「思考停止の80年」との決別 第3部

(5)「戦争の半世紀」だった日本近代史前半

日本の近代史概観

 図1に明治維新を起点とする日本の近代史における、日本が関わった戦争の歴史をプロットした。明治維新から現在に至るまで156年が経過したが、その前半は戦争に明け暮れてきたことを図1が明示している。

 第2部で書いたように大航海時代は日本の近代史に少なからぬ影響を与えた。第1波としてやってきたのはポルトガルとスペインの宣教師で、とりわけ1544年に種子島に火縄銃が伝来した事件は織田信長の天下統一に大きな影響を与えた。そして第2波のオランダ、イギリス、フランスに加えてアメリカとロシアが幕末に相次いでやってきて、日本に開国を迫った。1840年に起きたアヘン戦争が討幕運動に火をつけて、日本は一気呵成に明治維新を成し遂げた。

 日本は江戸時代が長くしかも鎖国をしていたので、欧米列強よりも遅れて近代国家の仲間入りをした感があるが、一足早かったイギリスと、逆に一足遅かったロシアを除くと、他の主要欧米諸国と日本は、殆ど同時期に近代国家となっている。(『思考停止の80年』との決別、第2部参照)

 但し、両者には決定的な違いが二つあった。第一は日本が江戸時代という平穏な時代だったのとは対照的に、欧米列強は数世紀にわたって戦争と革命を繰り返してきたことである。欧米諸国と日本のこの違いは、日本の近代史を方向付ける重要な要因として作用してきたように思われる。

 第二は世界に先駆けてイギリスで産業革命が起きて、重工業が発達しそれが軍事力にも反映されて軍事革命が起きたことである。幕末に欧米列強と接した日本が急速に富国強兵政策を進めた理由がここにある。

 図1から明らかなように、西南戦争を終えて国内を平定した日本は、日清戦争を皮切りに対外戦争に向かった。日清戦争から太平洋戦争の敗戦に至る約50年間は、文字どおり「戦争の半世紀」だった。さらに支那事変を契機として太平洋戦争が起きたことを考慮すると、半世紀に及ぶ日本の戦争史の中核を成したテーマが中国との関係にあったことが分かる。

日本はなぜ日清戦争を始めたのか

 以下、近代史における日中関係については、台湾出身で日本在住の作家、評論家である黄文雄氏が書いた資料①を主に参照した。

 言うまでもなく、日本が明治維新を断行し近代国民国家の建設に邁進したのは、西欧列強による「アジア植民地化の波」から自国を防衛するためだった。そして明治維新を成し遂げて欧米列強による侵略を阻止することに成功した日本は、日本の防衛を更に強化するために、隣国である清国と朝鮮を加えたアジア共同防衛を構想した。日本が目指したのは、西洋列強による侵略も支配も蒙ることのない、アジア独自の平和な世界秩序の建設だった。

 日本はまず朝鮮に明治維新と同様の近代改革を要求したが、宗主国だった清国の体制は旧態依然であり、むしろ維新後の日本を敵視する有様だった。このため日本は1894年に朝鮮独立を要求して清国に宣戦布告した。清は前近代的な老大国だったため、あっけなく惨敗した。

 日清戦争で勝利した日本は戦勝国として三つの戦果を獲得した。国家予算の約4倍の賠償金、遼東半島・台湾・澎湖諸島の割譲、そして朝鮮の独立である。この勝ちによって、日本は勝てば賠償金や領土を取れることを学び取った。

 ノンフィクション作家の保阪正康氏は、日清戦争の総括について、資料②の中で次のように述べている。

 <結局、日清戦争とは、帝国主義の現実を日本がはじめて体験した戦争だった。当時はまだ帝国主義的な時代だったが、戦争における原価計算意識がかなりシビアになっていた。西洋列強は歴史や国力から中国を眠れる獅子とみなし、大がかりな戦争を仕掛けて支配しても原価計算が合わないと判断した結果、中国には深入りしなかった。>

 <こう考えると、日清戦争で日本が勝ったと単純には言えなくなる、むしろ日本は西洋列強に利用されていた。日清戦争は「中国の罠に嵌まった」ということができる。「日本対旧中国(清朝)」の構図では勝ったが、「日本対新中国(革命政権)」の構図で見れば、孫文が日本を多面的に利用して戦争に勝ったことになる。> 

