日本と西洋の邂逅500年

プロローグ

 日本と西洋との出会いは、今から凡そ500年前の1543年に鉄砲が伝来した時に遡る。「大航海時代」が始まったのは15世紀末だった。1488年にディアスがアフリカ南端の喜望峰に到達し、1492年にコロンブスがバハマ諸島に到達した。1497年にガマはアフリカ南端を廻るインド航路を発見した。マゼランが世界一周を達成したのは1522年のことだった。

 大航海時代の幕開けは植民地獲得競争の幕開けでもあった。

 500年の間にさまざまな出来事があったが、日本と西洋の関係の変化に注目すると5つの期間に分類できる。(図1参照、第Ⅰ幕~第Ⅴ幕)

 第Ⅰ幕は鉄砲とキリスト教の伝来に始まり、限定的ながら通商を開始した16~17世紀である。二つの伝来に対して日本は対極的な対応をとったことが興味深い。最新の武器である鉄砲については、買い求めた2挺を分解して短期間で量産することをやってのけた。一方キリスト教に対しては終始禁止し布教を弾圧した。

 第Ⅱ幕は幕末から明治維新に至る18世紀末~19世紀で、列強が入れ代わり立ち代わり来航して通商を求めた時代である。1858年に大老井伊直弼が、後に不平等条約と言われた「安政五ヵ国条約」を天皇の勅許を得ずに締結した事件を契機に倒幕運動が激化した。

 第Ⅲ幕は明治維新から日露戦争に至る明治時代であり、王政復古による政権交代を成し遂げ、殖産興業と富国強兵政策によって一気呵成に近代国家へ変身を遂げた時代である。ここで軍事力を西洋並みに強化した結果、日本は日清・日露戦争を戦うことを余儀なくされた。

 第Ⅳ幕は欧米と肩を並べる軍事力を持つに至った結果、植民化のラストリゾートとなった中国大陸でイギリス、アメリカ、ロシアと対立し大東亜戦争へと突入していった昭和の時代である。

 そして第Ⅴ幕は1945年に終戦を迎えた後、GHQによる占領体制、言い換えると「戦後レジーム」を保持したまま現代に至る「戦後80年」である。

第Ⅰ幕:驚嘆の出会い

 15世紀末から始まった大航海時代は、欧州列強が大陸間航路を開拓しながら植民地獲得競争を繰り広げた時代である。ポルトガルとスペインが第1陣として、イギリス、フランス、オランダが第2陣として世界各地に進出した。(参照:『思考停止の80年との決別(2)』)

 日本にやってきた「西洋」の第1派は、1543年に種子島西村の小浦(現・前之浜)に漂着したポルトガルのモータら約100名だった。島主・種子島時堯は火縄銃2挺を買い求め、家臣に火薬の調合を学ばせたという。当時未だ戦国時代にあった日本は、瞬く間に鉄砲をコピーして、32年後の長篠の戦いでは鉄砲を大量に使用した織田・徳川連合軍が武田軍に勝利している。

 西洋の第2派は、1549年にジャンク船で中国・明から薩摩半島の坊津にやってきたスペインの宣教師だったザビエルと数人の仲間だった。イエズス会は1534年に創立されたばかりで、ザビエルはその創設者の一人だった。キリスト教に対しては、1587年に豊臣秀吉が筑前においてバテレン追放令を出しており、徳川幕府もそれを踏襲して1612年に布教の禁止令を出している。

 西洋の第3派は、1550年に通商を求めて平戸にやってきたポルトガル船だった。続いて1600年にはオランダ船リーフデ号(300トン)が豊後の国(大分県)臼杵湾の黒島に漂着した。アムステルダムを出航した時には5隻に総勢500人が分乗していたが、日本に到着したときにはリーフデ号1隻のみで生存者は僅か24名だったという。

 リーフデ号にはイギリス人ウィリアム・アダムズ(三浦按針)、オランダ人ヤン・ヨーステンらが乗っており、徳川家康に謁見して世界情勢を伝えている。そして1634年に徳川幕府は長崎の出島に商館を作ってポルトガルとの貿易・交流を容認した。その後ポルトガルは1639年に追放され、1641年以降幕末に至るまでオランダとの貿易が継続された。

