成功と失敗、戦略を巡る物語

プロローグ

 「歴史は科学ではなく、芸術である」とフランスの作家で1921年にノーベル文学賞を受賞したアナトール・フランス(1844-1924)が述べている。ジャーナリストの阿比留瑠比氏が産経紙面で紹介している。戦後50年の時に遺族約100人に対して阿比留氏自身が取材を行った経験として、「当事者であっても歴史に関する記憶は曖昧で、どこまでが真実なのか確かめるのは難しい」と述懐している。「歴史は科学ではなく、芸術である」というのは歴史に向かう心構えを示唆している。(参照:産経新聞8月13日)

 「日本は昭和の大戦を総括していない」と言われて久しい。膨大な情報が残されている戦争の総括を行うことが如何に困難な作業かは容易に想像できる。何故なら一つ一つの事件について、何が真実かを見極めるだけで途方もないエネルギーと時間を必要とするからだ。簡潔に言えば、歴史問題というのは専門家が扱うには大きすぎて、素人研究者が取り組むには情報過多なのだ。

 では日本の近代史のような大きなテーマを論じるにはどうすればいいのだろうか。現実的な答えが一つある。専門家が注目するような細部の真偽と正確性に拘らずに、全体像を大きく捉えることを優先して、その上で真相を考えることだ。微細構造よりも全体像と本質に注目することである。

 私は歴史の専門家でもなければ研究者でもない。しかし国際社会で展開されている事件と動向を踏まえて、「では日本はどうすべきか」について考察を試みたい。そのためには先の大戦の総括はもとより、日本の近代史を大きく俯瞰しなければならない。前作『独裁者退場後の世界』を踏まえて、歴史的転換期に立つ「日本の戦略」について俯瞰してみたい。

明治維新という成功物語における日本の失敗

 日本には戦略がないと言われる。今に始まった訳ではなく、縄文以降なかったのだろう。戦略は戦争から生まれると言う。日本は大陸の沖合にある列島だったために、征服/被征服を争う戦争が起きなかった。だから戦略は育たなかったのだ。

 一方欧州の歴史は戦争の歴史だったと言っても過言ではない。欧州はユーラシア大陸の西に位置し、民族の異なる国家がそれぞれの歴史を育んできたからだ。欧州において戦争は日常だったのであり、だから戦略が生まれインテリジェンスが発達したと解釈できる。

 アメリカは欧州を飛び出した冒険家集団が作った国であり、スピリットとして欧州人よりも戦争を好む民族だ。その証拠にアメリカ建国の歴史は他民族征服の歴史だった。いわゆる西部開拓の時代、人々は先住民族を征服しながら西へ西へと向かい、太平洋に到達すると次には太平洋諸国を征服した。そうして日本にやってきたのが明治維新前夜だった。

 欧米の脅威に直面した幕末から明治の日本人は、そこに征服意図を読み取り、必死で欧米に追い付くことを目指した。明治4年から6年にかけて欧米12ヵ国を政府要人からなる岩倉使節団が大挙してしかも長期間訪問していることがその証拠である。こうして日本は明治維新の約1世紀前にイギリスで始まった産業革命や、欧州の先進国が戦争の歴史の中で築き上げてきた社会システム(民主主義、資本主義、三権分立など)を貪欲に取り込んだ。

 アジアの征服された民族と異なり、幸いなことに日本は人口も大きく、識字率など文化レベルも高く、そして何よりも武士が統治する封建国家であった故に、欧米は征服を諦めたのだった。そして短期間で近代化を成し遂げて日清・日露戦争に勝利した日本は、第一次世界大戦で欧米と軍事力で肩を並べる存在となった。

 近代史をこのように俯瞰してみると、明治の日本は国難を見事に克服したという評価が成り立つ。明治維新が成功物語として語られる所以である。しかし後世の歴史を知る立場から敢えて言えば、この段階で日本は二つの失敗を犯していた。一つは欧米が持っている戦略を学ばなかったことであり、他一つは欧米と肩を並べた暁に日本は何を目指すのか、次の時代のビジョンを描かなかったことだ。欧米列強と肩を並べることは手段であって目的ではないのだ。