日露戦争とは何だったのか

 以下日露戦争に関しては主に保阪氏による資料②を参照した。

 日露戦争が起きた背景には日清戦争がもたらした地政学的な変化があった。即ち、満州及び朝鮮半島における清の影響力が弱体化し、逆に日本の影響力が増大し、朝鮮では清による冊封体制が消滅した。ロシアは満州及び朝鮮半島における日本の影響力の増大を阻止するために南下政策を進めようとし、日本は逆にロシアの南下を阻止しようとした。

 それにしても当時のロシア帝国は強大であり、欧州でもロシアと戦争しようとする国は存在しなかった。日本は日ソ間の力学を変えるために、当時の覇権国だったイギリスと日英同盟を結んで戦争に臨んだ。従来日英同盟が日本の勝利をもたらした要因だと言われてきたが、イギリス側から見ると、日英同盟はボーア戦争に忙殺され余力のなかったイギリスが、東アジアにおけるロシア帝国の南下阻止は日本に任せようと判断した結果だったことが分かる。

 日露戦争(1904~05)は、第一次世界大戦(1914~18)とロシア革命(1917)の前夜のタイミングで起きた事件だった。世界史における因果関係として眺めると、日露戦争が欧州の戦争に与えた影響が見えてくる。

 それはこういうことだ。日露戦争で日本が勝利したことにより、イギリスはロシアに接近し既存の露仏同盟と合わせて英仏露によるドイツ包囲網を作り上げた。一方ドイツやオーストリアは弱体化したロシアを横目で睨みつつ、バルカン半島への圧力を強めていった。それが英仏露と独墺(オーストリア)とが雌雄を決した第一次世界大戦へとつながった。

 日露戦争はさらにロシア革命を引き起こした。こう考えると日露戦争は20世紀の世界情勢を動かした大事件だったことになる。日本の勝利は、それほど世界に大きなインパクトを与えたのである。

 一方で、日本は日露戦争を優位に進めたものの、国力を殆ど使い果たして青色吐息だった。ロシアも君主制が崩壊しようとしていた。そうした状況で1905年にアメリカによる和睦仲介という形で日露戦争は終結した。ポーツマス条約が結ばれ、ロシアが満州や朝鮮から撤兵し、遼東半島の租借権とロシアが満州に敷設した東清鉄道を日本に譲渡し、樺太の南部を日本に割譲することとなった。但し賠償金はとれなかった。日本は、日露戦争を痛み分けの形で終わらせようとしたアメリカに救われた一方で、アメリカはアジア進出の足掛かりを得た。

 日露戦争の勝利に国民が沸いたことは事実だが、この勝利がその後の日本の足を引っ張る原因となった。日清・日露戦争は、戦争の終結が次の戦争の原因となる典型的な事例でもあった。つまり日清戦争で多大な賠償金と領土を得ることができたことから、日本は日露戦争に前のめりになり、逆に日露戦争では賠償金がとれなかったために次の満州事変を招いた。

 第一次世界大戦で敗戦し巨額の賠償金を抱えたドイツで、ヒトラーが登場し第二次世界大戦を起こしたのと似た構図が見て取れる。暴走を始める「軍事のサイクル」の姿をここに見ることができる。

日本はなぜ満州国を建国したのか

 1931年に柳条湖事件が起きた。これは大日本帝国の関東軍が南満洲鉄道の線路を爆破した事件で、関東軍はこれを中国軍による犯行と発表して満州事変が勃発した。満州の軍閥だった張学良軍は関東軍によって総崩れとなり満州から駆逐された。1933年に満州事変は終結し、満州国が建国された。

 ところで、なぜ日本は満州国という傀儡国家を作ったのだろうか?二つの理由が存在したと思われる。第一は日本の国内事情によるもので、現代風に言えば食料安全保障である。資料②によれば、日本の耕地面積は国土の約13%で、米の収穫量は3千万人を養える規模だった。江戸時代の人口は3千万人前後だったが、明治以降人口が急増し昭和に入ると7千万人前後に増加した。その食料対策として満州の広大な土地を利用しようという計画が作られて、1932年から「満蒙開拓団」が送り出された。その数は敗戦までに約27万人に達したという。そのために軍事的な収奪と支配が必要となり、その支配を恒常化させるために傀儡国家が必要だった。