第Ⅱ幕:警戒と通商

 18世紀末から明治維新に至るまでの第Ⅱ幕には列強が相次いで交易を求め、あわよくば植民地化を目論んで活発に来航した。当時実際に起きた植民地化の例を挙げると、1521年にスペインがメキシコを征服し、1537年にポルトガルがマカオを植民地化し、1623年にはオランダが台湾の澎湖島を占領している。19世紀にはイギリスがインドと中国を舞台にいわゆる「三角貿易」を行っていて、インドから清へアヘンを、清からイギリスへ茶を、イギリスからインドへ絹織物をそれぞれ輸出して、対価として銀を儲けていた。これが清の怒りを買い1840年にアヘン戦争が勃発した。イギリスは武力でこれを制圧して1842年に香港の割譲を受けている。

 第Ⅰ幕で来航した列強はポルトガルとオランダだったが、第Ⅱ幕の主役はイギリス、フランス、アメリカ、ロシアの四ヵ国だった。列強は何れも日本を植民地することは出来ず、最終的に通商目的で来訪を繰り返した。他のアジア諸国と異なり、日本は武士が統治する封建国家だったことと、識字率や庶民の生活などの点で当時の日本が西洋の予想を超える成熟社会だったことが背景にある。

 最終的に日本は1858年に、アメリカ、イギリス、フランス、オランダ、ロシアの五ヵ国と「安政の五ヵ国条約」を締結した。この条約は、①函館・神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港、②江戸と大阪にあった市場の西洋への開放、③自由貿易の承認に加えて、④領事裁判権、⑤協定関税の規定が盛り込まれており、特に④と⑤は後に不平等条約と評された。これは西洋側からすれば植民地化の代わりに得た特権であり、日本側からすれば「西洋知らず」外交の失敗だったと言えよう。

第Ⅲ幕:王政復古、富国強兵の明治

 幕末期に西洋からの遅れを強烈に自覚した日本は、1868年に始まる明治維新で「王政復古」の政権交代を成し遂げ、国家と社会の制度を西洋化に刷新した。さらに1871年11月~1873年9月には、岩倉具視を特命全権大使とする総勢107名の使節団が、アメリカ、イギリス、フランス、オランダ、ドイツ、ロシアを含む12ヵ国を訪問している。

 各国の元首を表敬訪問し、各国の街並みと当時開催中だったウィーン万博を見聞して、約2年に及ぶ視察を終えて帰国している。図1に示すように19世紀前半には西欧各国で産業革命が相次いで始まっていて、工業化が急速に進んでいた時期であることを勘案すると、使節団の人々が西洋文明に圧倒されて帰国したであろうことは容易に想像できる。

 東北大学名誉教授の田中英道氏は資料1の中で次のように評している。

 <岩倉使節団は西欧を崇拝の的とした。福沢諭吉や夏目漱石は、ロンドンの街並みを見て石の文明を実感し、万博を見て鉄鋼その他の新素材を知り、そこにある断絶に日本は遅れていると見た。日本が西洋とは異なる根本的な考え方及び精神に自信を持つことをしなかった。>

 その後の歴史を知る立場から振り返れば、西洋から学ぶべき優れたもの(国の制度・科学技術等)と、日本が古来より継承してきた西洋に勝るもの(文化・伝統等)とを等距離において眺め、両者をどのように融合させることが近代国家日本の命題なのかを客観的に、願わくば戦略として考えることが肝要だったと思う。

第Ⅳ幕:激突した昭和

 昭和の時代、戦争に至る前半はラストリゾートとなった中国大陸を巡って、日本がイギリス、アメリカ、ロシアと利権を争った時代だった。富国強兵を推進して日露戦争を戦って勝利した日本は、否応なしに中国大陸での騒乱に巻きまれていったのだった。