 その後の展開を知る立場からの期待論ではあるが、日本は先進国の仲間入りを果たした後に目指すべきビジョンを明らかにして、そのための是非と可否、即ち「何をすべきか」と「どうやって実現するのか」という戦略を組み立てなければならなかったのだ。戦略を学ばないまま軍事力で欧米と肩を並べる存在となったことが、後の日本に不幸をもたらした。

 一方のアメリカも欧州列強に遅れて日本と同時期に登場した国であり、太平洋に進出したアメリカと日本はやがて衝突する宿命にあったと言えよう。アメリカで南北戦争が終結したのは1865年であり、明治維新の僅か3年程前のことだったのだ。現実に日本はアメリカに対する戦略を準備できないまま、1941年12月8日に真珠湾でアメリカと衝突した。

日本文明と西欧文明、根本的な相違点

 明治期に日本は先進国への仲間入りを果たし、戦後には経済大国となってG7のメンバーになった。そして日本と欧米は「西側先進国」として括られるようになって久しいが、日本と欧米には根本的に異なる点が二つあることを再認識すべきだ。それは第一に日本が一神教の国ではなく神道の国だったことと、第二に万世一系の天皇制の国だったことだ。

 日本もまたさまざまな戦争を繰り返しながら発展してきた国である。しかしながら日本で起きた戦争は大半が領土争いもしくは権力闘争であって、征服/被征服の戦争は起きなかった。その背景には特筆すべき日本固有の理由があった。それは島国という地政学的要件と単一民族という特殊性に加えて、権威と権力を分離してきた知恵にある。日本の歴史ではいつの時代でも権威は常に万世一系の天皇にあり、如何なる武将が権力を手にしても、天皇の権威を敬ってきたのだった。

 そもそも縄文以降、神道を信仰としてきた日本人にとって最大の命題は、忘れた頃に脅威に豹変する自然との共存共生だった。地理的な環境として日本列島は山海の食料に恵まれた、戦争が生まれない風土だった。欧米人は基本的に狩猟民族であり、「奪い合う排他的な」文明を育んできたのに対して、日本民族は基本的に農耕民族であり「共存共生する」文明を育んできた。両者の違いは信仰の違いでもある。基本的に一神教は排他的であるのに対して、多神教の神道は共存共生を基盤としている。

 現代に至るまで欧米と日本は「西側先進国」として括られてきたのだが、戦後80年以降の時代においては、欧米とは異なる日本の固有性こそが重要になることは間違いない。

太平洋戦争における戦略とインテリジェンス

 異質な文明を持つ日本と欧米が幕末に遭遇した。蒸気船に象徴される近代化された西欧文明を目の当たりにした日本は短期間で明治維新を成し遂げて、幕府という権力による封建国家を天皇の権威による中央集権国家に転換した。そして欧米諸国が築き上げた近代的な社会システムを驚異的なスピードで吸収して富国強兵を成し遂げることに成功した。

 但し、この時の日本人は未だ西欧文明の本質を知らなかったと思われる。知らないまま第一次世界大戦期に肩を並べる存在となった。明治維新(1868年)から第一世界大戦勃発(1914)まで僅か46年のことだった。

 欧米の視点から眺めれば、この半世紀の間に日本は植民地の対象から戦争・戦略の対象へと変化したのだが、当時の日本は欧米を、戦略をもって警戒すべき競争相手として認識していなかったのではないだろうか。この非対称性を抱えたまま日本と欧米は太平洋戦争(1941~45)へ突入していったのである。

 第一次世界大戦期に、もし日本がやがて欧米との戦争が不可避となることを認識して戦略とインテリジェンスを磨いていたならば、昭和の歴史は違う展開を見せたかもしれない。日本が認識すべきだった要点は、日米戦争は日清・日露の延長線上の戦争ではないということだった。アメリカはいずれ英国から覇権を引き継ぐ立場にあり、日本よりも遥かに大きな資源を持つ世界最強の帝国主義国家だった。国力の差は如何ともし難く、外交や戦略で優位に立たない限り、戦えば敗れることが必定の相手だったのである。

 ここで開戦直前のインテリジェンスに関する一つの事実を紹介したい。開戦前夜ワシントンの日本大使館に陸軍武官として勤務していた新庄健吉大佐という人物がいた。当時新庄大佐は「アメリカの軍需や生産能力を調査していて、陸軍省、参謀本部、大本営に情報を伝え、野村吉三郎大使、来栖三郎大使に対米交渉に資する情報を提供する」役割を担っていた。