 第二の理由は、東アジアの秩序という崇高な目的のために、日本が軍事介入したという大義名分である。ここで日本が期待したことは、中国が日本と提携できる近代国家となれば、東亜諸民族による共同体が形成され、欧米諸国に蚕食され続けてきた東アジアの秩序を盤石にできるというものだった。

 これについて資料①は、「満州の民衆は快哉を叫び、日本に感謝したという。満州建国のスローガン『王道楽土・五族協和』は、日本が一方的に陰謀論的に企んだものだとは言えない。満州は法治も人治もない、軍閥や匪賊が跋扈する無法地帯だったのであり、建国は民衆の意を体した現地の政治勢力の方から主張されたものだった。」と分析する。

 1933年に日中間で停戦協定が結ばれ、満州事変は終結した。この結果、蒋介石は中断していた共産党に対する包囲殲滅作戦に全力を傾けることになった。

(6)革命と内戦・内乱に明け暮れた中国の近代史

中国の近代史概観

 図2に日米欧と中国との間で起きた戦争や事件を中心にプロットして、中国の近代史の概観を示した。清朝が滅んで中華民国が建国されたが、実力者の間で内戦が繰り返され、北京、重慶、南京に相次いで政府が設立された。

 中国の歴史を考える上で重要なキーワードが二つある。第一は「易姓革命」であり、第二は「内戦と内乱」である。資料①は以下のように説明している。

 <『三国史演義』の冒頭に、「天下久しく分すれば必ず合し、久しく合すれば必ず分す」とある。中国の歴代王朝は、何れも『易姓革命』という暴力革命によって誕生している。易姓革命とは中華世界の歴史法則のようなものだ。>

 <18~20世紀に中国人民を本当に苦しませ続けたのは、繰り返される内戦、内乱であり、中国人同士の殺し合いだった。それに人口過剰による自然環境と社会環境の崩壊が重なり秩序が崩壊していた。>

 <中国の長期内戦が始まったのはアヘン戦争よりももっと早い18世紀末のことだった。しかも原因は外的なものではなく、内因によるものだった。18世紀末に白蓮教徒の乱が起こり、続いて教匪の乱、会匪の乱へと内乱が延々と続き、やがて千万人単位の死者を出す太平天国の乱や回乱が発生した。>

辛亥革命の背景

 中国の近代化は、1911年の辛亥革命を起点として始まった。辛亥革命を起こした主役は、当時日本に来ていた清国からの留学生だった。日露戦争に勝利した日本のナショナリズムに刺激された清国留学生が日本に殺到し、革命団体の三派が東京で中国同盟会を結成した。孫文はその指導者となり、中国版の明治維新と新中国を目指していた。

 1912年の中華民国臨時政府の発足直後、革命の指導者だった孫文と北京政府の実権を握る袁世凱が提携し、孫文は統一政府を作るために権力の座を袁世凱に譲った。袁世凱は革命派に対する日本の影響力を削ぐため、「日本は満州を占領しようとしている」という反日宣伝を展開した。背後で英米が袁世凱を支援しており、反日という形で中国のナショナリズムが高揚していくよう工作を行っていた。

 1915年に日本は中国に対し「二十一ヵ条要求」を提示した。内容は西洋列強並みの政治経済活動の容認を求めたもので、列強が第一次世界大戦に忙殺されている間に日本の既得権益を整理して中国に容認させようと考えた行動だった。これに袁世凱が反発して策略を巡らし、「中華民国+英米」対日本という対立の構図を形成していった。これに対して袁世凱を宿敵と捉えていた孫文は、日本政府の態度は東洋の平和を確保し、日中の親善を図る上で妥当なものだとの理解を示していた。

三つ巴の内戦

 台湾には「国慶節」という中華民国の建国記念日がある。辛亥革命の発端となった1911年10月10日の「武昌起義」に由来する。その2か月後には中国各地で革命運動が続発して清朝が崩壊し、孫文は南京に中華民国臨時政府を樹立した。

 辛亥革命を契機に相次いで政府が樹立されていったが、黄文雄氏は「何れも全中国を代表する正統政府だと主張していたものの、国を代表する政府として対外的に責任を負えるものではなかった。当時の中国は、国家としての体を成していなかった。」と評している。

