日本と西洋の邂逅500年

プロローグ

 日本と西洋との出会いは、今から凡そ500年前の1543年に鉄砲が伝来した時に遡る。「大航海時代」が始まったのは15世紀末だった。1488年にディアスがアフリカ南端の喜望峰に到達し、1492年にコロンブスがバハマ諸島に到達した。1497年にガマはアフリカ南端を廻るインド航路を発見した。マゼランが世界一周を達成したのは1522年のことだった。

 大航海時代の幕開けは植民地獲得競争の幕開けでもあった。

 500年の間にさまざまな出来事があったが、日本と西洋の関係の変化に注目すると5つの期間に分類できる。(図1参照、第Ⅰ幕~第Ⅴ幕)

 第Ⅰ幕は鉄砲とキリスト教の伝来に始まり、限定的ながら通商を開始した16~17世紀である。二つの伝来に対して日本は対極的な対応をとったことが興味深い。最新の武器である鉄砲については、買い求めた2挺を分解して短期間で量産することをやってのけた。一方キリスト教に対しては終始禁止し布教を弾圧した。

 第Ⅱ幕は幕末から明治維新に至る18世紀末~19世紀で、列強が入れ代わり立ち代わり来航して通商を求めた時代である。1858年に大老井伊直弼が、後に不平等条約と言われた「安政五ヵ国条約」を天皇の勅許を得ずに締結した事件を契機に倒幕運動が激化した。

 第Ⅲ幕は明治維新から日露戦争に至る明治時代であり、王政復古による政権交代を成し遂げ、殖産興業と富国強兵政策によって一気呵成に近代国家へ変身を遂げた時代である。ここで軍事力を西洋並みに強化した結果、日本は日清・日露戦争を戦うことを余儀なくされた。

 第Ⅳ幕は欧米と肩を並べる軍事力を持つに至った結果、植民化のラストリゾートとなった中国大陸でイギリス、アメリカ、ロシアと対立し大東亜戦争へと突入していった昭和の時代である。

 そして第Ⅴ幕は1945年に終戦を迎えた後、GHQによる占領体制、言い換えると「戦後レジーム」を保持したまま現代に至る「戦後80年」である。

第Ⅰ幕:驚嘆の出会い

 15世紀末から始まった大航海時代は、欧州列強が大陸間航路を開拓しながら植民地獲得競争を繰り広げた時代である。ポルトガルとスペインが第1陣として、イギリス、フランス、オランダが第2陣として世界各地に進出した。(参照:『思考停止の80年との決別(2)』)

 日本にやってきた「西洋」の第1派は、1543年に種子島西村の小浦(現・前之浜)に漂着したポルトガルのモータら約100名だった。島主・種子島時堯は火縄銃2挺を買い求め、家臣に火薬の調合を学ばせたという。当時未だ戦国時代にあった日本は、瞬く間に鉄砲をコピーして、32年後の長篠の戦いでは鉄砲を大量に使用した織田・徳川連合軍が武田軍に勝利している。

 西洋の第2派は、1549年にジャンク船で中国・明から薩摩半島の坊津にやってきたスペインの宣教師だったザビエルと数人の仲間だった。イエズス会は1534年に創立されたばかりで、ザビエルはその創設者の一人だった。キリスト教に対しては、1587年に豊臣秀吉が筑前においてバテレン追放令を出しており、徳川幕府もそれを踏襲して1612年に布教の禁止令を出している。

 西洋の第3派は、1550年に通商を求めて平戸にやってきたポルトガル船だった。続いて1600年にはオランダ船リーフデ号(300トン)が豊後の国(大分県)臼杵湾の黒島に漂着した。アムステルダムを出航した時には5隻に総勢500人が分乗していたが、日本に到着したときにはリーフデ号1隻のみで生存者は僅か24名だったという。

 リーフデ号にはイギリス人ウィリアム・アダムズ(三浦按針)、オランダ人ヤン・ヨーステンらが乗っており、徳川家康に謁見して世界情勢を伝えている。そして1634年に徳川幕府は長崎の出島に商館を作ってポルトガルとの貿易・交流を容認した。その後ポルトガルは1639年に追放され、1641年以降幕末に至るまでオランダとの貿易が継続された。

第Ⅱ幕:警戒と通商

 18世紀末から明治維新に至るまでの第Ⅱ幕には列強が相次いで交易を求め、あわよくば植民地化を目論んで活発に来航した。当時実際に起きた植民地化の例を挙げると、1521年にスペインがメキシコを征服し、1537年にポルトガルがマカオを植民地化し、1623年にはオランダが台湾の澎湖島を占領している。19世紀にはイギリスがインドと中国を舞台にいわゆる「三角貿易」を行っていて、インドから清へアヘンを、清からイギリスへ茶を、イギリスからインドへ絹織物をそれぞれ輸出して、対価として銀を儲けていた。これが清の怒りを買い1840年にアヘン戦争が勃発した。イギリスは武力でこれを制圧して1842年に香港の割譲を受けている。

 第Ⅰ幕で来航した列強はポルトガルとオランダだったが、第Ⅱ幕の主役はイギリス、フランス、アメリカ、ロシアの四ヵ国だった。列強は何れも日本を植民地することは出来ず、最終的に通商目的で来訪を繰り返した。他のアジア諸国と異なり、日本は武士が統治する封建国家だったことと、識字率や庶民の生活などの点で当時の日本が西洋の予想を超える成熟社会だったことが背景にある。

 最終的に日本は1858年に、アメリカ、イギリス、フランス、オランダ、ロシアの五ヵ国と「安政の五ヵ国条約」を締結した。この条約は、①函館・神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港、②江戸と大阪にあった市場の西洋への開放、③自由貿易の承認に加えて、④領事裁判権、⑤協定関税の規定が盛り込まれており、特に④と⑤は後に不平等条約と評された。これは西洋側からすれば植民地化の代わりに得た特権であり、日本側からすれば「西洋知らず」外交の失敗だったと言えよう。

第Ⅲ幕:王政復古、富国強兵の明治

 幕末期に西洋からの遅れを強烈に自覚した日本は、1868年に始まる明治維新で「王政復古」の政権交代を成し遂げ、国家と社会の制度を西洋化に刷新した。さらに1871年11月~1873年9月には、岩倉具視を特命全権大使とする総勢107名の使節団が、アメリカ、イギリス、フランス、オランダ、ドイツ、ロシアを含む12ヵ国を訪問している。

 各国の元首を表敬訪問し、各国の街並みと当時開催中だったウィーン万博を見聞して、約2年に及ぶ視察を終えて帰国している。図1に示すように19世紀前半には西欧各国で産業革命が相次いで始まっていて、工業化が急速に進んでいた時期であることを勘案すると、使節団の人々が西洋文明に圧倒されて帰国したであろうことは容易に想像できる。

 東北大学名誉教授の田中英道氏は資料1の中で次のように評している。

 <岩倉使節団は西欧を崇拝の的とした。福沢諭吉や夏目漱石は、ロンドンの街並みを見て石の文明を実感し、万博を見て鉄鋼その他の新素材を知り、そこにある断絶に日本は遅れていると見た。日本が西洋とは異なる根本的な考え方及び精神に自信を持つことをしなかった。>

 その後の歴史を知る立場から振り返れば、西洋から学ぶべき優れたもの(国の制度・科学技術等)と、日本が古来より継承してきた西洋に勝るもの(文化・伝統等)とを等距離において眺め、両者をどのように融合させることが近代国家日本の命題なのかを客観的に、願わくば戦略として考えることが肝要だったと思う。

第Ⅳ幕:激突した昭和

 昭和の時代、戦争に至る前半はラストリゾートとなった中国大陸を巡って、日本がイギリス、アメリカ、ロシアと利権を争った時代だった。富国強兵を推進して日露戦争を戦って勝利した日本は、否応なしに中国大陸での騒乱に巻きまれていったのだった。

 日本が満州事変を戦ったのは南下しようとするロシアを食い止めることだった。そこまでは妥当だったのだが、支那事変以降、中国の内乱に巻き込まれていったことは歴史的な失敗だったと言えよう。本来日本がとるべき選択肢は、中国の内乱と距離を置いて高みの見物をすることだったのだ。