 日本が満州事変を戦ったのは南下しようとするロシアを食い止めることだった。そこまでは妥当だったのだが、支那事変以降、中国の内乱に巻き込まれていったことは歴史的な失敗だったと言えよう。本来日本がとるべき選択肢は、中国の内乱と距離を置いて高みの見物をすることだったのだ。

 中国の内乱について、『思考停止の80年との決別(3)』では次のように述べた。

 <注目すべきことが二つある。第一に戦争の構図としてみると、中国大陸という舞台上で蒋介石と汪兆銘と毛沢東が戦い、舞台の外側には日本と英米、ソ連が陣取るという三つ巴戦の二重構造が存在していた。そして第二に、中国大陸に大規模な軍隊を送り込んで戦争を行っていたのは日本だけで、英米ソも中国大陸に深入りしていなかった。>

 日本が支那事変から大東亜戦争へと突き進んでいった背景には、老獪なヤルタ体制(チャーチル、ルーズベルト、スターリン)の存在があった。昨年11月に逝去した西尾幹二氏は資料3で次のように洞察している。

 <アメリカは第一次世界大戦においてドイツという国家を倒し、第二次世界大戦ではナチスの世界観と戦い、第三次世界大戦(米ソ冷戦)ではソ連の共産主義という思想体系と戦い、そして第四次世界大戦(現在)ではイスラムという宗教秩序と戦っている。・・・「思想戦」という意味において、アメリカには日本と戦う大義名分も、開戦理由もなかった。結局アメリカにとって日本が列強の仲間入りをしたこと自体が想定外であり、折あらば排除したい存在となっていたと推察される。結論を先に書けば、ルーズベルトという狂人と、それを操ったスターリンと、ルーズベルトを大統領に担ぎ上げた組織の存在がなければ太平洋戦争は起きなかった可能性が高い。>

第Ⅴ幕:「戦後80年」直面する課題

 私はウクライナ戦争が起きるまで、「戦後レジームからの脱却」という言葉は戦後の日本にのみ当て嵌まるものだと考えていた。しかし安保理常任理事国のロシアがウクライナに軍事侵攻した2022年2月24日をもって、戦後の国際秩序の崩壊が現実となった。

 またアメリカの2024年大統領選挙はトランプ氏が圧勝したが、アメリカの国内秩序も深刻な崩壊過程にある。さらにマイノリティの権利を過大に要求するポリティカル・コレクトネス(PC)活動が教育現場は固よりアメリカ軍にまで浸透した結果、PCはシロアリのようにアメリカの国内秩序を内部から破壊した。

 第47代大統領に就任したトランプ氏は公約どおりに、就任初日にバイデン政権が推進した「多様性・公平性・包括性(DEI)」に関する政策を撤回する大統領令に署名した。これによって分断を深刻化させてきた左派過激派によるPC/DEI運動を封じ込める対策が講じられたことになるが、今後相当なリアクションが起きて分断が更に深刻化する可能性も否定できない。

 第二次世界大戦で破壊された秩序を回復させるべく、戦後さまざまな国連機関が設立された。しかし昨年末に先進国から3,000億ドルもの途上国支援を引き出すことで合意したCOP29(国連気候変動枠組条約第29回)が、途上国によるタカリの場と化したことは明らかだ。しかもCO2排出では世界第1位の中国と第3位のインドは途上国扱いであるという。このように堕落したCOP29などという枠組みは本来の目的から明らかに逸脱していると言わざるを得ない。

 トランプ新大統領は、大統領に就任すると直ちに世界保健機関(WHO)から脱退し、パリ協定から再離脱する大統領令に署名した。これを皮切りに、本来の役割から逸脱した「戦後スキーム」が今後再構築の方向に向かうことを期待したい。

 ウクライナ戦争を契機として国際情勢は大きく変化した。欧米は銀行間の決済を行うネットワーク(SWIFT)からロシアの銀行を締め出した。サウジアラビアは原油取引の決済をドルで行うことを定めた密約を破棄した。さらにウクライナ支援とロシア制裁によってエネルギーをロシアに依存してきた欧州の衰退が顕著になった。このようにウクライナ戦争はアメリカと欧州を弱体化させ、逆にBRICSが拡大してドル離れが進んでいる。世界は多極化に向かって加速を始めた。

