プロローグ
戦後に日本自由党と日本民主党が合体し、日本社会党との間で「55年体制」が始まった1955年から70年が経過した2025年10月21日、第104代首相に高市早苗氏が選出され、22日に高市内閣が発足した。70年に及ぶ戦後の政治体制に決別し、「失われた30年」から脱出して、「ポスト戦後80年」の時代に相応しい新体制構築に向けて力強い第一歩を踏み出したことになる。文字どおり外患内憂の難題に囲まれた船出ではあるが、日本の戦後が終わる大転換が始動したことをまずは素直に喜びたい。
戦後政治終焉のドラマ(ファクトの整理)
この歴史的大転換はどのようにして起きたのか、最初に総括しておこう。
1)昨年9月28日に自由民主党総裁選が行われ石破茂氏が新総裁に選出された。第1回投票では、高市早苗氏が181票で石破茂氏154票を27票上回ったが、決選投票では「悪しき永田町の力学」が働いて、石破茂氏215票、高市早苗194票となり21票差で逆転された。
2)同年10月9日に石破茂首相は衆議院を解散した。同28日に第50回の衆議院議員選挙が行われたが、石破首相の期待に反して自公与党が惨敗した。以下に要約するように記録的な惨敗だった。
・自由民主党は256→190(66減)、公明党は32→24(8減)、両党とも議席を1/4 失い、自公与党で74票減少
・立憲民主党は98→145(48%増)、国民は7→28(4倍増)、両党で68票増加
3)今年7月22日には参議院議員選挙が行われ自公は参院でも過半数割れを喫した。
・自由民主党は114→101(13減)、公明党27→21(6減)、自公で19票減少
・一方、国民は9→22(13増)、参政党は2→15(13増)、両党で26票増加
4)翌23日、国政選挙で連続して惨敗したにも拘わらず石破首相は続投を表明した。一方、世論調査では52%が辞任すべきという結果だった。9月7日になって石破首相は「党内に決定的な分断を生みかねない」として辞任を表明した。
5)10月5日に行われた自由民主党総裁選で高市早苗氏が新総裁に選出された。
・第1回投票では高市早苗183(議員64、党員・党友119)、小泉進次郎164(同80、84)となった。党員の40%が高市氏を支持しており、二位の小泉進次郎氏に対する支持は28%に留まった。
・決選投票では高市早苗185(都道府県36、議員149)、小泉進次郎156(同11、145)で高市氏が完勝した。勝因は、党員の多数が高市氏を支持した結果、国会議員もその動向を無視できなくなったことにある。
6)10月10日、公明党が自由民主党に対し自公連立の解消を通告した。「保守のエース」である高市新総裁が誕生したことを受けて、公明党が連立解消の潮時と判断した結果だった。公明党の決断は青天の霹靂と受け止められた。この瞬間に戦後政治のタガとなっていた自公連立が突然に消滅し、これを転換点として戦後政治の枠組みが一気に瓦解を始めた。ポスト戦後80年の新体制に向けて大きく一歩を踏み出したといっていい。連鎖反応的に起きた一連の変化を列挙すれば、次のとおりである。
①自由民主党総裁選で党員の多数が高市氏支持を表明
②圧倒的な党員の勢いを受けて、自由民主党が新総裁に高市早苗氏を選出した
③参議院選では参政党と国民民主党が保守に軸足を置いた、基本方針を発表した
④以上の変化に追い詰められるように、公明党が連立を離脱した
7)10月21日、自由民主党と日本維新の会が連立体制を作ることで合意した。同日、高市早苗氏は衆参両院本会議の首相指名選挙で第104代首相に選出され、自民・維新による連立政権が発足した。10月22日、高市内閣が発足した。
総裁選で党員票に込められた民意は、①自由民主党の維持ではなく変化を、②リベラルから保守へ復帰を、③党益ではなく国益を求めるものだった。
元内閣官房参与だった谷口智彦氏が産経新聞正論に『自民「大テント党」瓦解のその先』と題した記事を寄稿している。22日に行われた参議院選挙の結果を踏まえた分析である。石破政権誕生から高市政権誕生に至る1年間に起きた政治体制の変化について、本質を抉り出す描写となっているので、以下に紹介する。(7月24日産経)
<自由民主党は英語なら大テント党とでも呼ぶべき大きな幕屋であって、中では何でもござれだった。右であれ多少の左であれ。但し、天幕を支持したのは保守の柱一本で、近年は故安倍晋三元首相が両の腕でこれを支えた。・・・安倍氏がいなくなった。柱からは(旧安倍派という)針金様のステーが何本も延び地面に刺さっていたけれど、これは岸田文雄前首相が根こそぎ外した。・・・われわれは7月20日、参院選挙の開票とともに、天幕は吹き飛び幕屋が倒れる音を確かに聞いたのである。・・・(自民党の)立党はちょうど70年前だ。・・・私有財産制と日米安保の護持にさえ誓いを立てるなら後は委細構わず、自民党は大テント党になった。>
<全政党が福祉充実を主張し、戦争にまつわる怖そうな話は当面箱にしまっておくことにした時期が、かくして生じた。・・・共産党の隣国が超大国化し、人類史に超絶する軍拡を続けて世界秩序を振り回すだろうなどと、誰ひとり思わない無邪気な頃だった。>