 資料①によれば、中華民国の内戦には三つの時期があった。第1期は袁世凱が率いる北洋軍閥と地方軍閥間の北京政府を巡る内戦、第2期は孫文が1919年に創設した国民党の内戦、第3期が国民党と共産党の間の「国共内戦」である。孫文が1925年に死去し、後継者となった蒋介石は日本よりも共産党の方が脅威であると認識していて、抗日政策よりも掃共作戦(共産党包囲討伐作戦)を優先した。1930年末から第1次掃共戦を実施し、その後満州事変中の中断を経て、1933年の第5次掃共戦で共産党を風前の灯火にまで追い詰めた。

 ここで、共産党万事休すの事態が茶番劇によって逆転する西安事件が起きた。資料①は次のように描写している。

 <満州を追われた張学良が蒋介石を西安で監禁し、抗日への政策転換を迫るという「西安事件」が起きた。そこへ共産党を代表して駆けつけた周恩来が挙国抗日を条件に蒋介石を釈放するように調停した。この事件によって、日中提携の流れも共産党滅亡の流れも、全て断ち切られてしまった。そうして支那事変が勃発した。支那事変の発端となった盧溝橋事件も共産党の陰謀だったという論証は、現在ではむしろ常識となりつつある。>

 <日本との戦争を最も望んでいたのは中国共産党だった。実際に日本を挑発して国民党と争わせることに成功し、その結果、共産党は生き残り、戦後、疲弊した国民党を打ち破って国共内戦に勝利することができたというのが史実である。>

(7)大東亜戦争の真相

かみ合わなかった日本と中国

 前項『中国の近代史概観』で述べたように、そもそも日本が朝鮮半島、中国大陸に進出していった動機は、朝鮮や清国にも明治維新に相当する近代化を成し遂げてもらい、西洋列強による侵略・支配を受けないアジア独自の平和な世界秩序を建設することだった。しかしながら崇高な理想を掲げたものの、両国と危機感と理想を共有することはできなかった。その原因として以下の三つが考えられる。

 第一は、朝鮮や清国に対し日本と同じことを期待しても無理だったことだ。そもそも日本で明治維新が成功した理由は、250年に及ぶ江戸幕府による封建制の歴史があり、危機に直面して決起する武士が残っていたからだった。一方両国にはそのような歴史的遺産がなかった。

 第二は、欧米列強からの独立という高い理想=大アジア主義を掲げて戦争を始めたものの、戦争を続ける間に日本自身が欧米列強と同じように帝国主義として振舞うようになってしまったことだ。

 そして第三は、両国において反日ナショナリズムが形成されていったことだ。歴史的な理由から日本から指示されたくないという思いがあり、欧米列強と同じように振舞う日本に対する反感もあったと思われる。

 両国に対し当時の日本が期待した思いは純粋で直線的だったが、「日本がそのように行動すれば、中国人はどう考えどう行動するだろうか」と、中国人の民族性とリアルポリティクスに対する配慮が欠落していたように思われる。結局日本のお節介と片思いで終わった。

三つ巴の内戦に巻き込まれた日本

 さらに黄文雄氏は資料①で、日中戦争の本質について次のように分析している。

 <1940年に汪兆銘が誕生させた南京政府は日本と和平を結んだ親日政権だった。日本軍による武漢攻略によって日中全面対決が終結していたこの時点で、戦争は日本が支援する南京政府(汪兆銘)、アメリカが支援する重慶政府(蒋介石)、そしてソ連が指導し支援する延安政府(毛沢東)の三つ巴内戦の局面を迎えた。この三つ巴戦こそ日中戦争と言われるものの本質と言って過言ではない。>

 1937年に日本軍のキャンプに一発の銃弾が撃ち込まれた。盧溝橋事件の勃発である。この事件をキッカケに日中の全面戦争に拡大し、やがて太平洋戦争へと繋がっていった。

 ここで注目すべきことが二つある。第一に戦争の構図としてみると、中国大陸という舞台上で蒋介石と汪兆銘と毛沢東が戦い、舞台の外側には日本と英米、ソ連が陣取るという三つ巴戦の二重構造が存在していた。そして第二に、中国大陸に大規模な軍隊を送り込んで戦争を行っていたのは日本だけで、英米ソも中国大陸に深入りしていなかった。

内戦に翻弄された日本

 図2に示したように、清朝が滅亡した1911年から太平洋戦争終結後の1949年に中華人民共和国が建国するまで、中国は内戦に明け暮れた。三つ巴戦を率いた三人の指導者について資料①は次のように評している。