 こうして戦後80年を経て、戦後体制の再構築はもはや日本固有の命題ではなく、世界の命題となったのだった。歴史を振り返れば、大航海時代以降国際社会は終始西洋流で運営されてきたのだが、最近の問題を解決できなくなってきている。その原因は幾つかあるが、中露イランに代表される専制主義国家と比較して、相対的に西側先進国の力が弱体化したことに加え、排他的で価値観を押し付ける西洋流の限界が目立ってきたことが背景にある。

 その状況下で、トランプ第2期政権が発足した。MAGAとナショナリズムを掲げるトランプ新大統領の行動は、有無を言わさずに世界の戦後体制の再構築を促進してゆくことになるだろう。これは日本が抱える「戦後レジーム」を一新する好機到来となることは間違いない。

日本と西洋、共通点と異質性(考察)

 図1には、日本で起きた「日本と西洋の邂逅」と、同時期に欧米で起きた主要な事件を並べてプロットしてみた。欧米で起きた事件は、①近代国家の誕生、②戦争、③経済と産業の発展の三つに分類して整理した。この図をもとに、日本と西洋の関係がどのように変遷してきたかについて考察を加えたい。

 はじめに、主要国が近代国家となった時期の比較については、既に『思考停止の80年との決別(2)』で書いているので、引用するに留めたい。

 <時系列に並べると、イギリス統合が1801年、アメリカ南北戦争終結が1865年、明治維新が1868年、ドイツ帝国の誕生が1871年、フランス共和国の誕生は1874年だった。そしてソヴィエト社会主義共和国連邦は1922年に誕生した。イギリスが一足早く、ロシアは一足遅かったが、アメリカ・日本・ドイツ・フランスは19世紀後半に近代国家となった。日本は江戸時代が長く、しかも鎖国をしていたので、欧米列強よりも遅れて近代国家の仲間入りをした感があるが、イギリスとロシアを除く他の諸国と殆ど同時期に近代国家となったのだった。>

 図1で注目すべき事実は、欧米諸国が戦争に明け暮れた歴史を持っていることだ。特に欧州は領土紛争、独立戦争、宗教(キリスト教、イスラム教)戦争、海上の覇権争い等、実に多様な戦争を繰り返して現在に至っている。

 欧州の近代史で注目すべきもう一つの事実は、二つのタイプの革命の勃発である。一つは王政に対する市民革命で1817年に起きたフランス革命が代表例であり、1848年にはフランスの2月革命を皮切りに、ウィーン、ベルリン、その他欧州各地で起きた。もう一つはブルジョアジーに対する労働者による革命で1917年に起きたロシア革命が代表例である。ブルジョアジーとは、貴族でも農民でもない有産市民階級で資本家を指す場合が多い。

 日本と西洋の決定的な違いに注目すると、16~18世紀が日本では「太平の時代」であったのに対して、西洋では戦争と革命に明け暮れた時代だったことだ。両者は「似た者同士」だが、言わば「生まれと生い立ち」において決定的な違いがあったという訳だ。

 ここで「生まれ」の違いは時間軸における「宗教の違い」である。日本が縄文時代由来の神道を基盤とする、「自然と共生する」宗教観のもとに文明を築いてきたのに対して、西洋は一神教のキリスト教を土台として文明を築いてきた。つまり東日本大震災級の地震や津波を含めて、自然をあるがままに受容して生きてきた日本民族と、基本的に排他的で強者が弱者から収奪することを躊躇しない西洋民族には根本的な違いが存在するのである。