 中国の内乱について、『思考停止の80年との決別(3)』では次のように述べた。

 <注目すべきことが二つある。第一に戦争の構図としてみると、中国大陸という舞台上で蒋介石と汪兆銘と毛沢東が戦い、舞台の外側には日本と英米、ソ連が陣取るという三つ巴戦の二重構造が存在していた。そして第二に、中国大陸に大規模な軍隊を送り込んで戦争を行っていたのは日本だけで、英米ソも中国大陸に深入りしていなかった。>

 日本が支那事変から大東亜戦争へと突き進んでいった背景には、老獪なヤルタ体制(チャーチル、ルーズベルト、スターリン)の存在があった。昨年11月に逝去した西尾幹二氏は資料3で次のように洞察している。

 <アメリカは第一次世界大戦においてドイツという国家を倒し、第二次世界大戦ではナチスの世界観と戦い、第三次世界大戦(米ソ冷戦)ではソ連の共産主義という思想体系と戦い、そして第四次世界大戦(現在)ではイスラムという宗教秩序と戦っている。・・・「思想戦」という意味において、アメリカには日本と戦う大義名分も、開戦理由もなかった。結局アメリカにとって日本が列強の仲間入りをしたこと自体が想定外であり、折あらば排除したい存在となっていたと推察される。結論を先に書けば、ルーズベルトという狂人と、それを操ったスターリンと、ルーズベルトを大統領に担ぎ上げた組織の存在がなければ太平洋戦争は起きなかった可能性が高い。>

第Ⅴ幕:「戦後80年」直面する課題

 私はウクライナ戦争が起きるまで、「戦後レジームからの脱却」という言葉は戦後の日本にのみ当て嵌まるものだと考えていた。しかし安保理常任理事国のロシアがウクライナに軍事侵攻した2022年2月24日をもって、戦後の国際秩序の崩壊が現実となった。

 またアメリカの2024年大統領選挙はトランプ氏が圧勝したが、アメリカの国内秩序も深刻な崩壊過程にある。さらにマイノリティの権利を過大に要求するポリティカル・コレクトネス(PC)活動が教育現場は固よりアメリカ軍にまで浸透した結果、PCはシロアリのようにアメリカの国内秩序を内部から破壊した。

 第47代大統領に就任したトランプ氏は公約どおりに、就任初日にバイデン政権が推進した「多様性・公平性・包括性(DEI)」に関する政策を撤回する大統領令に署名した。これによって分断を深刻化させてきた左派過激派によるPC/DEI運動を封じ込める対策が講じられたことになるが、今後相当なリアクションが起きて分断が更に深刻化する可能性も否定できない。

 第二次世界大戦で破壊された秩序を回復させるべく、戦後さまざまな国連機関が設立された。しかし昨年末に先進国から3,000億ドルもの途上国支援を引き出すことで合意したCOP29(国連気候変動枠組条約第29回)が、途上国によるタカリの場と化したことは明らかだ。しかもCO2排出では世界第1位の中国と第3位のインドは途上国扱いであるという。このように堕落したCOP29などという枠組みは本来の目的から明らかに逸脱していると言わざるを得ない。

 トランプ新大統領は、大統領に就任すると直ちに世界保健機関(WHO)から脱退し、パリ協定から再離脱する大統領令に署名した。これを皮切りに、本来の役割から逸脱した「戦後スキーム」が今後再構築の方向に向かうことを期待したい。

 ウクライナ戦争を契機として国際情勢は大きく変化した。欧米は銀行間の決済を行うネットワーク(SWIFT)からロシアの銀行を締め出した。サウジアラビアは原油取引の決済をドルで行うことを定めた密約を破棄した。さらにウクライナ支援とロシア制裁によってエネルギーをロシアに依存してきた欧州の衰退が顕著になった。このようにウクライナ戦争はアメリカと欧州を弱体化させ、逆にBRICSが拡大してドル離れが進んでいる。世界は多極化に向かって加速を始めた。

 こうして戦後80年を経て、戦後体制の再構築はもはや日本固有の命題ではなく、世界の命題となったのだった。歴史を振り返れば、大航海時代以降国際社会は終始西洋流で運営されてきたのだが、最近の問題を解決できなくなってきている。その原因は幾つかあるが、中露イランに代表される専制主義国家と比較して、相対的に西側先進国の力が弱体化したことに加え、排他的で価値観を押し付ける西洋流の限界が目立ってきたことが背景にある。

 その状況下で、トランプ第2期政権が発足した。MAGAとナショナリズムを掲げるトランプ新大統領の行動は、有無を言わさずに世界の戦後体制の再構築を促進してゆくことになるだろう。これは日本が抱える「戦後レジーム」を一新する好機到来となることは間違いない。

日本と西洋、共通点と異質性(考察)

 図1には、日本で起きた「日本と西洋の邂逅」と、同時期に欧米で起きた主要な事件を並べてプロットしてみた。欧米で起きた事件は、①近代国家の誕生、②戦争、③経済と産業の発展の三つに分類して整理した。この図をもとに、日本と西洋の関係がどのように変遷してきたかについて考察を加えたい。

 はじめに、主要国が近代国家となった時期の比較については、既に『思考停止の80年との決別(2)』で書いているので、引用するに留めたい。

 <時系列に並べると、イギリス統合が1801年、アメリカ南北戦争終結が1865年、明治維新が1868年、ドイツ帝国の誕生が1871年、フランス共和国の誕生は1874年だった。そしてソヴィエト社会主義共和国連邦は1922年に誕生した。イギリスが一足早く、ロシアは一足遅かったが、アメリカ・日本・ドイツ・フランスは19世紀後半に近代国家となった。日本は江戸時代が長く、しかも鎖国をしていたので、欧米列強よりも遅れて近代国家の仲間入りをした感があるが、イギリスとロシアを除く他の諸国と殆ど同時期に近代国家となったのだった。>

 図1で注目すべき事実は、欧米諸国が戦争に明け暮れた歴史を持っていることだ。特に欧州は領土紛争、独立戦争、宗教(キリスト教、イスラム教)戦争、海上の覇権争い等、実に多様な戦争を繰り返して現在に至っている。

 欧州の近代史で注目すべきもう一つの事実は、二つのタイプの革命の勃発である。一つは王政に対する市民革命で1817年に起きたフランス革命が代表例であり、1848年にはフランスの2月革命を皮切りに、ウィーン、ベルリン、その他欧州各地で起きた。もう一つはブルジョアジーに対する労働者による革命で1917年に起きたロシア革命が代表例である。ブルジョアジーとは、貴族でも農民でもない有産市民階級で資本家を指す場合が多い。

 日本と西洋の決定的な違いに注目すると、16~18世紀が日本では「太平の時代」であったのに対して、西洋では戦争と革命に明け暮れた時代だったことだ。両者は「似た者同士」だが、言わば「生まれと生い立ち」において決定的な違いがあったという訳だ。

 ここで「生まれ」の違いは時間軸における「宗教の違い」である。日本が縄文時代由来の神道を基盤とする、「自然と共生する」宗教観のもとに文明を築いてきたのに対して、西洋は一神教のキリスト教を土台として文明を築いてきた。つまり東日本大震災級の地震や津波を含めて、自然をあるがままに受容して生きてきた日本民族と、基本的に排他的で強者が弱者から収奪することを躊躇しない西洋民族には根本的な違いが存在するのである。

 宗教は文明の根幹を成すものであり、宗教の違いはお互いに相手を真に理解することが容易ではないことを物語っている。

 次に「生い立ち」は空間軸で捉えた「地政学の違い」である。領土に国境が存在しない日本と、大陸国家西洋は、地理的条件において対極の違いがある。

 このように日本と西洋とは「西側先進国」という括りで捉えれば、価値観を共有する仲間ということになるが、宗教と地政学では正反対という程の違いがある。「ポスト戦後80年」を考える上で、この共通点と異質性はきちんと認識しておく必要がある。何故なら概念的・包括的には価値観を共有できても、本質的な部分では相手を理解できないからだ。

 西洋が世界を植民地化できた理由は、経済と産業の分野で世界に先行したからである。具体的にはお金を流通させて儲ける仕組みを世界に先駆けて作ったことと、蒸気機関という動力を世界に先駆けて実用化したことが象徴的な事件だった。