 <汪兆銘は日本との戦争を回避するため、日本と和平を結んだ政治指導者である。一方の毛沢東と蒋介石は、日本との戦争を惹き起こし、おびただしい数の同胞を犠牲にし、国土を荒廃させたものの、運よく日本が米軍に敗れたため、抗日戦争で中国に勝利をもたらしたとして英雄になった。>

 <汪兆銘はもともと蒋介石と違い、強硬な対日主戦派だった。だが戦争が続くにつれ、中国軍に対日戦争遂行の実力がなく、また国内経済が疲弊し、共産党の跋扈も収まらないなど、中国を守るには日本との和平を結ぶしかないことに気づいたのだった。汪兆銘によれば、中国には共産党を例外として、和平を希望しないものはいないが、多くは日中両国の共存は不可能と考えるので和平に反対するのだという。汪兆銘はこうも語った。「日本に通じたのが漢奸なら、国民党はアメリカと、共産党はソ連と通牒したではないか、我々の志が間違っていたのではない。単に日本が負けただけだ。」と。>

 <当時蒋介石ら国民党主流派は抗日には消極的だった。彼らは日本及び日中関係を現実的に見ていたからだ。蒋介石自身は大変な知日派だった。中国が遠大な将来を考えるなら、日本と提携すべきであって、日本を恨む必要はない、日本は隣邦であり同文の民族であって決して敵対すべき相手ではないと訴えていた。>

 <蒋介石による北伐完了と中国統一後、米英は真っ先に蒋介石政府を承認し、関税自主権を認めるなど、旧来の植民地政策から政府支援政策へと転換した。この結果、中国にとって反帝国主義政策の対象は日本だけとなった。中国は国家統一を強固なものとするため、対日外交で強硬路線に転じ、漢口租界からの即時撤廃を日本に要求した。それが満州事変から支那事変に至る戦争の原因になっていった。中国内戦に翻弄、愚弄された当時の日本の姿がここにある。>

ソ連コミンテルンの世界戦略と中国共産党

 三勢力による内戦を最終的に制したのは、最も弱体な勢力だった中国共産党である。ソ連から巧みな支援を受けて、西安事件という茶番劇を含めて国民党との「国共内戦」を制したのだった。黄文雄氏は資料①の中で次のように論じている。

 <西安事件によって日中提携の流れも共産党滅亡の流れも全て断ち切られてしまった。そしてその翌年の1937年に支那事変が起きた。発端となった盧溝橋事件の「一発の銃弾」も共産党の陰謀だったという論証は現在では常識となりつつある。>

 <日本との戦争を最も望んでいたのは中国共産党だった。実際に日本を挑発して国民党と争わせることに成功し、その結果共産党は生き残り、戦後疲弊した国民党を打ち破って国共内戦に勝利したというのが史実である。>

 <ソ連の南下を何よりも懸念し、不拡大方針を採用した日本に対し、南下を目指すソ連は、全く逆の戦略を立てていた。1937年盧溝橋事件の直後にコミンテルンの幹部会議は中国共産党へ次のような命令を下していた。「局地解決を避け、日中全面戦争に導け。国民政府に開戦を迫れ。対日ボイコットを全土に拡大しろ・・・。」>

 <つまり長期的な日中全面対決に持って行き、ソ連に対する日本の攻撃を不可能にし、両軍を徹底的に消耗させて共産党政権を樹立し、仮に日本が敗北したら、日本革命を達成するという戦略だった。中国での共産党政権樹立はソ連の傀儡政権であるから、日本を共産化できれば東アジア制覇を達成できる。つまり日露戦争によって阻止されたロシアの南下を、日中戦争によって一気に達成しようとするコミンテルンの世界革命戦略だった。>

 <もちろんこの謀略は、日本にとって最も警戒するものだった。そのような事態を防ぐために、何としてでも日中全面戦争を避け中国との提携を実現して共同で防共体制を築きたかったのだ。だが、共産党など中国の反日勢力はそのようには考えなかった。飽くまでも自勢力の存亡をかけ、日本軍を中国内戦に引きずりこもうとしていたのである。>

