奇跡の物語「超圧縮地球生物全史」

プロローグ

 『超圧縮地球生物全史』という本が注目を集めている。この本は地球編、生物編、サピエンス編からなる「奇跡の物語」を綴ったものである。46億年に及ぶ地球環境の変化と、生物の進化・絶滅の歴史は、地球由来及び太陽由来のエネルギーの変動と生物による秩序形成の歴史である。

 物語の舞台は地球、登場するアクターは生物であり、そこには個体毎の物語、種としての物語、生物全体としての物語が輻輳して綴られている。シナリオもゴールもない、偶然の結果が織り重なって綴られた物語である。

地球の誕生

 今から46億年前、当時の太陽系の近傍で超新星爆発が起きた。爆発によって吹き飛ばされた物質は重力作用で再集結し、太陽と惑星系が誕生した。地球周辺には超新星爆発で作り出された元素を含む豊富な物質に満ちていた。

 月のクレーターがその証拠なのだが、原始地球には小惑星、彗星等が頻繁に衝突を繰り返していた。その中には火星ほどの大きさの惑星があり、それが地球に衝突し、吹き飛ばされた物質が再結合して月が形成されたという大事件もあった。

 超新星が星の一生の終末期に爆発する事件は、宇宙では無数に起きている。ここで「奇跡の物語」と呼ぶに相応しいのは、超新星爆発で吹き飛ばされたさまざまな元素が重力作用によって再び集結して、高温高圧の星を誕生させ、核分裂反応によって新しい恒星として再び輝き出すことにある。

 元素の周期律表で鉄(元素番号26)よりも重いある金(同79)、銀(同47)、ウラン(92)などは、太陽の核融合反応では作ることができず、超新星爆発などの超高温超高圧状態で作られたものだ。地球上の鉱物資源だけでなく、我々生物の体にも、超新星爆発によって宇宙に放出された物質が再利用されている事実は、正に「奇跡の物語」である。

生命の誕生

 地球創成期の大気には豊富な水や炭酸ガス、メタン等があり、しかも太陽光線が充分に照射されていた。まだ陸地はなくやがて海の深部で生命が誕生した。海底は高温高圧状態にあり原始生命が合成された実験室だったと考えられる。超新星が作り出した重金属を含む多彩な元素が海底から供給されて、高温高圧状態の中で生物の基となる有機物が形成された。

 地球誕生から生物の出現まで数億年に及ぶ充分な時間があったことを考えると、原始生命が誕生するのは時間の問題だったと考えるべきなのだろう。地球の誕生が46億年前、原始生命の誕生は40~38億年前のことだった。

 地球における生命の祖はシアノバクテリアである。バクテリアは、やがて太陽エネルギーを使って、炭素、水素、酸素の原子から糖やデンプンを作り出す「光合成」という生命の仕組みを作り出した。これはエネルギーを使って生命の組織という秩序を作るという意味で、エントロピー則(万物の混沌化)に逆らうメカニズムであり、「生命の創生」という画期的な発明だった。

 後に「生命の進化」をもたらすことに貢献した奇跡はまだ他にもある。一つは古細菌と呼ばれる小さなバクテリア細胞が植物や動物の細胞の内部に入り込んで葉緑体やミトコンドリアとなり、エネルギー生成に係る中核機能となったことだ。

 光合成、葉緑体、ミトコンドリアという、それまでには存在していなかった画期的な機能を、生物は一体どうやって作り出したのだろうか。これも数億年に及ぶ充分すぎる時間の中で、充分すぎる試行錯誤を重ねて成し遂げた偶然の積み重ねだったのだろう。

 もう一つはシアノバクテリアが光合成を地球規模で行った結果、20億年に及ぶ歳月の間に大気の組成を作り換えてしまい、その後の酸素呼吸を行う生物が登場する基盤を整備したことだ。この事件は「大酸化イベント」と呼ばれる。

超大陸の形成

 地球に初めて大陸が形成されたのがいつかは分かっていない。大陸形成以前の地球は全てが海だったからであり、局所的に陸地があったとしても、記録として残っていないからだ。最初に超大陸が形成されたのは、19億年前に出現したヌーナ大陸だった。その後にロディニア大陸が形成された。