 経済と産業、さらには科学と技術の分野では、西洋と日本は同等の特性と能力を保有していると考えるが、西洋が先んじた理由は欧州には隣国とのし烈な競争があったのに対して、国境を持たない日本は文化的に成熟した「太平の時代」を享受していたことにある。

 幕末に西洋の海軍力を目の当たりにした日本は、岩倉使節団の2年間で欧米を見聞し、それから極めて短期間で西洋と肩を並べる水準にまで富国強兵を実現してみせた。それが明治という時代だった。

 田中英道教授は「日本と西洋との邂逅」について、資料1で次のように分析している。

 <大航海時代以降、植民地を拡大していく時代の西洋はほぼ常勝軍だった。ところが日本には勝てなかった。西洋には日本に対する畏怖があった。13世紀の元寇においてモンゴルでも攻めきれなかった日本という意識があった。>

 田中教授の分析を踏まえれば、日清戦争と日露戦争に勝利した日本に対する畏怖の認識は西洋諸国で一段と強くなったことが予想される。

激突の真相(考察)

 田中教授は<あの戦争は仕組まれた戦争だった>とズバリ指摘している。その根拠の一つとして挙げているのはOSS計画の存在であり、他一つは天皇制が存続したことである。資料2から引用する。

 <1942年の段階でOSS(Office of Strategic Services)計画というものがあった。戦後世界を如何に社会主義化するかという計画と戦略だった。OSS計画はルーズベルト大統領及び国務省のもとで立てられた戦後統治計画だった。>

 <ルーズベルトはソ連を支持する社会主義者だった。ルーズベルトもスターリンもユダヤ系であり、左翼ユダヤ人の手で社会主義世界を創ろうというのが20世紀の大きな流れだった。>

 <日米戦争は仕組まれた戦争だった。天皇制が継続したことがその証拠である。戦争を宣言した昭和天皇が終戦の詔を読まれたという事実は、国体が守られたということであり、日本は負けていないことになる。天皇制が残された理由は、日本で二段階革命を起こすことがOSS計画に書かれていたからである。京都や奈良、伊勢神宮他の神宮を破壊しなかったのは、天皇を利用して二段階革命を起こさせることを目論んでいたからである。>

 <共産主義を日本に持ち込んだのは米欧だった。革命の邪魔になる軍隊を持たずにおく憲法9条もまた、「二段階革命(前述)」の実現で直ぐに改定されることを目論んでいた。しかし実際には(戦後の日本で)革命運動は起きなかった。>

 二段階革命とは、マルクス・レーニン主義に基づく第1段階と、君主制を廃止するブルジョア民主主義による第2段階を言う。1950年代にイタリア共産党が打ち出したもので、フランス革命が先に起きてロシア革命が続くという仮説だった。

 さらに資料2は<大東亜戦争が仕組まれた戦争だっただけでなく、真珠湾攻撃は日米合意のもとに実行された作戦だった>と述べている。

 <真珠湾攻撃は、ルーズベルトが山本五十六か誰かをワシントンに呼んで実行させた。OSS計画には天皇には手を出さないということが明文化されていた。日本は真珠湾攻撃だけでなく、フィリピン攻撃、英領香港攻撃、マレー沖海戦等初期の戦争には全て勝利した。不思議なことだ。>

 一つ加えると、当時真珠湾には2隻の米軍空母が配備されていたのだが、真珠湾攻撃が決行されたときには2隻とも外洋に出ていて攻撃を免れている。攻撃を事前に把握していたアメリカ上層部が、意図的に空母2隻を外洋に避難させた可能性が高い。

 OSS計画に関する田中教授の分析が真実とすれば、戦争には敗れたものの国体が存続されたので日本人は「終戦」と受け止め、300万人に上る犠牲者を出しながらも、関東大震災のように粛々と「終戦」を受け入れたことになる。

 しかしアメリカの視点に立てば、幾ら待っても戦後の日本に革命は起きなかった。この食い違いが何故起きたのかと言えば、アメリカが「キリスト教の思考」をしたのに対して、日本は「神道の思考」をして、戦争の結果をあるがままに受け入れて歴史に封印したからだった。

 高知大学名誉教授の福地惇氏は資料4で次のように述べている。

 <皇室を含めて日本文明を殲滅しようという壮大な戦略戦術の下にあの戦争はあったと考えられる。確かにあの戦争は宗教戦争の色彩が濃厚だが、それを「文明の衝突」と呼びたい。ユダヤ・キリスト教の「自然を征服」しようとする一神教を土台にした欧米の文明と、八百万の神々と山川草木悉皆仏性の「人間と自然が宥和」する日本文明との衝突だ。>

明治維新からの160年(総括)

 日本と西洋は、国を作り社会を築き文化を育てて科学技術を発達させるという点で、同等の資質と能力を備えている。一言で言えば、それが先進国となった理由である。

 先進国の要件は幾つもあるだろうが、一つは経済・産業・技術開発の分野でイノベーションを怠らない民族性であることが要件となることは言うまでもない。同時に、文学・芸術・武道などの分野で世界が卓越性を認める民族性であることも、双璧で重要な要件となるだろう。日本はこれらの両分野において、西洋とは異質だが遜色ない質の高いものを生み出してきたことは世界が認める事実である。

 既に述べたように日本と西洋は「生まれと生い立ち」において決定的な違いを持っている。敢えて言えば、日本は世界で唯一1万6千年に及ぶ歴史と伝統を持っている国である。

 図2に「日本と西洋の邂逅500年」を、両者の関係の変化に注目して描いてみた。既に述べたように、凡そ500年前の日本と西洋の出会いは、一言で言えば「お互いが相手の能力の高さに驚く」という出会いだった。

 18世紀末~19世紀後半にかけて両者の交流は活発になり、双方が相手を警戒しながら交易を重ねる時代が続いた。そして明治維新は、西洋文明を目の当たりにして危機感を抱いた日本が国の様式を西洋化し、武家による封建社会を天皇中心の立憲君主制に改めた改革だった。さらに富国強兵を成し遂げて産業を起こすと同時に、海軍力を西洋の水準まで引き上げることに成功した。こうして日本は列強の仲間入りを果たしたのである。

 その頃世界は植民地獲得競争の最終段階に入っていた。ラストリゾートとなった中国大陸で、日本と西洋はとうとう激突した。但しこの激突はお互いがお互いを正しく理解できないままに起きたものだった。

 日本は17世紀以降戦争と革命に明け暮れてきた西洋の歴史と、その過程で育まれた西洋人の思考様式に対する研究を怠った。特に日露戦争において日本も関与したロシア革命が世界に及ぼしつつあった変化に対し警戒を怠ったのだった。

 一方の西洋は神道を基盤とする日本文明と日本人の思考様式を理解しなかった。キリスト教の彼等には理解できなかったという認識が正しいのかもしれない。

 日本は無謀にも大東亜戦争に突入し、300万人以上の犠牲者と国土の荒廃をもたらした。そして終戦後、アジア諸国を植民地から解放するという日本が果たした人類史に残る功績と、敗戦をもたらした失敗の総括をしないまま、「終戦」という言葉の中に封印してしまった。

 極めて乱暴であることは承知の上で、「日本と西洋の邂逅」500年の近代史を俯瞰すれば、このように整理できるだろう。

歴史の教訓

 歴史を概観すれば、日本は仏教伝来以来、渡来人がもたらした制度や文化・宗教を寛大に取り込んできたのだが、いつの時代にも丸ごと受け入れることはしなかった。長い時間をかけて日本文明(文化・伝統・宗教等)と融合させ、それを補強するものは取り入れ、それを乱すものは容赦なく排除した。仏教や漢字、律令制、儒教など、その例は枚挙に暇がない。

 幕末に到来した西洋文明に対しては、立憲君主制、民主主義、資本主義、三権分立等の制度を意欲的に取り込んで日本版のシステムを矢継ぎ早に具現化していった。こうして20世紀初めには急速に西洋化を推進して日本は西洋に匹敵する海軍力を持つに至った。