 宗教は文明の根幹を成すものであり、宗教の違いはお互いに相手を真に理解することが容易ではないことを物語っている。

 次に「生い立ち」は空間軸で捉えた「地政学の違い」である。領土に国境が存在しない日本と、大陸国家西洋は、地理的条件において対極の違いがある。

 このように日本と西洋とは「西側先進国」という括りで捉えれば、価値観を共有する仲間ということになるが、宗教と地政学では正反対という程の違いがある。「ポスト戦後80年」を考える上で、この共通点と異質性はきちんと認識しておく必要がある。何故なら概念的・包括的には価値観を共有できても、本質的な部分では相手を理解できないからだ。

 西洋が世界を植民地化できた理由は、経済と産業の分野で世界に先行したからである。具体的にはお金を流通させて儲ける仕組みを世界に先駆けて作ったことと、蒸気機関という動力を世界に先駆けて実用化したことが象徴的な事件だった。

 経済と産業、さらには科学と技術の分野では、西洋と日本は同等の特性と能力を保有していると考えるが、西洋が先んじた理由は欧州には隣国とのし烈な競争があったのに対して、国境を持たない日本は文化的に成熟した「太平の時代」を享受していたことにある。

 幕末に西洋の海軍力を目の当たりにした日本は、岩倉使節団の2年間で欧米を見聞し、それから極めて短期間で西洋と肩を並べる水準にまで富国強兵を実現してみせた。それが明治という時代だった。

 田中英道教授は「日本と西洋との邂逅」について、資料1で次のように分析している。

 <大航海時代以降、植民地を拡大していく時代の西洋はほぼ常勝軍だった。ところが日本には勝てなかった。西洋には日本に対する畏怖があった。13世紀の元寇においてモンゴルでも攻めきれなかった日本という意識があった。>

 田中教授の分析を踏まえれば、日清戦争と日露戦争に勝利した日本に対する畏怖の認識は西洋諸国で一段と強くなったことが予想される。

激突の真相(考察)

 田中教授は<あの戦争は仕組まれた戦争だった>とズバリ指摘している。その根拠の一つとして挙げているのはOSS計画の存在であり、他一つは天皇制が存続したことである。資料2から引用する。

 <1942年の段階でOSS(Office of Strategic Services)計画というものがあった。戦後世界を如何に社会主義化するかという計画と戦略だった。OSS計画はルーズベルト大統領及び国務省のもとで立てられた戦後統治計画だった。>

 <ルーズベルトはソ連を支持する社会主義者だった。ルーズベルトもスターリンもユダヤ系であり、左翼ユダヤ人の手で社会主義世界を創ろうというのが20世紀の大きな流れだった。>

 <日米戦争は仕組まれた戦争だった。天皇制が継続したことがその証拠である。戦争を宣言した昭和天皇が終戦の詔を読まれたという事実は、国体が守られたということであり、日本は負けていないことになる。天皇制が残された理由は、日本で二段階革命を起こすことがOSS計画に書かれていたからである。京都や奈良、伊勢神宮他の神宮を破壊しなかったのは、天皇を利用して二段階革命を起こさせることを目論んでいたからである。>

 <共産主義を日本に持ち込んだのは米欧だった。革命の邪魔になる軍隊を持たずにおく憲法9条もまた、「二段階革命(前述)」の実現で直ぐに改定されることを目論んでいた。しかし実際には(戦後の日本で)革命運動は起きなかった。>

 二段階革命とは、マルクス・レーニン主義に基づく第1段階と、君主制を廃止するブルジョア民主主義による第2段階を言う。1950年代にイタリア共産党が打ち出したもので、フランス革命が先に起きてロシア革命が続くという仮説だった。

 さらに資料2は<大東亜戦争が仕組まれた戦争だっただけでなく、真珠湾攻撃は日米合意のもとに実行された作戦だった>と述べている。

 <真珠湾攻撃は、ルーズベルトが山本五十六か誰かをワシントンに呼んで実行させた。OSS計画には天皇には手を出さないということが明文化されていた。日本は真珠湾攻撃だけでなく、フィリピン攻撃、英領香港攻撃、マレー沖海戦等初期の戦争には全て勝利した。不思議なことだ。>

