はじめに
私がウェブサイトを開設した目的は、戦後既に充分な時間が経過し、国際社会が激動してゆく中で日本の立ち位置を再認識して日本の役割と進路を明らかにすることにあった。世界における日本の立ち位置を知るためには、日本文明と歴史を理解することが不可欠である。役割を知り進路を描くためには日本文化のユニーク性、日本人の資質、能力を的確に認識しなければならない。
しかし残念なことにこれらは最も重要なことでありながら、学校教育では全く教えてくれない。私は歴史の専門家ではないので、歴史を正確に理解する立場にはない。正確さよりも大掴みに理解することを重視する。空間軸と時間軸の上に全体像を描き本質を探ることに取り組みたい。「思考の作法」というのは、そのために必要な思考法である。
序
古代天皇の正統性は、天皇家の系譜に名を連ねることで担保され、初代天皇は神の系譜に名を連ねることで担保されている。日本書紀という書物は正にその系譜を体系的に整理したものである。但し天武天皇期の「政権」が編纂したいわば「官製の広報」であることから、記紀には自ずと史実と神話、真実と創作が入り混じっている。
ヤマト建国は言わば群雄割拠という混沌の中から、1世紀以上もの長い時間をかけて自律的に生まれた秩序である。この認識に立って考えれば、天皇家の正統性が最初から整然と存在したと考えることには無理がある。
この目的意識と認識を踏まえて、日本文明の源流に迫りたい。
日本文明の源流とは、①16,500年前に遡る縄文文明の誕生であり、②弥生を経て古墳時代に向かう時期に起きた日本という国体の成立であり、③聖徳太子が進めた「神仏習合」という選択であり、④「神仏習合」を基盤としてその上に形成され錬磨された日本文化と日本人の誕生に関わる。
日本人の祖先
太陽信仰の集団
結論を先に言えば、今から約6万年前、アフリカ大陸を出てシナイ半島を経てユーラシア大陸に渡ったサピエンスの集団がいた。それから3~4万年程の歳月をかけて、優に1千世代を超える彼らの子孫が世界中に拡散しそれぞれの地において、現在の諸民族の祖先となった。「the Great Journey」と呼ばれる大事件である。
東北大学名誉教授だった故田中英道氏は著書の中で、何故彼らはそのような大胆な行動をとったのかという問いに対して、「旧石器時代の人々が寒い時代に暖かいアフリカを離れる必要はなかった筈だ。当時のアフリカは砂漠の多い乾燥地帯ではなく、森も泉もあったからこそ人類が発生したのだ。それでも出アフリカを敢行した集団がいた。そこを離れる動機はもっと強く精神的なものだった筈だ。」と述べている。(資料1)
彼らの一部が3万年以上の歳月をかけて、はるばる日本列島までやってきた訳だが、アフリカを出た集団が「旅の目的」について構想を持っていたとは考えにくい。「旅の始まり」という自覚すらなかったに違いない。東へ東へという行動も、親から子孫へ命題として申し送られたものではないだろう。それぞれの時代を生きた人々が、毎日昇っては沈む太陽を見て、本能に基づいて自発的に行動したのだと思われる。そしてその「東へ」という動機は、弥生時代末期の「神武東征」に継承されているのである。
縄文時代の始まりは、発見された最古の土器の年代から、今から16,500年前とされている。以降3,000年程前まで続いた縄文時代は、アフリカから太陽信仰を持つ人々が日本列島に辿り着いた時から始まったのである。
日本列島最古の人類
但し、縄文時代以前、サピエンスの祖先集団が日本列島にやってくる以前の、旧石器時代の人骨が日本各地で発掘されている。岩手県遠野市の金取(かねどり)遺跡、浜松市で発掘された浜北(はまきた)原人、沖縄で発掘された港川(みなとがわ)人などだ。最古の人骨は石垣島の洞窟で発掘された2.7万年前のものである。
浜北原人は浜松市の根堅洞窟で発掘された20代女性の同一個体の化石人骨で、更新世後期の旧石器時代の人骨と推定された。縄文人と類似した形質からその祖形と推測されている。
一方、港川人は約2~2.2万年前に沖縄諸島に存在していた人類で、男性1体、女性3体の全身骨格が発見されている。石垣島の洞穴遺跡で約2.7万年前の人骨が発見されるまで、日本列島で発見され全身骨格の形で残っている最古の人骨だった。
一体この人達はどこからやってきたのだろうか?最近の学説によれば、「出アフリカ」は約6万年前だけでなく、もっと古い時代にも何度か試みられた可能性があるという。縄文時代以前の旧石器時代の祖先集団について、今後新しい発見が出てくることを期待したい。
日本人の祖先