 但し日本が見逃した重要な世界の動向があった。それは、ユーラシア大陸の西域で起きた二つの革命が20世紀の世界に大きな影響を及ぼした事実だ。その一つはフランス革命(市民革命)であり、他一つはロシア革命(共産主義革命)である。これは日本では起きなかったものの、西洋各国で起きた重大事件だった。

 そして欧州で起きた二つの革命は、あたかもバタフライ効果のように、太平洋戦争の終結に大きな影響をもたらした。当時社会主義に傾倒していたルーズベルト大統領と、ロシア革命の立役者の一人でルーズベルトを巧みに操ったスターリンと、ルーズベルトを戦争に引き込んだチャーチルがヤルタ会談で終戦のシナリオと戦後の枠組みについて協議したのだった。

 もしルーズベルトが戦後世界の社会主義化に傾倒せず、偏見を抱かずに日本をあるがままに理解していたなら、太平洋戦争は回避された可能性が高い。またもし日本がロシア革命以降の社会主義化の動向と、ヤルタ会談の陰謀にインテリジェンスを働かせていたなら、アメリカの挑発に乗って真珠湾を攻撃するという過ちを回避できたと思われる。

 日本の教訓として言えば、明治維新で国家の様式を西洋式に改めたことは正しかったのだが、西洋と並ぶ軍事力を持つ列強の一員となった時に、一つの検証が必要だったのだ。それは西洋の様式と日本文明をどう融合させれば日本の未来となるのかについて、客観的かつ戦略的に考えを巡らすことだった。

 田中英道氏は、日本が持つユニーク性について次のように形容している。(参照:資料1)

 <西洋人は、日本には地獄も天国も神すらないことに驚く。日本の素晴らしいところは、自然が豊かであり自然に裏切られないことだ。自然災害には翻弄されるが、回復可能であり人生の中で計算済みとして諦めるという心境を日本人は大切にしている。>

 <日本の共同体原理は「和をもって貴しとなす」にあり、間違いなく世界の原理となるべきものだということを世界に明確に伝える必要がある。>

 <日本は島国であるという幸運によって、最初から自立国家であり、人々は同じ言葉を使い、同じ習慣で生きてきた。国家概念が言葉として用意されていなくとも。列島が一つの共同体、すなわち国であるという意識が根付いている。日本には天皇がおられ、伝統と国家のアイデンティティを日本人は持ち続けた。>

エピローグ(ポスト戦後80年)

 日本文明と「西洋」との融合は未完のまま現在に至っている。そう断言する理由は、明治維新から敗戦に至る約80年の間に日本が取り入れた「西洋」を、日本文明と融合させる作業が「終戦」という言葉で封印されてしまったからである。言い換えれば、敗戦を終戦と言い換えたことによって、日本の近代史について総括をしないまま思考停止状態に陥ったのだった。

 今年は戦後80年である。戦後世界の秩序を牽引してきた西側先進国が弱体化し、専制主義国が強くなりBRICSやGSが台頭した結果、世界は多極化に向かい国際秩序は不安定化した。これは西洋の価値観や思考様式が世界に受け入れられなくなってきた証でもある。

 戦後80年の現在、ウクライナ戦争が破壊してしまった国際秩序を大急ぎで再構築し、次の戦争を防止することが最優先の課題であるだろう。西洋とは異なる文明、特に宗教観を持つ日本が、欧米と協調しつつ独自色を出して行動し役割を果たすときが来た。そう思うのである。

 もう一度図2を見てもらいたい。歴史において日本が毅然と行動した二つの事例を挙げよう。一つは第一次世界大戦が終結した時のパリ講和会議での行動であり、他一つは当時列強の植民地となっていたアジア諸国を解放した大東亜戦争である。

 1919年に第一次世界大戦後で破壊された国際秩序の再構築を討議するパリ講和会議が開催された。この国際連盟委員会において元外相だった牧野伸顕氏は、「人種・宗教の怨恨が戦争の原因となっており、恒久平和の実現のためには人種差別撤廃が必要である」と述べて、「国際連盟規約」中に人種差別の撤廃を明記する提案を行った。

 出席者16名の内、賛成11、反対5で過半数を得たのだが、議長を勤めたアメリカ大統領ウィルソンが「このような重要な法案は全会一致であるべきだ」と宣言して否決されてしまった。

 二つ目の事例は大東亜戦争である。20世紀初頭まで欧米列強は植民地獲得競争に明け暮れていた。これに対して明治維新を成し遂げて列強の仲間入りを果たした日本は、アジア諸国を植民地から解放するという崇高な目標を掲げて大東亜戦争を戦った。自らは未曽有の損失を被ったものの、これを機にアジア諸国は独立を果たしたのだった。日本人はこの事実と功績に堂々と誇りを持つべきである。

 これらは何れも西洋の理不尽な行動に対して断固たる異議を唱えた勇気ある行動だった。言い換えれば「強者は弱者から略奪してもいい」という、当時のキリスト教国の思考様式に対して、「人類は自然という宿命のもとで共存共栄を志向する存在である」という神道の日本が提起した反論だったのだ。

 利害が対立する課題に対して国際社会の意見を取りまとめることは容易なことではない。端的な例を挙げれば、地球温暖化問題や核軍縮問題は少しも進展していない。従来の枠組みとアプローチでは打開することは容易ではないだろう。

 図2が物語るように、明治維新後の約160年には日本と西洋が列強として相互に警戒し衝突したときと、先進国として協調行動をとったときが交錯している。トランプ第二期政権がスタートした今、日本は現在人類が抱える「ポスト戦後80年」の課題を解決するために、ユニークな日本文明が蓄えてきた教訓と知恵を活用して新たな役割を担う時が来た。心からそう思うのである。

参考資料:

資料1:「虚構の戦後レジーム、保守を貫く覚悟と理論」、田中英道、啓文社書房、2022.12

資料2:「日米戦争最大の密約」、田中英道、育鵬社、2021.6

資料3:「憂国のリアリズム」、西尾幹二、ビジネス社、2013.7

資料4:「自ら歴史を貶める日本人」、西尾幹二と現代史研究会、徳間書店、2021.9

「思考停止の80年」との決別 第2部

(3)欧米列強の近代史俯瞰

 欧州の歴史は多くの国と民族が複雑に相互作用しながら、戦争や革命を幾度も繰り返して綴られてきた。その複雑怪奇な歴史を、二つの大きな潮流である欧州大陸国家の変遷と、大航海時代から植民地開拓競争に至る5世紀に及ぶ変遷を概観した上で俯瞰してみたい。

 第2部で参照した資料は、次のとおりである。

  ・資料①:『情報の歴史』、松岡正剛、編集工学研究所、NTT出版、2001年

  ・資料②:『自ら歴史を貶める日本人』、西尾幹二と現代史研究会、徳間書店、2021年

  ・資料③:『戦争と財政の世界史』、玉木俊明、東洋経済新聞社、2023年

欧州大陸の近代史

 はじめに、欧州の時代区分は中世、近世、近代の三つに分けられる。まず中世の欧州は、紀元476年に滅亡した西ローマ帝国を継承する形で、紀元800年にカール大帝が即位して誕生した「神聖ローマ帝国」と、各地方の領主が収める「領邦」からなる封建体制だった。そして15~16世紀前半に起きたルネサンス、宗教改革、大航海時代の幕開け以降は近世と区分され、市民革命や産業革命が始まった18~19世紀初頭以降は近代と区分されている。

 欧州の近代史を俯瞰するためには、近世から近代に流れ込む歴史の本流を理解する必要がある。はじめに近世以降の歴史の転換点となった出来事を図1に線表としてプロットしてみた。歴史の転換点になった大事件は四つある。

 <第一の事件>は1618年に起きた「三十年戦争」である。これは神聖ローマ帝国を舞台に起きたカトリック対プロテスタントの宗教戦争だった。30年に及ぶ戦争はカトリックのハプスブルク家が敗北して終結した。終結した1648年に関係国の首脳が集まって「ウェストファリア条約」が締結され、欧州大陸に新たな体制(ウェストファリア体制)が形成された。