 一つ加えると、当時真珠湾には2隻の米軍空母が配備されていたのだが、真珠湾攻撃が決行されたときには2隻とも外洋に出ていて攻撃を免れている。攻撃を事前に把握していたアメリカ上層部が、意図的に空母2隻を外洋に避難させた可能性が高い。

 OSS計画に関する田中教授の分析が真実とすれば、戦争には敗れたものの国体が存続されたので日本人は「終戦」と受け止め、300万人に上る犠牲者を出しながらも、関東大震災のように粛々と「終戦」を受け入れたことになる。

 しかしアメリカの視点に立てば、幾ら待っても戦後の日本に革命は起きなかった。この食い違いが何故起きたのかと言えば、アメリカが「キリスト教の思考」をしたのに対して、日本は「神道の思考」をして、戦争の結果をあるがままに受け入れて歴史に封印したからだった。

 高知大学名誉教授の福地惇氏は資料4で次のように述べている。

 <皇室を含めて日本文明を殲滅しようという壮大な戦略戦術の下にあの戦争はあったと考えられる。確かにあの戦争は宗教戦争の色彩が濃厚だが、それを「文明の衝突」と呼びたい。ユダヤ・キリスト教の「自然を征服」しようとする一神教を土台にした欧米の文明と、八百万の神々と山川草木悉皆仏性の「人間と自然が宥和」する日本文明との衝突だ。>

明治維新からの160年(総括)

 日本と西洋は、国を作り社会を築き文化を育てて科学技術を発達させるという点で、同等の資質と能力を備えている。一言で言えば、それが先進国となった理由である。

 先進国の要件は幾つもあるだろうが、一つは経済・産業・技術開発の分野でイノベーションを怠らない民族性であることが要件となることは言うまでもない。同時に、文学・芸術・武道などの分野で世界が卓越性を認める民族性であることも、双璧で重要な要件となるだろう。日本はこれらの両分野において、西洋とは異質だが遜色ない質の高いものを生み出してきたことは世界が認める事実である。

 既に述べたように日本と西洋は「生まれと生い立ち」において決定的な違いを持っている。敢えて言えば、日本は世界で唯一1万6千年に及ぶ歴史と伝統を持っている国である。

 図2に「日本と西洋の邂逅500年」を、両者の関係の変化に注目して描いてみた。既に述べたように、凡そ500年前の日本と西洋の出会いは、一言で言えば「お互いが相手の能力の高さに驚く」という出会いだった。

 18世紀末~19世紀後半にかけて両者の交流は活発になり、双方が相手を警戒しながら交易を重ねる時代が続いた。そして明治維新は、西洋文明を目の当たりにして危機感を抱いた日本が国の様式を西洋化し、武家による封建社会を天皇中心の立憲君主制に改めた改革だった。さらに富国強兵を成し遂げて産業を起こすと同時に、海軍力を西洋の水準まで引き上げることに成功した。こうして日本は列強の仲間入りを果たしたのである。

 その頃世界は植民地獲得競争の最終段階に入っていた。ラストリゾートとなった中国大陸で、日本と西洋はとうとう激突した。但しこの激突はお互いがお互いを正しく理解できないままに起きたものだった。

 日本は17世紀以降戦争と革命に明け暮れてきた西洋の歴史と、その過程で育まれた西洋人の思考様式に対する研究を怠った。特に日露戦争において日本も関与したロシア革命が世界に及ぼしつつあった変化に対し警戒を怠ったのだった。

 一方の西洋は神道を基盤とする日本文明と日本人の思考様式を理解しなかった。キリスト教の彼等には理解できなかったという認識が正しいのかもしれない。

 日本は無謀にも大東亜戦争に突入し、300万人以上の犠牲者と国土の荒廃をもたらした。そして終戦後、アジア諸国を植民地から解放するという日本が果たした人類史に残る功績と、敗戦をもたらした失敗の総括をしないまま、「終戦」という言葉の中に封印してしまった。