 新庄大佐は在米の大手商社に協力を求めてアメリカ経済の実態を調査し、『新庄レポート』と呼ばれる資料をまとめた。そこには日米両国の工業力の比率に関する分析が記述されていたという。例えば、重工業は1対20(日本1に対してアメリカ20)、化学工業は1対3、鉄鋼は1対24、石炭は1対12、石油に至っては1対無限大という具合だ。(資料1参照)

 『新庄レポート』は対米戦争の是非に関する第1級のインテリジェンスである。しかしレポートの原本は残っていないようだ。また新庄健吉は日米開戦の前日(1941年12月7日)にワシントンで急逝している。レポートを託された岩畔豪雄(いわくろひでお)は陸軍中野学校の創設者として知られる陸軍の大物で、野村駐米大使の特別補佐官として日米衝突を回避する密命を受けていた人物だった。岩畔豪雄は『新庄レポート』をもって急遽帰国し、政府や軍の要人に対し報告したと推察される。(出典:同上)

 果たして『新庄レポート』に記された対米インテリジェンス情報は、開戦是非の意思決定に生かされたのだろうか。もし冷静さと合理的思考を身に着けた政治リーダーがこのレポートを眼にしていたならば、開戦の意思決定に影響を与えた筈だ。だが結果から判断すれば、日米戦争に関わる確たる戦略もないまま、貴重なインテリジェンスも活用されないまま日本はアメリカとの戦争に踏み切り、310万人もの犠牲者を出してしまったのだった。

ビジョンと戦略

 太平洋戦争に勝利したアメリカは、日本が潜在的にもつ強さを認識し、「日本が将来に戦略をもって再び台頭する」ことを過剰に恐れて、強さの根源を破壊する対策を講じた。現行憲法はその要石だったのだ。

 国際ジャーナリストの古森義久氏は8月14日の産経新聞紙面で、現行憲法に盛り込まれたアメリカの意図について紹介記事を書いている。それによると、当時現行憲法を起草した実務責任者を務めたチャールズ・ケーディス大佐を、1981年にニューヨーク市の法律事務所に訪ねて、日本国憲法作成の意図と経緯について4時間に及ぶ面談を行ったという。面談の中でケーディスは、「(有無を言わさず憲法を改正した)最大の目的は日本を永久に非武装にしておくことだった」と述べている。それが憲法9条の「戦争の放棄」や「戦力の不保持」に盛り込まれた意図だったのだ。当時マッカーサーは「日本の自国の安全保障のための戦争も放棄させる」よう指示したらしいが、ケーディスは現実的ではないと判断して盛り込まなかったと述懐したという。(参照:産経新聞、8月14日)当時アメリカはそこまで日本の強さを恐れていたということだ。

 現実には1950年に朝鮮戦争が起きて、「日本の永久の非武装」という米国の意図はあっさりと否定されたのだが、憲法は修正されずに現在に至っている。さらにマッカーサーは帰国した後1952年に当時の共和党から大統領選に出馬して、議会の聴聞会で驚くべき証言をしている。「日本の労働力は潜在的に最良だ。しかし日本は原料を持っていなかった。原料の大半をアジアの海域から調達していたが、原料供給を遮断されたら1000万~1200万人の失業者が発生する。それを彼らは恐れていた。日本を戦争に駆り立てた動機は、大部分が安全保障上の必要に迫られてのことだった。」と。

 この証言は東京裁判が誤りであったことをあっさりと認めるものであり、「侵略国家日本を打ち負かした正義の戦争」というアメリカ側の大義名分を根底から覆すものだった。(参照:号外月刊三橋事務局、8月13日)

 現行憲法の成立経緯から、戦後81年を過ぎた日本が今何を為すべきかが浮かび上がってくる。それは第一に、GHQが日本の再台頭を封じ込めるために講じた不当な措置を撤廃し、アメリカから自立することだ。そして第二に、新たに将来ビジョンを描き、そのための戦略を構築することだ。これは戦後の歴代政権が81年間棚上げしてきた、いわば「戦争の清算」に関わる宿題であり、様々な意味で現代の日本を束縛していることは言うまでもない。ちなみに戦略とはビジョンを実現するための手段と手順を体系的に組み立てることである。