福島県新地町にある三貫地(さんかんじ)貝塚から出土した縄文人の骨や歯についてDNA分析が行われた。その結果、2~4万年にアフリカからアジアに渡った集団の子孫であることが判明した。さらにDNA鑑定は、出雲人と東北人が近い関係にあることを明らかにした。古事記神話には出雲に関わる話が多く、またヤマト建国には出雲が深く関わっている。これは国譲りの物語が「何故出雲だったのか」の問いを考えるヒントになる。田中英道氏は「高天原系=日高見国系が出雲系と関係が深いことを示しており、国譲りの神話が現実味を帯びてくる。」という。(資料1)
もう一つ重要なことが明らかになった。日本には旧石器時代の遺跡が1万以上もあるが、朝鮮半島には50程しかないという。これは祖先集団はアジアから陸路ではなく、海路で直接やってきた可能性が高いことを物語っている。(資料1)
縄文という時代
寒冷期
最後の氷河期は「最終氷期」と呼ばれる、約26,000~約11,700年前の期間をいう。この時期、地球の気温は非常に低く、北半球の広い範囲に厚い氷が広がっていた。さらに最終氷期が終わり、温暖化が始まった12,900~11,500年前に、北半球の高緯度地方が急激に寒冷化に逆戻りした事実が明らかになっている。これは「ヤンガードリヤス寒冷期」と呼ばれる。
日本列島では縄文時代後期から弥生時代前期、具体的には約6,000年前~3,000年前に四つの寒冷期が存在したという説がある。(資料4)
ここで縄文時代における日本列島の寒冷化について、現在明らかになっている事項を整理しておきたい。初めに「縄文時代」というのは日本列島における時代区分で、世界史では新石器時代(もしくは中石器時代)に相当する。そして縄文時代は土器の型式から、以下の6期に区分されている。従って区分は等間隔ではなく、古い時代程長い。縄文時代に起きた寒冷期を整理すると次のとおりである。

縄文文明の変遷を考える上で、重要な遺跡は次のとおりである。
①青森市にある三内丸山遺跡:縄文時代(5.9~4.2千年前)
②つがる市にある亀ヶ岡遺跡:弥生時代(2,700年前)、遮光式土器
③佐賀県の吉野ヶ里丘陵にある吉野ケ里遺跡:弥生時代(2,300年前)
人口の変化が物語る事実
縄文時代の人口は概ね次のように推移している。縄文時代の人口データについては、資料1から引用した。

表から明らかなように、縄文時代の人口の変化に関して注目点が四つある。(青字)
1)総人口が早期から中期にかけて急増し、中期から晩期にかけて急減した。
2)早期から晩期まで、東日本に人口の大半が集中していた。
3)縄文晩期から弥生にかけて人口が急増し、西日本で顕著だった。
4)弥生になり人口の重心が東日本から西日本へシフトした。
縄文時代中期以降の人口減少をもたらした最大の原因は寒冷化と考えられる。また縄文時代晩期から弥生時代に起きた東から西への人口重心のシフトは、寒冷化に加えて、朝鮮半島及び大陸からの渡来人が急増したことによる。
今まで弥生時代に朝鮮半島からの渡来者が稲作や鉄器や仏教をもたらしたと言われてきたが、資料3によれば、縄文時代に日本列島から朝鮮半島に移民した人々がいたことと、弥生時代になると日本からの移民者が新しい技術を携えて帰国した事実が明らかになっている。
縄文文明の起源
実り豊かな日本列島
縄文時代が始まってから弥生時代に移行するまで、凡そ14,000年の歳月が流れている。アフリカを出てはるばる日本列島に辿り着いた祖先集団が、日本列島に定住することを選んだのは一体何故だろうか?
日本は大陸から離れた南北に長い列島であり、四季があり、周囲を海に囲まれ、中央には3千メートルを超える山々が連なり、多くの河川が流れているという恵まれた自然環境にある。その結果、山海の恵みが豊富で、世界でも稀な食料に恵まれた土地であったと思われる。海路日本列島に辿り着いた太陽信仰をもった祖先集団にとって、恐らく日本列島は住み心地のいい楽園であったに違いない。
自然災害が過酷な日本列島
一方で、日本列島は自然災害が多く、火山噴火、地震、台風が多い過酷な土地でもあった。なかでも恐ろしい自然災害は火山の噴火である。以下は資料2及び3を参照して、縄文時代以降に日本列島で実際に起きた火山活動を整理したものである。日本列島は世界でも有数な火山大国であることが一目瞭然である。
①日本列島全体で現在約110の活火山があり、世界全体の約7%が集中している。
②日本史上最大規模の火山噴火は、富士山宝永噴火や桜島大噴火だが、巨大カルデラ噴火は その大噴火の10~100倍以上のマグマを一気に噴出する。
③カルデラ巨大噴火は過去10万年間に12回起きている。阿蘇の噴火だけで4回起きた。
④過去12万年間に、北海道と九州にある7つの火山で11回の巨大カルデラ噴火が起きた。
⑤最後の巨大カルデラ噴火は7300年前に起きた「鬼界カルデラ噴火」である。この巨大 噴火によって南九州に暮らしていた縄文人は全滅したと言われる。