 海底にあった岩石が大規模な造山活動などによって地表面に運ばれると、大気中の二酸化炭素を吸収して風化する。この結果温室効果ガスが減少して地球が寒冷化する。超大陸が形成された時期が氷河期と重なるのはそういう理由による。

カンブリア爆発

 超大陸ロディニアが分裂したのは8.3~7.3億年前で、超大陸規模の風化が進んだ結果、地球が氷河時代に突入したのは7.2~6.4億年前だった。動物が出現し始めたのは6.4億年前頃で、カンブリア爆発」と呼ばれる動物の爆発的多様化は5.4~5.3億年前に起きた。これは現存する動物の祖先の全てが出そろった事件だった。地球創成の激動期が終わり、大陸が形成され、地殻変動が落ち着いてきた頃に動物の陸地への進出が始まり、新天地で動植物の多様性が進んだと解釈される。

生物進化の意味

 生物進化の物語を、物語がどう展開してきたかという視点から俯瞰すると、生物はバクテリア→真核生物→多細胞生物→動物と植物→恐竜→哺乳類→類人猿→サピエンスと進化し主役交代してきた。単純に捉えても生物進化という物語は、8幕からなることがわかる。

 一方これを個々の生物の視点からみれば、進化の本質とは、生物の個体が「獲物を獲得しつつかつ自らが獲物とならない」ように必死に生きてきた結果だった。その小さな物語の積み重ねを生物全体として眺めると、進化として見えるということなのだろう。

 さらに全体の本質を考えると、生物進化とはエネルギーを使って新たな秩序、しかもより複雑でより高度な秩序を作り出してきた生物の営みだったのだと理解することができる。

陸上への進出

 生物の陸上への進出が本格的に始まったのは、約4.7億年前のオルドビス紀の中頃だった。「デボン紀には海は魚でごった返していたにも拘らず、危険を冒してまで陸地に進出した生命体は殆どいなかった。それは陸上での生活が厳しいからだ。陸上に進出した開拓者にとって、そこは何もない宇宙と同じくらい過酷な環境だった。」と著者はいう。

 そして3.4億年前、パンゲア大陸が最終形態に収束しつつあった頃、陸地を制覇する動物の一群が登場した。

地球環境の変動

 最終的には寒冷化・氷河期または温暖化に辿り着く、地球環境の激変をもたらしてきた要因は三つあった。第一は惑星や隕石が次々に衝突して地球の構造を形成した力、第二は地殻構造が形成されていく過程で起きたプレート活動の力、そして第三は地球の天体運動の揺らぎによる太陽の照射エネルギーの変動である。

 地球誕生以降、時間の経過とともに第一の力が収まり、第二の力が安定化しつつある頃に生物が出現している。

 第三の力は地球の天体運動に係るもので、公転軌道の離心率の周期10万年、地軸の傾きの周期4.1万年、地軸の歳差運動2.6万年の三つの周期がもたらす、太陽からの照射エネルギーの周期的変動である。照射エネルギーが周期的に変動する結果、地球には周期的に寒冷期が到来する。この力は現在も継続している。

 ちなみに46億年が経過した現在、地球環境の変動をもたらしている力は、ゆったりとした大陸移動と散発的に起きる大規模な火山噴火、照射エネルギーの周期的変動、それと忘れた頃に起きる天体衝突である。

五回起きた大量絶滅

 カンブリア爆発以降「ビッグファイブ」と呼ばれる大量絶滅が5回起きた。科学技術振興機構が公開しているScience Portal(2021.3.10)によると、東北大学などの研究グループが、5回の内、白亜紀末の絶滅を除く4回の原因が何れも大噴火だったことを突きとめたという。(https://scienceportal.jst.go.jp/newsflash/20210310_n01/

 地殻変動とそれが原因で起きる二酸化炭素の増減、それによる温暖化または寒冷化・氷河期の到来に翻弄されながら、生物はしぶとく進化を繰り返して生き延びてきた。生物に進化を促進したのは、地球の地殻変動と太陽照射エネルギーの変動だったのだ。