 ここで一つ大事なことがある。憲法改正は対米自立の1丁目1番地だが、飽くまでも手段に過ぎないということだ。憲法改正のアプローチは大別して二つ存在する。一つは戦後81年が過ぎて、時代にそぐわなくなった部分を削除または修正し、欠落する事項を付加する「修正アプローチ」である。そして他一つはGHQが占領期に作った憲法を一旦破棄した上でゼロベースで作り直す「設計アプローチ」だ。

 憲法改正は極めて実現のハードルが高いという理由で修正アプローチに傾きがちだが、それでは本末転倒である。正しい手順は、まずビジョンを明らかにし、それを実現するための戦略を描いて、それを踏まえて憲法を改正することだ。ビジョンと戦略がなければ憲法の各論は起草できても総論と理念を書くことができないだろう。

西欧流スキームの限界

 プーチン大統領は2022年2月24日にウクライナへ軍事侵攻を命じた。トランプ大統領は2026年2月28日にイランに対し軍事攻撃を命じた。この二つの事件は、安保理常任理事国が国際秩序を崩壊させた蛮行だった。二人とも短期間で制圧できると過信したことは明白だが、現実にはウクライナ戦争は4年半に及ぶ長期戦争となり、アメリカとイランは5カ月が過ぎても停戦合意に至っていない。

 人類の近代史において、この二つの戦争を的確に評価できるまでには相応の時間を要するだろうが、現時点で既に明らかになったことが幾つかある。第一に、第二次世界大戦後に戦争の教訓を踏まえて構築された国際秩序の枠組みが瓦解した。第二に、大戦を契機に大英帝国から世界の覇権を引き継いだアメリカには、もはや国際紛争を終結させる力がないことが明らかとなった。いわゆるアメリカ覇権の終焉だ。そして第三に、欧州の衰退が顕著だ。この事態は、大戦後国際秩序を牽引してきた「西欧流のスキーム」が行き詰まったことを物語っている。

 二つの戦争は二人の大統領が犯した重大な誤りとして歴史に記憶されるだろうが、何故そういう展開になったのだろうか。米露両国には優秀なスタッフも有能なインテリジェンス組織も存在した筈だが、結果から判断すれば両国とも戦略がなかったか、或いは採用されなかった可能性が高い。恐らく二人の大統領が戦略よりも己れの直感を優先したというのが真相なのだろう。「猫に小判、独裁者に戦略」とでも言うべきか。優秀なスタッフが幾ら立派な戦略を作ったとしても独裁者が無視すれば、戦略がなかったのと同じだ。そして独裁者は暴走し世界にとんでもない事態をもたらしたのだった。

 西欧流のスキームが行き詰まったことを示す、分かり易い事例を三つ挙げよう。一つはEV推進だ。地球温暖化対策として各国で推進されたEVへの転換は、世界の自動車業界を激変させた。しかし自動車を全廃して鉄道に換えるのなら分かるが、エンジン車をEVに替えるだけでは地球温暖化を抑制することにはならない。何故なら自動車の排気ガスからCOを減らす代わりに、リチウムイオン電池を大量に生産し消費することになり、地球規模で考えれば解になっていないからだ。自動車を利用する国で排出されるCOは削減できても、リチウムを採掘し精錬する資源国ではCO排出が大幅に増加し環境汚染が悪化する。これでは「自分さえ良ければいい」という排他的戦略に他ならない。

 二つ目の事例は太陽光発電だ。確かに火力発電を太陽光発電に置換すれば、発電所が出すCOを削減できるが、太陽光パネルの素材となる金属を採掘し精錬する国ではCOは増大するばかりだ。先進国の空気は綺麗になるとしても、資源を掘り出す国の環境汚染は悪化することになる。つまりこれも排他的戦略の一例だ。

 さらに重要な点を指摘しておきたい。リチウムイオン電池も太陽光パネルも流通量が増えれば膨大な産業廃棄物が生まれる。産業廃棄物は地球環境を汚染する。リサイクルすることが望ましいが、その過程で大量のCOが放出される。結局根本的な解決にはならないのである。

