人が何かを達成しようと思うときには目的があり、手段が必要となる。この二つを区別することが「思考の作法」の第三の型である。
はじめに一般論だが、人は往々にして目的を明確にしないまま行動を始めてしまうことが少なくない。分かり易い例を挙げよう。例えば60歳を過ぎて現役を退いた時、これからは健康を維持することが大事だと多くの人がジョギング等さまざまな取り組みを始める。
しかしながら、何のために健康を維持するのだろうか?健康を維持して何をするのだろうか?健康を維持することは手段であり、これから何をするのかという目的を先に考えるべきだと思うのだが、何故そうしないのだろうか。
ハッキリしていることが一つある。それは「何のために」を考えることは、「何をする」を考えるよりも遥かに難しいということだ。何故ならそれは未来の姿を描くことになるからである。
二つの思考法
手段から考えるということは、現在に視点をおいて未来を見つめるアプローチである。一方目的を先に考えるということは、未来の姿を先に描いて、それを実現するための手段を考えることである。つまり未来の到達点に視点をおいて、現在を見つめ直すアプローチである。便宜上、前者を「手段思考」、後者を「目的思考」と呼ぶことにする。
この二つの思考法には決定的な違いがある。
手段思考では過去の延長線上に未来があることを想定している。何故なら実行可能な手段をコツコツと積み重ねることになるので、到達できる目的地は延長線上となるからだ。
これに対して目的思考では、簡単には実現できない高い目標を設定することが普通である。そしてそれを実現するためには通常の発想を超えたアイデアと行動が求められる。
もし手段思考のAさんと目的思考のBさんが同時にスタートした場合、Bさんの方がより遠く、或いはより高い目標に到達できるに違いない。それだけでなく、AさんよりもBさんの方がより柔軟な発想力、より高い行動力を獲得する可能性が高い。この結果、目的思考に立つのと手段思考で行くのとでは、人生全体で考えると相当大きな開きとなることが予想されるのである。
分かり易い例を挙げよう。何かの製品を作っている工場を想定する。もし社長が原価を1割削減せよと号令をかけたとすると、従業員は無駄な部品や工程を削除するなどの改善努力を重ねて何とか社長の期待に応えようとするだろう。
では、もし社長が原価を半減しろと号令をかけたらどうなるだろうか。従業員は今までの延長線上の方法では実現できないことを悟り、全く新しい発想を必死で考えようとするだろう。目的思考が重要なのはこの点にある。
ブレイクスルー思考
常識に囚われない柔軟な発想で、一見困難に見える課題を解決する。これをブレイクスルーと呼ぶ。1997年に「新ブレイクスルー思考」という本がダイヤモンド社から発刊された。その巻頭にはこう書いてある。
アインシュタインいわく「人類の直面している困難な問題は、それが出てきた思考で解くことはできない。人類にとって最も重要な課題は新しい思考を発見することである。」と。思考のジレンマとでも言うべき名言であると思う。
ブレイクスルー思考については、別稿で改めて論じたい。
行動の動機
人が何か行動するときの動機には三つある。やりたいことをやる、できることをやる、やるべきことをやる、の三つである。英語で言うと Would、Could、Should に対応する。この内、動機が Would と Could の場合には目的の認識が希薄な場合が多いので、手段思考に相当する。一方 Should の動機は目的を明確に認識しない限り出てこないので、目的思考に相当する。言い方を変えれば、明確な目的がある場合には Would/Could の誘惑に屈することなく、意思をもって Should の手段を選択すべきである。
課題を解決するのは意思とアイデア
昨年11月8日、海外から選手を招いて体操の国際大会「友情と絆の大会」が、コロナ禍の中東京国立代々木競技場で開催された。その閉会式で体操の内村航平が決意のスピーチを行った。以下は日刊スポーツからの引用である。
「僕としては残念だなと思うことは、コロナの感染が拡大し、国民の皆さんが五輪ができないんじゃないかという思いが80%を超えていると。しょうがないとは思うけど、できないじゃなく、どうやったらできるかをみなさんで考えて、そういう方向に変えてほしい。非常に大変なことであるのは承知の上で言っているのですが、国民のみなさんとアスリートが同じ気持ちでないと大会はできない。なんとかできるやり方は必ずある。どうかできないとは思わないでほしい」。
万事このとおりである。「それは無理だ」とか、「それは難しい」と簡単に言う人からは、それを可能とするアイデアを期待できない。何故なら、その先は考えないと宣言しているのと同じだからだ。
目的と手段、我々はいつもこれを取り違えているように思う。 目的だと認識して行動し成し遂げると、まだその先に本当の目的が隠れているようなことが多々あり、その本質的な目的を叶えようとしても、簡単ではなく、手段を整理し、じっくり順序立ててやるべき行動に結びついていない。つい、日常の「やりたいこと」や「やれること」に進んでしまう。 毎年、年はじめに一念発起して立てた計画もいつのまにか自然消滅していることを思い出した。
なぜだ? これは無理やり「やるべき」ことを自分に押し付けているだけで、この「やるべき」ことが、真に「やりたいこと」の領域に達せず、楽しいと感じられないからだと思う。頭では「やるべき」と自覚出来ても、肝心の行動に至らない。 これには習慣化が必要と思うが、これまた頭の中の思考の範囲で行動力にならず、堂々巡りかもしれないが、何とかして「やるべき」ことを自分の脳に「やりたい」感じさせるようにしたい。→ 毎日、呪文を唱え脳をだますのがいいかも? 少し頭が混乱してきたが、いずれにせよ、アドラーの目的論とも共通する「目的思考」
は非常に感銘を受けました。 感謝!
やりたいこと、できることが主観の範囲であるのに対して、やるべきことを考えるには自分を客観視する必要があります。また、個人の場合と企業や政府の場合とでは異なるでしょう。個人の場合ならやりたいことを貫けばいいのでしょうが、政府の場合にはできること、やりたいことの範疇で行動されては未来を危うくする危険性があります。どうしても世界情勢の中でどう行動することが国益となり日本の役割なのかを考えなければなりません。
たとえば、ワイナリーを起業するという事例を考えてみると、こういうブドウが収穫できるからワインを作ってみたいという発想は、手段から考えた、やりたいことに挑戦するアプローチでしょう。それに対して山梨ワインを超えるワインを作ろうという発想は目的思考に立ったものとなります。世界でワイン通を唸らせるワインで山梨にはないものはどういうワインか、それを作るためにはブドウは何か、それは何処から調達すればいいのかと、目的から手段へと思考をブレイクダウンしてゆく必要があります。
このように収穫できるブドウから発想するのと作るべきワインから発想するのとでは、思考過程が真逆となります。
確かに「やりたいこと」は主観的で狭い範囲、「やるべきこと」は客観的でもう少し大きな上位の目的に位置付けられるようで、他者や社会への貢献課題(目的)であるべきとも感じます。
しかし、社会を見渡してみますと、大手電機メーカーの検査偽装や多額の現金買収で票を集める議員、さらに、お上はどうも、「やりたいこと」や「やれること」が多く、「やるべきこと」が少ないように感じ残念です。
再度、例題を上げて目的思考の重要性の解説をいただき理解が進みました。今後、何か取り組む際には「目的思考」に整合しているか検証できそうです。
今日は、思考の作法を少し垣間見た感じで、視野が広がりました御礼申し上げます。