 5回の大量絶滅の中で、最後の絶滅だけが天体衝突によるものだった。これは何を物語っているのだろうか。

 第一に地球環境を激変させる規模の火山の噴火は4回、平均すれば1.1億年に1回の頻度で起きている。最後の大噴火は約2億年前であり、今後も起きる可能性が高い。

 第二に天体衝突はカンブリア爆発以降では白亜紀末の1回のみだが、ヤンガー・ドリヤス期の寒冷化事件(後述)も隕石の衝突が原因で起きた可能性が高い。地球創成期と比べて頻度も衝突の規模も減少していると考えられるが、再来する可能性は確実にある。

寒冷化

 「3000万年前までにパンゲア大陸から分離した大陸が南に移動して南極大陸となった。この結果、南極大陸を周回する海流が生まれ、熱帯で暖められた海流の接近を拒んだ。北極海でも永続的な氷冠ができた。」と著者はいう。

 700万年前以降、寒冷化する気候がサルから類人猿へ、類人猿から人類への進化をもたらした。人類が何故二足歩行になったのは謎のままだが、木の上の生活からサバンナでの生活へ追い立てたのは寒冷化だったと思われる。

 カンブリア爆発以降長期にわたり地球環境を激変させてきた力は、地殻変動に由来するものが優勢だった。それが250万年前以降では太陽照射エネルギーの変動が優勢になったと著者はいう。当時、既に極地には氷が張っており、寒冷化は地球に一連の氷河期をもたらした。

 最近の寒冷化で最も寒かったのは2万6000年前で、北米や欧州の北部は氷床の下に埋もれていた。氷の中に海水が閉じ込められていたため、平均海水面は現代より120メートルも低かった。

 ヤンガー・ドリヤス期は、最終氷期が終わり温暖化が始まった状態から急激に寒冷化(15度低下)した時代である。寒冷化は1万2900~1万1500年前にかけて北半球の高緯度で起きた。変化が短期間で、ビッグファイブに匹敵する規模ではないものの、原因は隕石の衝突によるものだった可能性が高い。恐らく隕石の衝突が原因の生物の局所的絶滅という事件は、生物史の中ではかなりの頻度で起きていたと考えるべきだろう。

サピエンスの登場と出アフリカ

 サピエンスが登場したのは20万年前頃で、その頃は長期的な寒冷期だった。著者によれば、サピエンスは20万年前には南欧に、18~10万年前には中東のレバント地方に進出していたという。さらに著者は「出アフリカには全体的なパターンがある。それは地球の軌道周期、特に2万6000年周期の歳差運動が原因で起きる周期的な寒冷化の変動と共に脈動していた。」という。端的に言えば、出アフリカは少なくとも4回以上あって、その動機が寒冷化だった可能性が高いということだ。

 著者が指摘しているもう一つの重要な点は、サピエンスよりも古い時代にアフリカを出て、ユーラシア大陸に暮らしていたネアンデルタール人やデニソワ人が滅んだ原因は、集団規模が大きいサピエンスに取り込まれてしまったことにあるということだ。

 サピエンスが他のホモ属と異なる点として、著書は「長老」という階層の存在を挙げている。「長い進化の中で初めて、複数の世代に知識を伝えられる種が現れた。・・・人間は学ぶだけでなく、教えることができる唯一の動物であり、それを可能としたのが長老たちだ。抽象的な情報が、カロリーと同じくらい大切な生存のための価値ある通貨になった。」と。

 恐らく世代を超えた知識と経験の伝承は、他のホモ属との競争において優位な力として作用したと思われる。

サピエンス以降

 サピエンス以降の世界について、著者は幾つかの予測をしているので紹介する。

 「全ての生物のキャリアは絶滅で終わる。ホモ・サピエンスも例外ではない。また殆どの哺乳類は100万年程度で絶滅する。サピエンスはまだその半分以下しか経過していないが、特別な種であり今後何百年生き続けるかもしれないし、来週に絶滅してしまうかもしれない。」

 「現在サピエンスは、ビッグファイブに続く第六の大量絶滅を早めているという懸念があるが、地球はサピエンスが出現する46億年前から存在しており、サピエンスが居なくなった後もずっと存在し続ける大きすぎる存在なのだ。」

 「地球上の生命の物語は、そのドラマと未来を含め、最も大きなスケールで見ると、たった二つの事柄によって支配される。その一つは大気中の二酸化炭素の量がゆっくりと減少してゆくこと、もう一つは太陽の明るさが着実に増してゆくことだ。」