 三つ目の事例は核兵器廃絶だ。広島や長崎を訪問した外国人は核兵器廃絶を推進しなければならないという思いを強くすることだろう。それは好ましい反応なのだが、現実は「相手に核兵器を使わせないためには核兵器を保有する他ない」という「核保有による核抑止」論に国際政治は立脚している。核兵器を最初に保有する国も対抗手段として保有する国も、「排他的戦略」を採用しているのだ。

 日本は唯一の被爆国だが、韓国を除く隣国は何れも核兵器保有国である。これらの国が日本に対し核兵器を使用しないという確証が得られないために、日本は「非核三原則」を掲げて「核拡散防止」を叫ぶ一方で、自らは核保有しない代わりにアメリカの核の傘に依存してきた。しかし「非核三原則」は日本の戦略と呼ぶには程遠く、論理矛盾でさえある。憲法改正と同時に理路整然としたものに改めるべきだ。 

OSを換えるとき

 戦後の歴史を比喩で表現するならば、現代社会は大戦後に欧米戦勝国が整備したOSの上に作られたさまざまなアプリの上で動いている。しかし前述したように、ウクライナ戦争とイラン戦争が勃発して、誰の目にもOSの機能不全が明らかとなってきた。欧米の「排他的戦略」では国際問題を巧く解決できなくなった現実を誰もが認識した。世界大戦終結後75年が過ぎて、世界は「力による排他的戦略」に代わる「次世代のOS」を必要とする展開となったのである。

 では「次世代の」OS」とは何だろうか。それは「力による排他的」ではない戦略、普遍的な価値観としての「共存共生戦略」とでも呼ぶべきものではないだろうか。この場合「共存共生」とは、国際紛争を巡る国家間の関係に留まらず、地球環境と人類社会の関係をも包含する概念として定義する。

 欧米が揃って衰退している現在、一体誰が「次世代のOS」を提供する役割を担うのだろうか。実は日本の近代史の中に「共存共生戦略」に関わる事例が一つある。日本は先の大戦を「大東亜戦争」と呼び、欧米の植民地となってきたアジア諸国から欧米勢力を追放して独立を促進した。日本は戦争に敗れたもののアジア諸国は独立を果たした。これは欧米から孤立した日本が西欧流ではない独自の価値観に基づいて起こした果敢な行動だったといえる。

 歴史として評価すれば日本の行動は正しかったのだが、日本は戦争で大敗した。その原因は欧米を敵に回して孤立したことにある。ビジョンは正しかったのだが、それを実現させる戦略がないまま戦争に突入したことが誤りだった。

 近代史を回顧すれば、明治維新以降日本は国家の仕組みを西欧流に改めて、西側先進国として、さらにはG7の一員として、欧米が提唱するスキームの担ぎ手となってきた。ここで言う欧米が提唱したスキームとは、国際紛争に関わる問題を除外すれば、ガソリン車からEVへの転換、脱炭素、リベラリズム、グローバリズムなど多岐にわたる。既に論じたように、これらは西欧流の「排他的戦略」に基づいて作られたスキームである。「自分さえ良ければいい」という思惑が見え隠れすることが、スキームが失敗した大きな理由であるだろう。

 今年も終戦の日がやってきた。81年目になる。日本中が戦争と敗戦に想いをはせて喪に服するのだが、国際社会を見渡せば、ウクライナ戦争もイラン戦争も終戦の推進者不在のまま長期化している。この現実は、日本が戦後政治を転換する時機を迎えたのと同時に、世界が戦後の「排他的戦略」に代わる新しいOSへの転換を必要としていることを物語るものだ。

 明治維新以降は欧米を目標とし、戦後は対米従属でやってきた戦後の軛を解いて、日本は日本文明という独自の価値観に一旦回帰して、自立した政治へ舵を切る歴史的大転換点に立っている。これは単に日本が真の国家主権とアイデンティティを取り戻すという次元を超えて、国際問題、更には人類共通の課題を克服するために、世界が日本に期待していることでもある。縄文時代以降、神道を心の拠り所として共存共生の文明を育んできた日本の役割がここにあると信じて止まない。

 但し、幾ら崇高なビジョンであっても、したたかな戦略に裏打ちされなければ、それに意を唱える勢力から攻撃を受けて潰されてしまうリスクが常に存在する。日本の近代史並びに現代の教訓を生かさなければならない。

参照資料:

1.「新庄健吉追悼記」、西鋭夫監修、ダイレクト出版

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