 三十年戦争は以下に代表される大きな変化をもたらし、ウェストファリア体制の確立は欧州大陸に新たな力の均衡をもたらした。

 ①神聖ローマ帝国が瓦解し、支配下にあった諸国が独立した

 ②領地を拡大したブルボン朝フランス王国は大陸最強国家となり、神聖ローマ帝国から離脱した

 ③ドイツでは各諸侯の主権が認められ、300に及ぶ領邦国家が誕生した

 ④スウェーデンも領土を拡大して強国となり、ネーデルランド連邦共和国(オランダ)やスイス連邦が神聖ローマ帝国から独立した

 ⑤これを契機としてオランダは黄金期を迎え、イギリスが覇権を握るまでの間、欧州海運の主導権を握った

 ⑥この条約の成立によって、教皇や皇帝という超国家的な権威が欧州を単一のものとして統治する体制が消滅した

 <第二の事件>は1756~63年に起きた「七年戦争」である。戦争の発端は神聖ローマ帝国の瓦解によって失った領土をプロイセン王国から取り戻すことを目論んでハプスブルク家が仕掛けたものだった。ここにイギリスとフランスによる植民地開拓の主導権争いが加わって、欧州の広域で大戦争が展開された。

 <第三の事件>はルイ16世の治世下の1789年に起きた「フランス革命」であり、ウェストファリア体制を揺るがす大事件となった。1792~1802年にはフランス革命を巡ってフランスと欧州諸国との間で戦争が勃発した。フランス革命に対して諸国が干渉する形で起きた戦争だったが、フランスは戦争に勝利して共和制となった新政府を国際的に承認させることに成功した。

 そして1804~1815年に「ナポレオン戦争」が起きた。ナポレオン・ボナパルトはフランス軍を率いて一時欧州の大半を征服したが、スペイン独立戦争とロシア遠征で敗退し、ワーテルローの戦いで決定的な敗北を喫して、1815年に戦争は終結しナポレオンは失脚した。

 ナポレオン軍が圧倒的な強さを見せた理由は、ナポレオン戦争以前の欧州諸国の軍隊が傭兵主体だったのに対して、フランス軍は革命で実現した共和国の防衛意識に燃えた国民軍だったことにある。軍隊も大規模化して、七年戦争期には20万人を超える軍隊をもつ国は僅かだったが、フランス軍は150万人規模になり、ナポレオン戦争期には300万人に達したという。

 1815年にナポレオン戦争後の秩序形成をテーマとして「ウィーン会議」が開催された。オスマントルコを除く全欧州諸国が結集した。「会議は踊る」と揶揄されたように会議は遅々として進展しなかったが、最終的に「基本的に1792年以前の体制に回帰する」という合意に達した。こうして作られた王政復古の体制を「ウィーン体制」と呼ぶ。

 こうして平穏を取り戻したかに見えた欧州だったが、<第四の事件>が1848年に市民革命の連鎖という形で起きた。まず多数の王国や公国が割拠し、復古体制に対する民衆の不満が高まっていたイタリアのシチリアで、1月に王国からの分離独立と憲法制定を要求する暴動が起きた。これは「一月革命」と呼ばれイタリア各地へ伝搬した。

 そして2月にはフランスで、政府が政治集会に対する解散命令を出したことを契機に、これに激怒した労働者・農民・学生によるデモやストライキが起きた。翌日首相が辞任し、2日後には武装蜂起が起きて国王が退位する事態に発展した。このフランスの「二月革命」はオーストリア帝国、ハンガリー王国、ボヘミア王国、プロイセン王国へと拡大し、欧州諸国に伝搬していった。

 こうしてウィーン体制は崩壊した。1871年にはドイツ帝国が誕生し、フランスは1874年に三度目の共和制に移行した。

大航海時代から植民地開拓へ

 15世紀から始まった「大航海時代」が世界の近世・近代史に与えた影響は、次の三点に要約できる。第一は大陸を結ぶ海上航路の開拓であり、第二は大陸間の貿易と人の交流(奴隷を含む)であり、そして第三は世界の植民地化である。

 図2に大航海時代における歴史の転換点となった出来事を図解して示した。図から一目瞭然のように、大航海時代の第1陣の主役はポルトガルとスペインだった。1世紀以上遅れてイギリス、フランス、オランダ他が第2陣として登場した。

 ポルトガルはまずアフリカ航路とインド航路(東回り)を開拓した。次にスペインが西回りでアメリカ大陸への航路を開拓した。15~16世紀はポルトガルとスペインの独壇場だった。第2陣が第1陣に大きく遅れた理由は、国が安定しておらず外に向かう体制が整わなかったからだった。

 日本に最初にやってきたのは1543年に種子島に漂着したポルトガル人だった。このとき鉄砲に注目した西村時貫が火縄銃2丁を買い求め、家臣に火薬の調合を学ばせると同時に刀鍛冶を集めて数十挺の複製を造り、さらに堺の商人もやってきて、日本は数年で銃の製法を学び取ったと言われる。織田信長が天下を統一したのは1573年であり、1575年の長篠の戦いで織田・徳川連合軍が武田勢を迎え撃ったときに、織田勢は鉄砲三千挺を用意して新戦法三段撃ちを行ったと言われる。

 1550年にはイエズス会の宣教師だったスペインのフランシスコ・ザビエルがやってきて山口で布教を始めている。1600年にはオランダ船リーフデ号で豊後の黒島に漂着したイギリス人ウィリアム・アダムズは家康に謁見し、引き留められて家康に世界情勢を伝えている。1603年には徳川家康が江戸幕府を開いたが、1609年には平戸に商館を建ててオランダに通商許可を与えている。

 このように戦国時代から江戸幕府成立の時期に、大航海時代の第1波が日本に到達したのだった。

イギリスの近代史

 欧州列強の中でイギリスは他の諸国とは異なる変遷を経て、しかも他国よりも早く近代国家を実現している。イギリスの変遷には三つの大きな出来事があった。第一は早い段階での立憲君主制の確立であり、第二は大英帝国の成立であり、そして第三は海洋開発と産業振興の推進である。図3にイギリスの近世以降の歴史の転換点となった出来事を図解して示した。

 イギリスは1642年の清教徒革命、1649年のクロムウェルによる共和制、1688年の名誉革命を経て、世界に先駆けて立憲君主制を確立した。イギリスと対照的に、大陸諸国が王政、帝政、共和政の間で揺れ動いて戦争と革命を繰り返して、最終的に議会制民主主義を基本とする国家体制を築いたのは、1848年に起きた欧州革命以降のことである。イギリスは国家の骨格を固めるのが他の欧州国家よりも160年も早かったことに注目すべきである。

 イギリスの場合、大陸国家と国境を持たないことが幸いしている。大陸国家が周辺国との領土紛争に明け暮れて、国境を画定するのに数世紀もの歳月を要したのに対して、イギリスは近代以前の三つの王国(イングランド、スコットランド、アイルランド)が統合してできた。1707年にまずイングランドとスコットランドが統合して大ブリテン王国となり、1801年にはアイルランドが加わって大英帝国の枠組みが完成している。

 欧米列強による植民地開拓競争の結果は、1936年の時点で世界の全植民地の約6割をイギリス、ロシア、フランス、アメリカの四ヵ国が所有していて、イギリスはトップで約27%だった。植民地開拓競争でイギリスが最強の地位を獲得した理由は何だったのか。三つの理由が考えられる。

 第一は清教徒革命では軍人として戦い、イングランド共和国の護国卿となったオリバー・クロムウェルが1651年に航海法を制定し、海運業、造船を国策として推進したことである。イギリス以前に欧州の海運を制していたのはオランダで、当時オランダは欧州の船舶の1/3~1/2を支配していたが、その主役は商人だった。それを国家が推進するシステムに転換することで、イギリスはオランダを駆逐して欧州物流を掌握したのである。

 第二は世界に先駆けて1768年から産業革命がイギリスで始まったことである。19世紀は「蒸気の時代」と呼ばれ、20世紀初頭には世界の船舶の半分(トン数ベース)がイギリス製になった。

 第三は海上輸送の保険をビジネスとする保険会社ロイズの登場と、イギリスが世界の電信の大半を敷設したことである。当時、電信のインフラは海底ケーブルの敷設を含めて民間には手に負えない国家事業だった。しかも海底ケーブルの敷設には蒸気船が不可欠だった。イギリスはこうして、現代で言えば通信と情報、通信サービスとその決済システムを国家事業として推進したのだった。(参照:資料③)

