一国家を形成するにあたって、17条の憲法の冒頭に「和を以て貴しと為し、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。」と書き込んだのかもしれない。

 日本列島は世界でも稀な自然豊かな国、四季の美しい土地である。多くの火山があり森があり里山がある。同時にユーラシア大陸の東端に位置することから、「太陽が昇る土地を求めたサピエンスのグレイト・ジャーニー」の結果として、最も多様なDNAを持つ民族が誕生したという「日本成立のミステリー」が姿を現してきたといえよう。今後のDNA解析が日本人の正体を解明することを大いに期待したい。

本項を書く上で参照した資料は次のとおりである。

資料1:「日本人の起源」、洋泉社MOOK、歴史REAL、2018.7

資料2:「聖地の条件:神社の始まりと日本列島10万年史」、蒲池明弘、双葉社、2021.8

資料3:「日本国史の源流」、田中英道、育鵬社、2020.10

資料4:「日本とは何か、日本人とは何か」、田中英道、ルネサンスVol.7、2021.5

資料5:「日本人の源流」、斎藤成也、河出書房新社、2017.10

資料6:「日本とユダヤのハーモニー&古代史の研究」、Website

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