 このように俯瞰すると、日中戦争とは中国大陸を舞台とし、リング外で繰り広げられた列強間の戦略ゲームに他ならなかった。日露戦争に勝って軍事力では欧米列強と肩を並べた日本が満を持して中国大陸に進出したのだったが、アメリカ、ソ連という老獪な二大国に加えて、異質な文明をもち内戦に明け暮れてきた中国人を相手に、戦略ゲームを挑むのは余りにも無謀だったという他ない。

(8)太平洋戦争の真相

アメリカはなぜ日本と戦ったのか

 「アメリカはなぜ日本と戦ったのか」という問いは、今でも解明されていない謎である。なぜならアメリカが未だに日米戦争に係る資料を公開していないからだ。西尾幹二氏は、既にアメリカはナチスドイツとの戦いに関する殆ど全ての書類や文献を公表しているが、日米戦争に関するものは百年間公表しないとして隠しているという。

 この事実が物語ることは、アメリカは不当な戦争をしたということであり、逆に日本は根拠のない戦争を仕掛けられたということであり、そして日本が戦争を始めたのではないということである。(資料③参照)

 以下は資料③と④を参照して、太平洋戦争の真相について要点をまとめたものである。資料④の現代史研究会のメンバーは、西尾幹二氏(電気通信大学名誉教授)、福地惇氏(高知大学名誉教授)、福井雄三氏(東京国際大学教授)、柏原竜一氏(情報史研究家)である。

第一次世界大戦から第二次世界大戦へ、変質した戦争

 はじめに、西尾氏は資料③の中で、世界大戦の変質について次のように概観している。

 <第一次世界大戦までの戦争は、国家同士の戦争であり、少し広げて考えても、同盟対同盟の戦争だった。今までの戦争では終末において妥協が可能だったが、今や妥協が全くない戦争が始まっている。言い換えれば戦争は国家が戦い終わった後も続く。今までの戦争と非常に違う秩序と秩序の戦いであり、総力戦だ。世界観の展開の戦いであるから、当然その根底には思想戦というものがなければならない。>

 <アメリカは第一次世界大戦においてドイツという国家を倒し、第二次世界大戦ではナチスの世界観と戦い、第三次世界大戦(米ソ冷戦)ではソ連の共産主義という思想体系と戦い、そして第四次世界大戦(現在)ではイスラムという宗教秩序と戦っている。>

日米戦争はなぜ起きたのか

 アメリカはなぜ日本と戦争をしたのだろうか。上記「思想戦」という意味において、アメリカには日本と戦う大義名分も、開戦理由もなかった。結局アメリカにとって日本が列強の仲間入りをしたこと自体が想定外であり、折あらば排除したい存在となっていたと推察される。結論を先に書けば、ルーズベルトという狂人と、それを操ったスターリンと、ルーズベルトを大統領に担ぎ上げた組織(後述)の存在がなければ太平洋戦争は起きなかった可能性が高い。

 西尾氏は次のように述べている。<多くの昭和史論者たちは、日本がアメリカを激発させ、虎の尾を踏んだというようなことを前提として議論を始めるが、そうではなく、最初からアメリカには対日攻略意図があり、どうしても譲れない国益護持の一線があり、そこを越えたら攻略すると考えていた。その一線が中国問題や満州問題だったのだ。つまりどのような道筋を辿っても、日本にとって戦争は避けられなかったのではないか。>

 また資料④の中で現代史研究会の識者はそれぞれ次のように論じている。<日米戦争は宗教戦争だった。米国が日本文明を殲滅しようと考えた背景には宗教的動機があった。簡単に言えば、先の戦争はアメリカのキリスト教原理主義と我が国の国体論の激突だった。>(西尾氏)

 <皇室を含めて日本文明を殲滅しようという壮大な戦略戦術の下にあの戦争はあったと考えられる。確かにあの戦争は宗教戦争の色彩が濃厚だが、それを「文明の衝突」と呼びたい。ユダヤ・キリスト教の「自然を征服」しようとする一神教を土台にした欧米の文明と、八百万の神々と山川草木悉皆仏性の「人間と自然が宥和」する日本文明との衝突だ。>(福地氏)

 <そもそも第二次世界大戦そのものが、宗教にも似たイデオロギーのぶつかり合った宗教戦争だったと言えなくもない。>(福井氏)

支離滅裂だったアメリカ

 結局、第一次世界大戦から第二次世界大戦を通してアメリカは覇権以外に何を得たのだろうか?「米国の行動は終始支離滅裂だった」そう断定する根拠として、福井氏は次の四点を挙げている。