 「地球の大陸移動の原動力となった大きな対流熱機関は、核燃料によって支えられていた。超新星の最期の数秒間で作られたウランやトリウムのような元素がゆっくりと放射性崩壊し、遥か昔に地球の中心へと逃げ込んだ。そのような元素は殆どなくなってしまった。約8億年後に新たに新たな超大陸が形成されるが、地球史上最大のものとなる。それはまた、最後のものでもある。大陸の移動は生命の燃料であり、しばしばその宿敵でもあったが、遂に停止する時がやってきた。」

エピローグ

 著者のヘンリー・ジーはダイヤモンド・オンラインのインタビューに対し、次のように答えている。(https://diamond.jp/articles/-/314122

 「この本の執筆を通じて学んだことの一つは、ニュースや人間の生活サイクルの中で起こる殆どのことは、実はどうでもいいという事実です。なぜなら、地球はさまざまな時代に火の玉であったり、水に覆われた世界であったり、北極から南極までジャングルであったり、何キロメートルもの厚さの氷に覆われたりしてきたから。

 ですから、人々が「さあ、地球を守ろう」と言うとき、地球は気にしていません。地球はこれから何百万年ものあいだ、これまでと同じように生きていくでしょう。」

 さらに言う。「環境は私たちが好むと好まざるとにかかわらず、変化していくものです。私たちが救うべきは地球ではなく私たち自身なのです。つまり環境問題はほとんど美学なのです。しかし、私たちは地球へのダメージを自覚している唯一の種です。この本の精神は、最終的には何も問題にはならないけれど、一種の美学として、自分自身や家族、仲間の生物にとって快適で耐えられる生活を送るために最善を尽くす必要があるというものです。」

 『超圧縮地球生物全史』という著作は、地球と生物と人類が歩んできた壮大な歴史を1冊の書物に圧縮した傑作である。46億年というスケールの時間軸を、現代という断面で切り出し、さらに自分を中心とした誠に小さな半径の世界をあくせくと生きている現代人に、たまには視野を大きく拡大して、高い視座から時代と世界を俯瞰してみたらどうかと提案している本である。

 「環境問題は美学である」という看破は見事という他ない。敢えて一つ加えておきたい。それは環境問題は知恵者が次の巨大なビジネスとして作り出した物語であることを。経済というものが成長を前提としている以上、未来にビッグテーマを描いて挑戦することは悪いことではない。但し、飽くまでもビジネスのテーマなのだと理解した上で受け入れることが賢明である。

 サピエンスは、今のところだが、そして恐らく今後もそうなると思われるが、生物進化の物語において最後に登場したアクターである。しかし、生物進化の歴史においてサピエンスが特別に偉大なのは、この壮大な「奇跡の物語」の存在に気付き、それを読み解いたことにある。それこそが最大の「奇跡の物語」なのだと言っても過言ではない。

 著者は「もっと大きな視点で、時代を、世界を、そして人生を考えてみようよ」と提案しているように思える。

ゲノム解析が解明しつつあるサピエンスの奇跡

ゲノム解析技術が急速の進歩を遂げている。世界中の現代人のみならず、古代の遺跡から発掘された人骨からDNAを抽出して解析が行われている。その結果、従来の化石をもとに明らかにされてきた人類史が一新されつつある。

 受精卵には、父母がもつゲノム情報が一対のDNAに編集されて、23本の染色体の中に畳み込まれて子へ伝達される。父母のDNAもまた、さらにその父母から同様に受け継がれたものであるから、ゲノム情報には歴代の祖先に関わる遺伝情報が記録されていることになる。

 従って、もし世界中の民族のゲノム情報を比較すれば、民族間の違いを分析できる。もし古代人と現代人のゲノム情報を比較すれば、遺伝情報がどう進化してきたのかが分かる。さらに空間軸(世界の民族)と時間軸(人類史)のゲノムの共通点・相違点を多面的に解析すれば、出アフリカ以降、サピエンスが世界中に拡散していった過程が解明されることになる。このように、ゲノム解析という技術は、文字通り「パンドラの箱を開ける」とでもいうべき画期的な技術である。