アメリカの近代史

 次にアメリカの近世以降の歴史の転換点となった出来事を図解して図4に示す。図から読み取れるように大事件は三つある。第一は欧州からの入植、第二は独立戦争、第三は南北戦争である。

 「大航海時代」の潮流が北米大陸に到達し、17世紀初頭に欧州諸国から北米大陸の東海岸への入植が始まった。具体例を挙げると、1606年にイギリスからバージニア州のジェームズタウンへ、1608年にはフランスからカナダのケベック州へ、そして1620~91年にはイギリスからニューイングランド(現在のボストン周辺)へ大規模な入植が行われた。

 前述したように、1756~63年に欧州で七年戦争が起きた。この戦争には神聖ローマ帝国の領地を巡る戦争の他に、イギリスとフランスが戦った植民地開拓の主導権争いが含まれている。後者の戦場は北米大陸に飛び火して、「フレンチ・インディアン戦争」が起きた。つまりフランス軍とフランスに味方したインディアンを相手としてイギリス軍が戦った戦争である。イギリスが勝利してイギリスが北米大陸の主要な植民地を管理下においた。

 こうして北米大陸における対立はアメリカ対イギリスの構図になっていった。1773年にボストンの急進派がイギリスに対する抗議として、停泊中の船舶から積荷の茶箱を海に大量投棄するという「ボストン茶会事件」が起きた。この2年後にはボストン近郊のレキシントンとコンコードで戦闘が起きて、アメリカ独立戦争の幕が開いた。

 1775~83年にアメリカ独立戦争が起きた。1776年7月4日には北米の13州が独立を宣言してアメリカ合衆国が誕生し、1783年のパリ条約で、大英帝国はアメリカの独立を承認した。ちなみにジョージ・ワシントンが最初の大統領選挙によって初代大統領に就任したのは1789年のことである。

 1823年になると第5代大統領ジェームズ・モンローが、アメリカ合衆国がヨーロッパ諸国に対して、アメリカ大陸とヨーロッパ大陸間の相互不干渉を提唱している。アメリカの「モンロー主義」は現在においても世界の出来事にアメリカは関与しないという場面で繰り返し登場している。

 そして1861~65年に南北戦争が起きた。独立した南部11州と残留した北部23州が戦った内戦であり、双方合わせて戦死者20万人、総死者65万人に及ぶ途方もない損害を出して戦争は終結した。

 独立宣言以降、1791年から1959年に至る168年の間に、アメリカ合衆国はバーモント州(14番目)からハワイ州(50番目)に至るまで、新たな州を一つずつ加える形で領土を拡大していった。その中にはロシアから購入したアラスカも含まれている。そして1890年以降にアメリカは帝国主義となった。

ロシアの近代史

 最後にロシアの近世以降の歴史の転換点となった出来事を図解して図5に示す。17世紀初頭にロシアには「ツアーリ」と呼ぶ国王が統治する国家が存在した。ミハイル・ロマノフが1613年にロシア国のツァーリに即位し、ロマノフ朝が成立した。1682年に即位したミハイルの孫にあたるピョートル1世は西洋化・近代化を急速に進めて、1721年にはピョートル大帝を名乗りロシア帝国が誕生した。ロシア帝国は勢力を欧州から沿海州まで拡大して欧米列強と肩を並ぶ存在となり、1917年にロシア革命によって滅ぶまで続いた。

 マルクスに言及せずにロシアの近代史を論じることはできないだろう。欧州で市民革命が相次いだ1848年に、カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスが共同で書籍『共産党宣言』を発表した。マルクスは人類の歴史は領主対農奴、資本家対労働者などの階級闘争の歴史であるとし、プロレタリアート(労働者)がブルジョワジー(資産階級)から政治権力を奪取し、生産手段などの資本を社会の共有資産に変えることによって社会が発展し、階級が消滅する共同社会が訪れると考えた。

 日露戦争が起きた20世紀初頭、ロシアは帝国だった。日露戦争で日本に敗れ、第一次世界大戦でドイツに対し劣勢となるにつれて、ロシア国内では労働者のデモやストが起きて革命の機運が高まった。

 当時革命を目論む集団が二つ存在していた。一つは穏健な民主主義的革命を目指した社会主義右派の「メンシェヴィキ」で、他一つは軍事革命を目指したウラジーミル・レーニンが率いた「ボリシェヴィキ」である。1917年に起きた二つの革命を経てボリシェヴィキが優勢になり、1922年には人類史上初の社会主義国家となるソヴィエト社会主義共和国連邦が樹立された。

 マルクス主義では、労働者階級による共産主義革命と資本主義の廃止は、世界規模で起きる歴史的必然であると考えられていた。それを踏まえてレーニンはロシア革命を「世界革命の一環」と位置付けたが、他の欧州諸国では革命は起きなかった。このため世界における共産主義革命をどこまで追求するかが論点となり、最終的にスターリンが主張した「一国社会主義論」に収束していった。

 結局ソヴィエト型の社会主義は世界に波及せず、ソ連はアメリカとの軍拡競争についてゆけずに1991年に崩壊した。ソ連はロシア連邦を含む15ヵ国に分裂し、それぞれが独立して今日に至っている。2022年2月にプーチン大統領がウクライナに軍事侵攻した遠因として、ソ連崩壊時のウクライナとの関係があることは言うまでもない。 

(4)近代史における欧米列強と日本の相互作用

 以上、歴史の本流を辿りながら、極めて簡潔に欧米列強の近代史を概観してきたが、ここからはその理解を踏まえて、欧米列強と日本との近代史における相互作用について考えてみたい。

近代国家の成立

 まず始めに、欧米列強5ヵ国と日本が近代国家となった時期を比較してみよう。時系列に並べると、イギリス統合が1801年、アメリカ南北戦争終結が1865年、明治維新が1868年、ドイツ帝国の誕生が1871年、フランス共和国の誕生は1874年だった。そしてソヴィエト社会主義共和国連邦は1922年に誕生した。 イギリスが一足早く、ロシアは一足遅かったが、アメリカ・日本・ドイツ・フランスは19世紀後半に近代国家となった。日本は江戸時代が長く、しかも鎖国をしていたので、欧米列強よりも遅れて近代国家の仲間入りをした感があるが、イギリスとロシアを除く他の諸国と殆ど同時期に近代国家となったのだった。

大航海時代が日本に与えた影響

 既に述べたように、大航海時代が世界の近世・近代史に与えた大きな影響は、第一に大陸間航路の開拓、第二に大陸間の貿易と人の交流、第三に世界の植民地化だった。その中で大航海時代が日本の近代史に与えた影響は三点に要約できる。第一は鉄砲伝来、第二はキリスト教の布教、そして第三は明治維新と文明開化の促進である。

 既に述べたように、1544年に種子島に火縄銃が伝来した事件は、織田信長の天下統一に大きな影響を与えた。しかも鉄砲伝来から僅か数年の内に日本は鉄砲を量産していた。こうして第1陣として日本にやってきた宣教師たちは、日本を植民地化することを早い段階で諦めたのだった。

 そして第2陣が日本にやってきたのは幕末だった。1840年に起きたアヘン戦争が警鐘となって討幕運動に火がついて、日本は一気呵成に明治維新を推し進めた。

日本とイギリスの類似性と対照性

 ここで日本とイギリスの類似性を見ておきたい。両国はユーラシア大陸の両端に位置する島国であり、共に立憲君主制の議会制民主主義国家である。イギリスで立憲君主制が確定したのは1688年の名誉革命であり、一方日本では歴史の初めから「万世一系の天皇制」であり、最初の憲法は604年に聖徳太子が定めた「十七条の憲法」である。

 単純に比較することはできないが、立憲君主制の成立は日本の方が約1,000年も早いという解釈も成り立つ。ちなみにイギリスの最古の憲法は1225年に改正されたマグナ・カルタであり、その一部は現在のイギリスにおいても憲法を構成する法典の一つを成している。