 極めて乱暴であることは承知の上で、「日本と西洋の邂逅」500年の近代史を俯瞰すれば、このように整理できるだろう。

歴史の教訓

 歴史を概観すれば、日本は仏教伝来以来、渡来人がもたらした制度や文化・宗教を寛大に取り込んできたのだが、いつの時代にも丸ごと受け入れることはしなかった。長い時間をかけて日本文明(文化・伝統・宗教等)と融合させ、それを補強するものは取り入れ、それを乱すものは容赦なく排除した。仏教や漢字、律令制、儒教など、その例は枚挙に暇がない。

 幕末に到来した西洋文明に対しては、立憲君主制、民主主義、資本主義、三権分立等の制度を意欲的に取り込んで日本版のシステムを矢継ぎ早に具現化していった。こうして20世紀初めには急速に西洋化を推進して日本は西洋に匹敵する海軍力を持つに至った。

 但し日本が見逃した重要な世界の動向があった。それは、ユーラシア大陸の西域で起きた二つの革命が20世紀の世界に大きな影響を及ぼした事実だ。その一つはフランス革命(市民革命)であり、他一つはロシア革命(共産主義革命)である。これは日本では起きなかったものの、西洋各国で起きた重大事件だった。

 そして欧州で起きた二つの革命は、あたかもバタフライ効果のように、太平洋戦争の終結に大きな影響をもたらした。当時社会主義に傾倒していたルーズベルト大統領と、ロシア革命の立役者の一人でルーズベルトを巧みに操ったスターリンと、ルーズベルトを戦争に引き込んだチャーチルがヤルタ会談で終戦のシナリオと戦後の枠組みについて協議したのだった。

 もしルーズベルトが戦後世界の社会主義化に傾倒せず、偏見を抱かずに日本をあるがままに理解していたなら、太平洋戦争は回避された可能性が高い。またもし日本がロシア革命以降の社会主義化の動向と、ヤルタ会談の陰謀にインテリジェンスを働かせていたなら、アメリカの挑発に乗って真珠湾を攻撃するという過ちを回避できたと思われる。

 日本の教訓として言えば、明治維新で国家の様式を西洋式に改めたことは正しかったのだが、西洋と並ぶ軍事力を持つ列強の一員となった時に、一つの検証が必要だったのだ。それは西洋の様式と日本文明をどう融合させれば日本の未来となるのかについて、客観的かつ戦略的に考えを巡らすことだった。

 田中英道氏は、日本が持つユニーク性について次のように形容している。(参照:資料1)

 <西洋人は、日本には地獄も天国も神すらないことに驚く。日本の素晴らしいところは、自然が豊かであり自然に裏切られないことだ。自然災害には翻弄されるが、回復可能であり人生の中で計算済みとして諦めるという心境を日本人は大切にしている。>

 <日本の共同体原理は「和をもって貴しとなす」にあり、間違いなく世界の原理となるべきものだということを世界に明確に伝える必要がある。>

 <日本は島国であるという幸運によって、最初から自立国家であり、人々は同じ言葉を使い、同じ習慣で生きてきた。国家概念が言葉として用意されていなくとも。列島が一つの共同体、すなわち国であるという意識が根付いている。日本には天皇がおられ、伝統と国家のアイデンティティを日本人は持ち続けた。>

エピローグ(ポスト戦後80年)

 日本文明と「西洋」との融合は未完のまま現在に至っている。そう断言する理由は、明治維新から敗戦に至る約80年の間に日本が取り入れた「西洋」を、日本文明と融合させる作業が「終戦」という言葉で封印されてしまったからである。言い換えれば、敗戦を終戦と言い換えたことによって、日本の近代史について総括をしないまま思考停止状態に陥ったのだった。

 今年は戦後80年である。戦後世界の秩序を牽引してきた西側先進国が弱体化し、専制主義国が強くなりBRICSやGSが台頭した結果、世界は多極化に向かい国際秩序は不安定化した。これは西洋の価値観や思考様式が世界に受け入れられなくなってきた証でもある。