 最新のゲノム解析が解明してきた事実の一端を紹介しよう。本稿では以下の資料を参照した。

文献:篠田謙一著「人類の起源」、中公新書、2022年2月

ゲノム解析による人類史の解明

 ゲノム解析に使用されるデータは三つある。母から子(娘、息子)へそのまま継承されるミトコンドリアDNA、父から息子へそのまま継承されるY染色体DNA、それと父母から受け取った核DNAの三つである。核DNAの場合、生殖細胞(卵子と精子)が作られる時に、両親から受け継いだ二つのDNAの間で「組換え」が起きることが分かっている。組換えは、父由来の染色体と母由来の染色体の間で、同じ場所の塩基配列が入れ替わる現象である。この仕組みがあるために兄弟姉妹でゲノムが同じになることはない。

 ミトコンドリアは生物の細胞の中に存在する小器官の1つである。ミトコンドリアは摂取した食物が消化され分解された最後の段階で、分解された食物からエネルギーを取り出す機能を担っている。またミトコンドリアDNAは細胞の核ゲノムとは独立したDNAを持っている。

 各個人がもつミトコンドリアDNAやY染色体の配列をハブロタイプといい、同一の祖先から分岐したと考えられる共通のハブロタイプをハブログループと呼ぶ。ハブログループの共通性と変化を分析することで、ミトコンドリアDNAの解析からは母型の系統を、Y染色体DNAの解析からは父型の系統を解き明かすことができる。

 ハブログループの進化は、ハブとスポークをもつネットワーク構造で表現される。またハブログループはアルファベットの記号で識別されている。ミトコンドリアDNAの場合、具体的にいえば、アフリカで誕生したサピエンスの祖先集団のハブログループがLで、そこからL0、L1・・・と派生型が登場して、L3がハブとなり、そこからM型とN型に分岐して、MとNが大きなハブとなって、そこから多数のスポークが派生している。

 遺伝子の情報量、つまり塩基の数で比較すると、ミトコンドリアDNAが16,550塩基であるのに対して、Y染色体DNAは5,100万塩基対、核DNAは30億塩基対ある。核ゲノムの場合、両親から遺伝子を受け継ぐので実際の情報量はさらにその2倍ある。情報量が少ないことに加え、組換えが起きないことから、ミトコンドリアDNAやY染色体DNAが、人類の系統図を解明する手段として広く活用されている。

 現在ゲノム解析に威力を発揮している技術に、「次世代シークエンサ(NGS:Next Generation Sequencer)」がある。NGSは、ランダムに切断された数千万~数億の DNA 断片の塩基配列を同時並列的に決定して、断片どうしの連結を復元しながら塩基配列の全体を決定してゆく技術である。半導体の進歩が「ムーアの法則」に従い、18ヵ月で2倍になると言われてきたが、NGSは2005年に登場して以降、処理能力はムーアの法則を上回る速度で向上してきた。現在では1日当たり2兆を超える塩基数を1台で解読できるNGSが稼働しているという。

 両親から受け継ぐ核DNAには所定の頻度で突然変異が起きる。殆どは数世代の内に消滅してゆく一過性のものだが、突然変異が生存に適合した場合など、集団の中に所定の頻度で残ってゆく変異もある。ゲノムの中の一つの塩基が変異したものを「一塩基多型(SNP)」と呼ぶが、これは「ある時にある場所で起きたDNAの変異」を示すマーカーとなる。核ゲノム解析でこのSNPを比較照合することによって、遺伝の系統を遡ることができるという訳だ。

人類の出アフリカと世界への拡散

 人類の起源は「チンパンジーの祖先と人類の祖先が分岐した時」と定義されている。今のところ人類の祖先と言われるのは、700万年前に出現したサヘラントロプス・チャデンシス(いわゆる猿人)である。200万年前には人類の中から直立歩行する「ホモ属」が登場した。ホモ・エレクトス(いわゆる原人)である。ホモ・エレクトスは人類の中で最初に「出アフリカ」を行った種で、その子孫に北京原人やジャワ原人がいる。

 ホモ属としては、ホモ・サピエンス(以下、サピエンスと略す)の他にネアンデルタール人とデニソワ人が知られている。約64万年前にネアンデルタール人とデニソワ人の共通の祖先がサピエンスの祖先から分岐し、約43万年前にはネアンデルタール人とデニソワ人が分岐したことが分かっている。またユーラシア大陸の各地で、ネアンデルタール人とデニソワ人の遺跡が発見されている。