 鎌倉時代以降明治維新に至るまで、日本は天皇の権威のもとに武士が政治を行う封建社会だった。一方イギリスは国王のもとに国が統一されるまでは地方領主が統治する多数の領邦から構成される国だった。日本が君主中心ではなく議会中心の立憲君主制となったのは1868年の明治維新であり、イギリスが180年程先行していたことになる。

 一方、国家が統一されたのは日本では1603年の江戸幕府誕生であり、戦国時代に信長、秀吉、家康がそれぞれの役割を果たしてバトンを渡し、比較的短期間で天下統一が成し遂げられた。一方イギリスでは1801年に大ブリテン王国にアイルランドが加わった時に国家が統一されており、日本が約200年先行したことになる。

 また両国は共に近代化の前に封建制を経験しており、武士道と騎士道という文化の共通性もある。このように、大陸の両端の島国である日本とイギリスには、他のどの国よりも類似点が多い。地理的な立地条件が同じことがその類似性の背景にあるように思われる。

 一方で日本とイギリスが対照的であるのは、イギリスが世界に打って出て欧州列強との間で戦争を繰り返し、海上の覇権を争った末に世界最強の海洋国家となったのに対して、日本は来航した欧米列強の圧力に対し必死に防戦する過程で列強の仲間入りを果たしたことである。

 この対照性はどうして生まれたのだろうか。理由の一つは周辺国との関係にある。イギリスが強力な大陸国家と近代化を競いつつ発展してきたのに対して、日本の隣国である中国と朝鮮は、日本が必死に明治維新を成し遂げた1868年時点においても、欧米列強による植民地化という危機に対して、近代化から取り残されたままだったのである。

 第三部で詳しく述べるが、この事実が日本が大東亜戦争へ突入していった大きな原因となったのだった。

日本とアメリカの類似性と対照性

 ペリー率いる船団が日本に来航したのは南北戦争の直前であり、明治維新が起きたのは南北戦争直後だった。日米両国には、ほぼ同時期に内戦を経て近代国家となったという類似性がある。

 一方、対照的な事実は二つある。第一は日本が単一民族による国家であるのに対して、アメリカは欧米列強からの移民が移住して建国された点だ。言い換えると、単一性と多様性という点で日米は対照的であり、これは現在にも当てはまる。

 第二は内戦における戦死者の数である。アメリカは南北戦争で戦死者20万人の犠牲を出したのに対して、日本では戊辰戦争の総死者は両軍合わせて約8千人強だった。同じ内戦でありながら戦死者に25倍の開きがあるのは尋常ではない。

 一体その違いはどこから生まれたのだろうか。それを考えるヒントが戦争に対する両国の立ち位置の違いにあるように思える。日本は太平洋戦争での敗戦以降は如何なる戦争にも直接的に関与しなかったが、アメリカは朝鮮戦争、ベトナム戦争、イラク戦争、アフガン戦争など、世界の各地で間断なく戦争に関与してきた。 ここで「アメリカは覇権国だから当然だ」という解釈は、原因と結果を取り違えているように思える。むしろアメリカがDNAとして内面に保有する資質が、アメリカを覇権国にしたと考える方が真実に近いのではないだろうか。

日本がロシアに与えた影響

 既に述べたように、日露戦争は日英同盟対露仏同盟の戦いだった。日英同盟を結んだイギリスの狙いは、ボーア戦争に多くの資源を投入せざるを得なかった状況下で、露仏同盟、特にロシアに対抗する手段として日本を利用することにあった。結果論になるが、日本はイギリスの代理戦争としてロシアと戦争を行ったことになる。

 そして日露戦争に勝利したことで、日本は欧米列強のパワーゲームに否応なしに巻き込まれていった。日露戦争における勝利が世界の近代史に及ぼした影響について、資料②は次のように論じている。

≪日本は日清戦争の時代から国際秩序に大きな影響を与えていた。二十世紀を動かした大きな要因の一つが、日露戦争における日本の勝利だった。問題は(国際情勢に与えた)日露戦争の影響について、日本自身が正確に評価できなかったことだ。≫

≪日本がギリギリのところで勝利を収めると、イギリスはインドを確保できて安堵し、ドイツやオーストリアは弱体化したロシアを横目で睨みつつ、バルカン半島への圧力を一層強めていった。その帰結が英仏ロと独オーストリアとが雌雄を決した第一世界大戦だった。≫

≪日露戦争は、第一次世界大戦を引き起こしたと同時に、ロシア革命も引き起こした。二十世紀を動かしたのは日露戦争だと言っても過言ではない。≫

エピローグ

 複雑怪奇な国際情勢を、極めて単純化して俯瞰し、近代史における日本と欧米列強との相互作用について考察を加えてきた。専門家から見れば、極めて荒っぽいと批判されるかもしれない。しかし本資では歴史の正確さよりも大きな流れを捉えることを重要視したので、ご容赦願いたい。第三部では、近代史の後半として、世界大戦期の日本と欧米列強との相互作用について考察を加えたい。

終焉を迎えるバブル経済と資本主義

第2部:資本主義の変遷と変質

 本稿を書くにあたり、参照した文献は以下のとおりである。

 資料1:「戦争と財政の世界史、成長の世界システムが終わるとき」、玉木俊明、東洋経済新報社、2023.9.26

資本主義の始まり

 資本主義は欧州で始まった。資本主義の仕組みが形成されていった背景には、大航海時代の幕開けとそれがもたらした植民地化がある。15世紀半ばから17世紀半ばにかけて、先陣を切ったポルトガルとスペインはアフリカ・アジア・アメリカ大陸への航路を相次いで開拓した。大航海時代は海運の発達による物流の拡大と植民地化をもたらした。さらに16世紀には軍事革命が起きて、軍艦の舷側砲やマスケット銃(火縄銃)等が実用化され、植民地化に拍車をかけることとなった。

 資本主義の始まりについては諸説あるが、その一つは1531年にネーデルランド(現在のベルギー、オランダ、ルクセンブルクを統合した地域)のアントウェルペンに取引所が開設されたことを起源とするものだ。アントウェルペンは後にイングランドから半製品の毛織物を輸入して、それを完成品にしてヨーロッパ各地に輸出するという貿易を行い、大航海時代にヨーロッパにおける商品集散地としてヨーロッパ経済の中心となった。

 当時スペイン帝国の統治下にあったネーデルランドは、1568年に独立戦争を開始した。スペインの無敵艦隊が1588年にアルマダの海戦でイギリスに敗れたことを転換点として、スペインに対しオランダが優勢になっていった。他国に先駆けて1602年に東インド会社を設立し、1609年にはアムステルダム銀行が創設されて欧州の商業決済を担うようになり、オランダは欧州の商業決済の中心となった。

 この時期のヨーロッパはカトリックに反発してプロテスタントが生まれた時代であり、神聖ローマ帝国(現在のドイツ他)を舞台に、欧州各国が介入して<三十年戦争>と呼ばれた宗教戦争が1618年に勃発した。戦争が終結した1648年にウェストファリア条約が締結され<ウェストファリア体制>と称する新たな国際秩序(主権国家体制)が形成された。

 オランダはヨーロッパで最初に金融を発達させ、近代的な財政制度を整備した国である。ウェストファリア条約で正式な独立を果たしたが、それ以前からヨーロッパ最大の経済大国だった。但し後のイギリスと異なり、オランダ共和国は一貫して地方分権の国であり、世界初の覇権国となったにも拘らず資本主義は商業ベースだった。オランダ覇権の時代の世界システムは、物流を中心とする商業ネットワークの時代だった。国家から独立した国際貿易商人が商品や、マネーや情報の流通を担う<重商主義の時代>だったのだ。

 重商主義とは国家の輸出を最大化し、輸入を最小化することを目指す国家的な経済政策であり、16世紀~18世紀のヨーロッパ地域で支配的な考えだった。

資本主義のシステム化

 商業活動の仕組みとしての資本主義、経済成長を担う民間の商業活動、国力を形成する経済力と軍事力、経済を運営するための財政、軍事力を強化するための軍事革命の推進等、これらバラバラの要素を関係づけることに最初に成功したのがイギリスだった。それがイギリスを覇権国とした原動力となった。言い換えると、イギリスは経済成長のために「資本主義をシステム化」したことになる。