・第二次世界大戦が終ったとき、アメリカは東欧を全部ソ連にタダで譲り渡している

・日本との最大の争点だった中国大陸の門戸開放・機会均等を達成できていない

・蒋介石の国民党政権に対して天真爛漫な幻想を抱き莫大な援助を行って対日戦を煽ったが、戦争末期にはデタラメな実態に愛想をつかし、今度は毛沢東を美化し始めた

・大戦後4年間(1945~1949)に及んだ中国大陸の国共内戦にも介入せずに放置して中国大陸の共産化を黙認した

ルーズベルトタブー

 <戦争をしないと公約して大統領になったルーズベルトがなぜ戦争に走ったのか。その謎解きはアメリカ人研究家の間で「ルーズベルトタブー」と呼ばれている。その結論は、ルーズベルトが国際金融巨大財閥(現在のディープステート)の使い走りをさせられていたというものだ。>(福地氏)

 <ルーズベルトはアメリカの覇権を目指したけれども、そこには親ソという矛盾があった。ルーズベルト政権の中にも「ソ連とアメリカの未来は一つだ」という考えがあった。ソ連に対しても中国に対しても全く無警戒だった。>(西尾氏)

 <米国を一つのイメージで捉えることは非常に危険である。結局米国は大統領独裁国で、日本が嫌いで中国が好きだという大統領がフランクリン・ルーズベルトだったということだ。アメリカでは既に1918年から共産主義者による情報活動が始まっていた。1920年代にはプロパガンダはアメリカ全土に広がっていて、大恐慌の時にはソ連が理想郷に見えた。ルーズベルトは中国と日本、アメリカと日本の戦争を望んでいた。>(柏原氏)

まとめ

 冒頭の図1に示したように、日本の近代史の前半は「戦争の半世紀」だった。戦争の相手国となったのは、最初に中国、次にソ連、そしてアメリカだった。そして「戦争の半世紀」は太平洋戦争の敗戦をもって終わった。「一つの戦争の終結は、次の戦争の原因になる」という、日清戦争以来続いた戦争の因果関係に、敗戦をもって終止符が打たれた。

 この半世紀の間に、世界の近代化の潮流から取り残されていた清国は崩壊して中華人民共和国が誕生し、ロシア帝国も崩壊してソヴィエト連邦が誕生した。そのソヴィエト連邦も既に分裂して存在しない。一方、明治維新とほぼ同時期に勃発した南北戦争を乗り越えたアメリカは世界の覇権国となった。

 このように日本の「戦争の半世紀」は、世界の激動の一環としての、東アジアにおける激動の中核的事件だったのである。

 私は歴史の専門家ではないし研究者でもないとお断りをした上で、太平洋戦争敗戦に至る日本の近代史について、全体像を俯瞰し歴史の真相を探究してきた。さらに「戦争の半世紀」における日本の勝利と敗北について、その結末に至った原因について考察を加えた。作業にあたって、黄文雄氏、保阪正康氏、西尾幹二氏の4つの資料を主に参照させていただいた。

 第1部、第2部、第3部と書いてきて、極めておおざっぱではあるが、明治維新以降の日本の近代史を、その背景となった激動の世界史の中で概観できたように思う。

 既に明治維新から現在まで156年が経過した。前半(明治維新~太平洋戦争敗戦)は77年、後半(敗戦~現在)は79年になる。『思考停止の80年との決別』と題して連載で書いてきた理由は、戦後約80年が経つにも拘わらず、日本は「戦争の世紀」を総括しておらず、その成功と失敗から学ぶべき教訓を明らかにしてこなかったと考えたからである。歴史を総括せずウヤムヤのまま封印してきた現状を正さない限り、日本は政治的にも経済的に現在の低迷から脱出することはできないという危機感があったからである。

 第4部では、第1部から第3部を踏まえて、『思考停止の80年との決別』を締め括りたい。

参照資料:

資料①:『日中戦争真実の歴史』、黄文雄、徳間書店、2005.7

資料②:『歴史の定説を破る』、保阪正康、朝日新書、2023.4

資料③:『憂国のリアリズム』、西尾幹二、ビジネス社、2013,7

資料④:『自ら歴史を貶める日本人』、西尾幹二と現代史研究会、徳間書店、2021.10

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