 核ゲノム解析の結果、アジア人とヨーロッパ人にはネアンデルタール人由来のDNAが全体の約2.5%混入していることが判明した。一方、サハラ砂漠より南のアフリカ人にはそれがない。このことは、ネアンデルタール人はユーラシア大陸を中心に分布していて、同じ時期に同じ場所で生活をしていたサピエンスとの間で交雑が起きたことを物語る。今から55,000年前後のことだった。

 サピエンスがアフリカを出て向かった先は、アフリカと陸続きのレバント地方だった。レバント地方とは、アラビア半島の西端で地中海に面している地域をいう。実際にイスラエルにある複数の洞窟からは、サピエンスやネアンデルタール人の人骨や化石が見つかっている。最近の研究によれば、サピエンスがアフリカを出たのは複数回あって、最古のものは20万年前頃で、現代人の祖先が出たのは約6万年前だった。

 約6万年前にレバント地方に渡った現代人の祖先集団は、1万年ほどレバント地方に留まった後、約5万年前以降に世界に拡散を開始した。いわゆるグレート・ジャーニー(the Great Journey)の始まりである。レバントを出た集団は先ず東西の二手に分かれて、西に向かった集団がヨーロッパに、東に向かった集団がアジアに拡散した。東に向かった集団は次に南北に分かれて、北回りの集団はシベリアに向かい、南回りの集団はインドを経由して南アジア~東南アジア~東アジアに向かった。北米大陸に渡った集団もこの集団から分岐したことが分かっている。

 氷河期は地球上で繰り返し起きたことが分かっているが、25,000~19,000年前は「最終氷期の最寒冷期」と呼ばれる時期だった。このときには海面が最大で現在よりも120m低下していた。その結果ベーリング海が陸続きとなり、シベリアからアラスカへサピエンスは歩いて渡ることができた。ユーラシア大陸を踏破した後に、アジアの集団から分岐した集団が北米大陸に渡った。彼らはベーリング海周辺で数千年滞在した後に、北米に移動したことが分かっている。北米に渡った集団は、最寒冷期が終わった17,500~14,600年前に二つのグループに分かれ、一方は北米大陸に拡散してアメリカ先住民の祖先集団となった。もう一方のグループは太平洋岸を南下して南米大陸まで到達した。

 サピエンスがグレート・ジャーニーの最後に渡ったのはアメリカ大陸である。オーストラリアや南太平洋諸国には、船を使って陸路よりも早い時期に渡ったことが明らかになっている。

日本人の形成

 中国北京の近郊に田園洞と呼ばれる古代人の遺跡がある。そこから発掘された人骨は約4万年前のものと判定されている。この人骨のゲノムと縄文人のゲノムが照合された結果、56%が共通で44%が異なる事実が判明した(細部は不明)。このことは、グレート・ジャーニーの過程で田園洞を経由して日本列島にやってきた集団と、別のルートからやってきた集団の二つの系統が合流して縄文人の祖先集団が形成されたことを物語っている。

 サピエンスが日本列島にやってきたのは約4万年前のことである。最古の縄文土器は16,500年前のものであるから、4万年前は「旧石器時代」の区分となる。そもそも「縄文時代」という区分は16,500~3,000年前の期間をいい、縄文時代に日本列島に居住した人々を「縄文人」と呼んでいる。ゲノム解析の結果、縄文人は旧石器時代に日本列島にやってきたサピエンスの直系の子孫であることが確認された。

 縄文人、現代日本人(アイヌ人、本土人、オキナワ人)、及び東アジアの各民族を母集団として、ミトコンドリアDNAの分析と照合が行われた。この結果、幾つかの事実が明らかになった。

 第一に、縄文人がもつハブログループはN9b(Nの派生)とM7a(Mの派生)が支配的であるのに対して、現代日本人ではD4が最も多く、N9bとM7aはあるものの小さく、非常に多様なハブログループから構成されていることが分かった。ユーラシア大陸の最東端に位置する日本列島はグレート・ジャーニーの終着点の一つであり、日本人が多くの民族のDNAがブレンドされて形成されたことは当然の帰結であるのかもしれない。