 システム化というのは現代の用語だが、イギリスが行った「資本主義のシステム化」の本質は「マネーの流れの仕組みづくり」だった。具体的に言えば、民間が行う商業活動に大規模な公的資金投入を可能とする、財政や税の制度を整備することであり、商業活動を活発にするインフラを整備することであり、軍需を拡大して重工業を促進することであり、イギリスが他国に対して優位に立つための法律を整備することだった。

 実際にイギリスは1608年に東インド会社を設立した。1651年には、ピューリタン革命を指導し共和制を敷いたオリヴァー・クロムウェルが「航海法」を制定して、国家主導で海運業を促進した。クロムウェルは1654年には消費税を導入してイギリスの財政を安定化させることに成功している。1694年にはイングランド銀行が創設され、預金・貸付・商業手形・為替等の金融業務を開始した。

 イギリスが進めた政策の中で、「戦争中に借金をしてそれを平時に返却する」という近代的な財政システムを構築したことは特筆に値する。玉木俊明教授は著書の中で、「イギリスの国家財政には、重税に耐えながら経済成長を促す効果があった。これこそがイギリスが戦争に勝ち抜くための資金を提供できた決定的な要因だった。」と述べ、さらに「イギリスは他のヨーロッパ諸国とは異なり、18世紀の内に財政金融システムの中央集権化に成功していた。他国より1世紀も早く、政府の力によって経済を成長させようとしていた。」と指摘する。(参照:資料1)

 1815年6月のワーテルローの戦いで、イギリス・オランダ連合軍はナポレオン率いるフランス軍に勝利して、ナポレオン戦争が終結した。フランス革命とナポレオン戦争終結後のヨーロッパの秩序再建と領土分割を目的として、1814年9月にウィーン会議が開催された。これを契機として<ウィーン体制>と称する新たな国際秩序(国民国家体制)が形成された。そして英仏をモデルとする国民国家が相次いで誕生した。

 ウィーン体制成立と同時に重商主義の時代が終わり、<帝国の時代>となった。商人は国家による保護と国家が提供するインフラの上で商業活動を営むようになった。この時代にイギリスが覇権国家となった要因として、以下の三点を挙げることができる。

 その第一は既に述べてきたように、「資本主義のシステム化」だった。商業ベースだった活動を国家の経済に取り込んで、国家として資本主義を推進したのである。第二は世界最強の海運国家となったことだった。そして第三は世界で最初に産業革命を成し遂げたことだった。

 こうしてイギリスは情報と金融決済の中心となり世界経済システムを掌握したのだった。イギリスは19世紀初頭には世界一の海運国家となり、蒸気船による定期航路を整備して世界の商品輸送と、海上輸送保険(ロイズの前身)を担った。さらに蒸気船を使って世界中の電信網(海底ケーブルを含む)を敷設した。そして20世紀初頭には、世界のトン数の半分を所有するに至った。

 イギリスは18世紀後半に世界で最初の産業革命を実現している。1789年には蒸気機関を動力源とした紡績工場が稼働を開始した。19世紀は「蒸気の時代」と呼ばれ、それを牽引したのはイギリスだった。1806年にはそれまでの軽工業から軍需生産を可能とする重工業に転換して工業化を促進した。

 これらの政策を推進するには巨額の資金を必要としたが、イギリスはイングランド銀行が公債を発行し議会が返済を保証するシステムを構築してその課題を解決した。大英帝国を維持するには巨額の資金を必要としたことは間違いなく、実際に1700年から1800年のイギリスの公債発行額はGDP比で20%から160%に急増している。

 1820年には200%となりピークに達したが、その後経済成長を果たして1900年には約40%に縮小させている。但し「戦争の世紀」と言われた20世紀に入って再び上昇し、第二次世界大戦時には240%に達した。この結果、覇権を維持するコストを負担できなくなって、イギリスからアメリカに覇権が移行したのだった。 

資本主義の変質

 図1に示すように、資本主義の要素は、資金の貸し手としての銀行、新しい事業の担い手としての起業家、生産に従事する労働者、商品を購入すると同時に銀行に預金する消費者とで構成される。

 図1が明示するように、資本主義とはマネーの流れがイノベーションを推進する仕組みであり、言い換えれば、マネーを血流して経済を発展させる仕組みである。アントウェルペンでの取引所開設は商業の始まりで、アムステルダム銀行創設によって銀行の機能が社会に整備されたことによって資本主義経済の原型が創られた。

 スペインとポルトガルが先陣を切った航路開拓は、国際貿易を促進したと同時に欧州各国による海外植民地開拓をもたらした。そして重商主義の時代が始まり、国際貿易商人が商業の場を地域から国家へ、国家から海外の植民地へと拡大していった。

 産業革命は蒸気機関を実用化したことで、生産手段の機械化という革命を起こした。蒸気船の実用化は大航海時代に開拓された航路を定期便とし、植民地と本国の間の物流を活発にして経済の国際化を拡大した。

 銀行の発達は金融を事業化するとともに、マネーの流通を経済の血流とすることに貢献した。さらにイギリスが初めて実現させた中央銀行による公債発行は、政府の資金調達に道を開いた。イギリスは資本主義をシステム化し、商業ベースだった資本主義を国家の経済ベースに格上げしたのである。こうして資本主義というゲームのアクターに国家が加わった。

 現代に至る過程で、資本主義が大きく変質した最大の要因は、マネーの力が強大化したことによる。図2に資本主義の現代版の姿を図解して示す。図1と図2を比較すれば、資本主義がどう変質したのかが分かる。

 注目すべき要点が4つあるので、順に説明しよう。図2で破線で囲った部分は産業の領域を示す。資本主義が始まった16世紀の姿と比べれば、産業が成長して規模が大きくなり、多様化して複雑になり、グローバルになり、さらに時間の進み方が格段に速くなったことを除けば、基本構造は変わっていない。

 第1の要点は、金融市場が形成されたことだ。大きさをイメージする的確な指標が見当たらないが、現在世界のGDP総額が約100兆ドルであるのに対して、世界の債務総額は約300兆ドルと言われる。つまり世界にはGDPの約3倍の債務がある。日本円に換算すると1.4京円と4.2京円という途方もない金額だ。(1ドル=140円で単純計算)

 第2の要点は、金融市場のアクターとして実質的に政府と中央銀行が組み込まれたことだ。政府が国債を発行すれば金融市場から資金を回収することになり、その資金をもとに財政出動を行えば、或いは中央銀行が金融緩和を行えば金融市場に資金が供給される。

 第3の要点は、国際金融資本家の動きである。国際金融資本家は各国の金利差を巧みに利用して巨額の資金を調達して、その資金を将来の有望市場に半ば投機として投入してきた。さらに歴史を振り返れば、国際金融資本家は双方に戦費を用立てて戦争を画策し、高利で回収して大儲けをしてきた。また財務体質がぜい弱な国の通貨を売り浴びせて暴落させ、金融危機を起こすという通貨戦争をも仕掛けてきた。

 日露戦争の例を挙げよう。明治政府は日露戦争(1904~1905)の戦費を約4.5億円(当時のGDPの約2割に相当)と見積もり、この内約1億円(日本銀行が保有する外貨の約2倍)の外債を発行して海外から調達することを閣議決定した。当時イギリスとは同盟関係にあり、当時の高橋是清日銀副総裁が奔走して英米の国際金融資本から調達した。

 そして第4の要点は、ICTの活用が金融の世界を一変させたことだ。ICTを金融取引に最大活用することで、金融は光のスピードで世界中を駆け巡るようになった。株取引は組み込まれたアルゴリズムとAIを搭載したコンピュータどうしが1ミリ秒を争うようになった。さらに大きなレバレッジが利いたリスクある金融商品が次々に生み出された。そしてICTを開発する一握りの企業が、時価主義の金融市場で途方もない資産を独占するようになった。

 以上資本主義が大きく変質した四つの要因について説明したが、それらの総合的な結果として重要なことが二つある。一つはバブル経済が常態化したことであり、他一つはマネーが経済領域に止まらず、政治をも、戦争ですら動かす力を得たことだった。ウクライナ戦争にしても、イスラエル対ハマス戦争にしても、背後にはこの力が働いていることが明白である。

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