鬼界カルデラ巨大噴火は、完新世(約1万年前~現在)に地球上で発生した最大の巨大噴火と言われる。火山灰は日本列島全域を覆い、列島の広範囲に「火山の冬」を引き起こした。当時の縄文人にとって長期間に及ぶ寒冷化と山の恵みの激減という大災害をもたらした。ちなみに噴火が起きた場所は、鹿児島県の薩摩半島から南に約50kmの海中にあり、薩摩硫黄島と竹島がその外輪山にあたる。
火山の記憶の神話化
神話と火山の関係に詳しい蒲池明弘氏は著書の中で、哲学者だった梅原猛氏の洞察を紹介している。梅原猛氏は神道の始まりについて次のように述べたという。「恐ろしいもの、祟りをなすものを神と祀って供物を捧げ、心を和らげ、かえって自分たちの守り神にする、それが日本の神祀りの根源であるとすれば、火山こそ最も恐ろしい、そして最も尊い神である。」(資料2)
また蒲池明弘氏は次のように述べて著書を締め括っている。「鬼界カルデラ巨大噴火に遭遇し、この世の終わりを思わせる程の出来事を経験した人達はきっと、巨大噴火とその後の恐るべき<永遠の夜>について世代を越えて語り継いだ筈だ。古事記神話の神々がその記憶と結びついている可能性がある。火山には成長と死、喜怒哀楽があるが故に、普通の山とは全く異なる表情を持っている。地震や台風ではなく、なぜ<火山の記憶が神話化する>のかと言えば、その光景の荘厳さ、美しさにある。」(資料2)
日本は世界有数の火山国である。前項で紹介したのはひとたび噴火が起きれば、その被害が日本列島全域に及ぶような巨大なカルデラ噴火である。最近では富士山の再噴火が懸念されているが、通常の火山噴火が縄文時代にどれほど起きて、どれほどの被害をもたらしたのか、縄文時代を生きた人々がどれほど火山噴火に翻弄されたかは想像の域を超えている。
神道の原型
梅原猛氏の「縄文時代を生きた人々にとって火山こそ最も恐ろしい、そして最も尊い神」であったという洞察も、蒲池明弘氏の「火山の記憶が神話化し、神話の中に伝承し表現された」という洞察も非常に説得力がある。
そう考えれば、豊かな自然と水、山海の豊富な恵みがある一方で、過酷な自然の脅威がある日本列島に定住することを選択した古代人に、祖先と自然の脅威を神とする信仰が芽生えるのは極めて自然の成り行きであったという他ない。
世界でも有数の火山列島という環境の中で、神道の原型が自然に生まれ、さらにそれが人々の伝承として語り継がれ。やがて記紀の神話の中に取り込まれた。しかもその歴史的体験と伝承は現代人の我々にも無意識の領域で記憶されていることは言うまでもない。
神社の起源
日本人の祖先集団がアフリカを出て東へ東へと移動を続け、気の遠くなるような歳月をかけて日本列島までやってきた。太陽信仰が出アフリカの動機であり、しかも1万年以上もの長い歳月をかけて何代もの子孫に継承されてきたことを考えれば、日本列島に到着した彼らが「最初に太陽が昇る最東端」の地を目指して移動したであろうことは容易に想像できる。
地図も磁石も時計もない古代、最初に太陽が昇る地を求めて難行の末に辿り着いたのはほぼ最東端の地に位置する香取・鹿島だったと思われる。そう断言する理由は、ここには二つの由緒ある神社があるからだ。鹿島神宮と香取神宮である。神道の起源、ヤマト王権の起源、天皇家の起源について考える上で、この二つの神宮が重要な意味を持っていることについては後述する。
鹿島神宮は神武天皇が即位した年(紀元前660年)に創建された。創建年は、記紀に書かれているので、ヤマト王権の公式情報である。主祭神は武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)である。一方、香取神宮の創建は神武天皇の御代18年と伝えられ、主祭神は日本書紀の国譲り神話に登場する経津主大神(ふつぬしのおおかみ)である。
古事記神話では、武甕槌大神と経津主神は共に、葦原中国(あしはらのなかつくに)を平定するために高天原から降臨した神々である。
「神宮」という別格の称号を持つ神社が、江戸時代以前には、鹿島・香取両神宮の他には皇室ゆかりの伊勢神宮だけだったという事実は、この二社がヤマト建国に深く関わる人物の神社として別格扱いされたことを物語っている。
記紀にそう書いてあるとすれば、記紀の編纂者が、大和王権の始まりと同時に神道を国家神道と位置づけ、さらに神武天皇の守護神として鹿島神宮と香取神宮を位置づけたことになる。ちなみに鹿島神宮は藤原(中臣)氏の、香取神宮は物部氏の祖先を祀る神社である。
-第1部完-
参照資料:
1.『日本創生史』、田中英道、ダイレクト出版
2.『火山で読み解く古事記の謎』、蒲池明弘、文藝春秋
3.『火山大国日本』、巽好幸、さくら舎
4.『縄文時代晩期における気候変動と土器型式の変化』、山本直人