 第二に、ハブログループN9bとM7aは、現代では日本列島にのみ存在していて、東アジア諸国の現代人からは消滅している。

 第三に、N9b系統は北海道から東日本に及ぶ地域に多いのに対して、M7a系統は西日本から琉球列島に及ぶ地域で多い。日本列島における分布から、M7a系統は中国大陸の南部沿岸地域から西日本に入ってきて東に向かったものと考えられ、N9b系統は北から日本列島に入ってきたことが想定される。

 弥生時代は、稲作と青銅器文化を持った人たちが中国大陸から朝鮮半島を経由して北九州に渡来した時から始まった。このとき北九州で在来の縄文人と渡来人との間で混血が進み、弥生人の集団が生まれた。弥生人は稲作とともに日本各地に拡散し、東北まで進出していった。この結果、現代の本土人(本州、四国、九州)のDNAは多様化し、稲作が適さなかった北海道と沖縄では弥生人の進出がなかったために、縄文人のDNAが色濃く残ったと考えられる。実際に、縄文人のゲノムはアイヌ人では70%、オキナワ人では30%残っている。

まとめ

 サピエンスのDNAは約30億塩基対あり、約2万の遺伝子が含まれている。DNAには、遺伝子の領域と遺伝子ではない領域があって、遺伝子が占める割合は数%といわれている。またサピエンスのゲノムの99.9%は世界の全ての民族に共通で、残りの0.1%の中に個人や民族の特徴を決定している遺伝子がある。

 サピエンスが進化しながら世界に拡散していった6万年に及ぶ歴史が、ゲノム解析によって解き明かされようとしている。何故そんな魔法のようなことが可能なのかと言えば、ゲノムが遺伝情報だからである。両親から子へ両親が持っていたゲノム情報が一対のDNAに編集され、23本の染色体の中に畳み込まれて伝達される。両親にはさらにその両親からと、この情報伝達の連鎖は人類の祖先までさかのぼる。つまりゲノム情報とは、単に一世代の遺伝情報に留まらず、出アフリカ以降のサピエンスの拡散と進化が書き込まれた情報でもあるのだ。

 現代の科学は、遺伝の仕組みを解明しただけでなく、ゲノム情報を遡ることによって、人類進化の経緯を解明する道を開いたのである。

 さらに話はここで終わらない。サピエンスの登場と進化は、38億年におよぶ生物進化のごくごく直近の20万年のドラマにすぎない。「人類の祖先を辿ってゆけば、最初の祖先、アダムとイブに辿り着く」というが、この表現は正しくない。何故なら物語は20万年前に突然始まったのではなく、アダムとイブにもさらに祖先が居て、200万年前のホモ・エレクトス誕生にまでさかのぼるからだ。最近の科学技術は、状態のいい古代人の人骨からだけでなく、洞窟の堆積物からもDNAを抽出ことが可能になっているという。

 「生物の進化」というドラマを、「遺伝」というメカニズムから眺めるとき、我々の遺伝子は約38億年前に最初に誕生した生物の祖先まで途切れずに繋がっている事実に驚かされる。

 さて、進化とは一体何だろうか。エントロピー増大の法則が支配する宇宙で、何故生物は誕生し進化を続けてきたのだろうか。生物の誕生も進化も、エントロピー増大の法則が明らかにした「宇宙の混沌化」に反する「秩序化」のプロセスである。しかも生物の進化には予め用意されたシナリオがない。生物の誕生も進化も、複雑系の科学で言うところの「自己組織化」と呼ばれる現象なのである。生物進化の結果としてサピエンスが登場したこと自体が奇跡であるのだが、進化を興しているメカニズムである、精緻な遺伝の仕組みも驚嘆という他ない。

 そう考えるとき、現代に働いている大きな三つの力の存在に思い至る。最も根底にあるのは、宇宙を貫く物理法則としてのエントロピー増大の法則であり、二つ目は生物の進化であり、そして三つめは人類が起こしている技術革新である。地球上では現在、この三つの力が相互に影響を及ぼしながらせめぎ合っていると考えることができる。この神秘と呼ぶ他にない力の作用を創造したシナリオライターは存在しないとしても、そのことを発見し解明してきたサピエンスという存在は何という奇跡なのだろうか。