 戦後80年の現在、ウクライナ戦争が破壊してしまった国際秩序を大急ぎで再構築し、次の戦争を防止することが最優先の課題であるだろう。西洋とは異なる文明、特に宗教観を持つ日本が、欧米と協調しつつ独自色を出して行動し役割を果たすときが来た。そう思うのである。

 もう一度図2を見てもらいたい。歴史において日本が毅然と行動した二つの事例を挙げよう。一つは第一次世界大戦が終結した時のパリ講和会議での行動であり、他一つは当時列強の植民地となっていたアジア諸国を解放した大東亜戦争である。

 1919年に第一次世界大戦後で破壊された国際秩序の再構築を討議するパリ講和会議が開催された。この国際連盟委員会において元外相だった牧野伸顕氏は、「人種・宗教の怨恨が戦争の原因となっており、恒久平和の実現のためには人種差別撤廃が必要である」と述べて、「国際連盟規約」中に人種差別の撤廃を明記する提案を行った。

 出席者16名の内、賛成11、反対5で過半数を得たのだが、議長を勤めたアメリカ大統領ウィルソンが「このような重要な法案は全会一致であるべきだ」と宣言して否決されてしまった。

 二つ目の事例は大東亜戦争である。20世紀初頭まで欧米列強は植民地獲得競争に明け暮れていた。これに対して明治維新を成し遂げて列強の仲間入りを果たした日本は、アジア諸国を植民地から解放するという崇高な目標を掲げて大東亜戦争を戦った。自らは未曽有の損失を被ったものの、これを機にアジア諸国は独立を果たしたのだった。日本人はこの事実と功績に堂々と誇りを持つべきである。

 これらは何れも西洋の理不尽な行動に対して断固たる異議を唱えた勇気ある行動だった。言い換えれば「強者は弱者から略奪してもいい」という、当時のキリスト教国の思考様式に対して、「人類は自然という宿命のもとで共存共栄を志向する存在である」という神道の日本が提起した反論だったのだ。

 利害が対立する課題に対して国際社会の意見を取りまとめることは容易なことではない。端的な例を挙げれば、地球温暖化問題や核軍縮問題は少しも進展していない。従来の枠組みとアプローチでは打開することは容易ではないだろう。

 図2が物語るように、明治維新後の約160年には日本と西洋が列強として相互に警戒し衝突したときと、先進国として協調行動をとったときが交錯している。トランプ第二期政権がスタートした今、日本は現在人類が抱える「ポスト戦後80年」の課題を解決するために、ユニークな日本文明が蓄えてきた教訓と知恵を活用して新たな役割を担う時が来た。心からそう思うのである。

参考資料:

資料1:「虚構の戦後レジーム、保守を貫く覚悟と理論」、田中英道、啓文社書房、2022.12

資料2:「日米戦争最大の密約」、田中英道、育鵬社、2021.6

資料3:「憂国のリアリズム」、西尾幹二、ビジネス社、2013.7

資料4:「自ら歴史を貶める日本人」、西尾幹二と現代史研究会、徳間書店、2021.9

One comment on “日本と西洋の邂逅500年

  1. 木内さんの分析通り、ルーズベルトは社会主義者であり、人種差別主義者でもあったと思います。第1次大戦終了後、日本が黄色人種の国でありながら、戦勝国に名を連ねて白人の国と同列に扱わなければならないことに、我慢がならなかったのだと思います。国際連盟における人種差別撤廃の提案に反対して廃案に持ち込んだのも、黄色人種の日本を許さないという決意の表れだと思います。何とか日本を今の地位から引きずり降ろさないと、アジアにおけるアメリカの
    プレゼンスがなくなってしまうと考え、日本を戦争に引きずりこみ、徹底的にたたこうとした。資源のない日本を経済的に追い込み、日本から戦争を仕掛けるよう仕向けた。当時、アメリカは第1次大戦後で、国民はまた戦争して命を落とすことに嫌気をさしていた。だから日本から攻められたから戦争をするのだと、国民を扇動することが必要だった。
    日本軍の現場の軍人でない官僚がアメリカの戦略に敗れたのが大東亜戦争であったのだと感じています。

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