<箱の封印を開いて自尊自立と自衛の道に日本を導こうとした安倍氏の同志たちは、これからという時に追放の憂き目にあう。しかして自民党の、終わりの始まりだ。・・・自民党から保守主義を奉じる人々が去ったか去ろうとしている今、天幕のないかつての大テント党はどこに行こうというのか。往時、日本政治にあったかもしれない定常状態はもうない。事態はつとに流動している。ここに行くのだと明確に声を挙げる政治家が一人また一人と現れない限り、有権者の不満は鬱積する。>
石破茂前首相から高市早苗首相へ、ドラマの解釈
谷口智彦氏によるこの描写は、高市首相誕生に至る政治体制の変化の本質を理解する上で、とても示唆的である。この認識を踏まえて、上述した「戦後の政治体制崩壊のドラマ」に解釈を加えたい。
まず戦後政治体制を瓦解させるドラマの指揮を執ったのは石破茂前首相である。彼の言動は国民、特に自由民主党を支持してきた保守層に徹底的に嫌われた。それでもそんなことは無視して居座りを決め込んだため、自由民主党支持を放擲する動きが顕在化し拡大した。
その動向は衆議院議員選挙で確定的となった。自由民主党は256→190へ66票も議席を失った。何と1/4の議席を失う壊滅的な惨敗だった。特に注目すべきは、参政党と国民の大躍進であり、これまで自由民主党を支持してきた若い世代が<大脱走>した結果と考えられる。それでも石破総理は居座った。9ヵ月後に行われた参議院選挙でも自由民主党は惨敗し、衆議院に続き参議院でも少数与党に転落した。ここまで追い詰められて石破茂首相はようやく辞任を表明した。
次の新総裁には、党員からの圧倒的な支持を得て高市早苗氏が就任した。これをもって戦後自由民主党を形作ってきた枠組みの崩壊が決定的となった。高市新総裁に期待されたのは、自由民主党の解党的出直しだった。彼女が総裁選を制した理由は、他の候補では解党的出直しという荒業は断行できないと評価されたからである。
そして戦後政治体制の瓦解を決定的にした事件は、公明党からの連立離脱通告だった。これで名実ともに戦後政治の枠組みが消滅した。石破茂氏が戦後政治を形成する自由民主党を瓦解させ、斉藤鉄夫氏が自公連立を葬ったのだ。
自由民主党に籍をおく大方の政治家にとって、自公連立の解消はショッキングな事件であったに違いない。誕生したばかりの高市体制にとっても、衝撃的な逆風だと受け止める意見が少なくなかった。
しかしこれは「評価関数」の問題でしかない。どういうことか。まず「戦後体制を維持する」ことに評価点を置けば、とんでもない逆風であったことは事実に違いない。しかし外患内憂の情勢に対処するために「戦後体制を刷新する」ことに評価点を移せば、自公連立解消は必須条件となり、願ってもない天祐となったのである。
こうして自らの信念に基づく政策を断行しようとする高市早苗首相の前に立ち塞がる障壁が一瞬にして消滅した。そう断言する理由は三つある。第一に、連続した惨敗を喫した自由民主党は「解党的出直し」を高市氏に一任する他ないことだ。第二に、思い切った行動に対してブレーキとなる自公連立が解消したことだ。そして第三に、基本政策を同じくする日本維新の会との連立が実現したことである。公明党から日本維新の会へ、連携のパートナーが僅か11日で移行を完了したことが、歴史的変化を象徴している。
振り返ってみると、ドラマを演じた立役者は4人いる。第一は、本人にその自覚はないに違いないが石破茂氏である。2024年の衆議院議員選挙と2025年の参議院議員選挙で解党的惨敗を招き、その責任をとって辞任し、この状況を打破できる後継者は高市早苗氏以外にいないという情勢を作った功績は、日本国にとって僥倖であった。
第二の立役者は、自公連立の解消に踏み切った斉藤鉄夫氏である。この決断によって戦後の政治体制が氷解した。最も忌避する高市早苗氏が自由民主党新総裁に選出されたことから、「もはやこれまで」という決断が促されたように思える。しかし問題の本質は自民党の変化にあるのではない。衆議院議員選挙で25%、参議院議員選挙で22%の議席を失った公明党自身にある。自民党は高市新総裁の下に解党的出直しに挑戦することが決まったが、公明党はどうするのか?
第三の立役者は、日本維新の会代表の吉村洋文氏と、共同代表の藤田文武氏である。彼らは基本的な歴史観と政策が一致すると判断し、自由民主党との連立を決断したのだった。
そして第四の立役者は、言わずもがな高市早苗首相その人である。単純化して言えば、自由民主党内の反高市派議員、反高市の野党、更には公明党との連立解消という逆境の中を強かに生き抜いて首相の座を掴み、自民・維新連立を取りまとめたことは、高市早苗氏持ち前の熱意と覚悟がもたらした賜物である。
現状維持かそれとも変化か
今後自民・維新連立の合意に基づく政策の実行に反対する野党の抵抗が予想される中で、どこまで実行できるのか不透明な部分があるものの、自民・維新連立の合意文書は驚嘆に値するものだ。そこには国際情勢が激変した中で、戦後70年の安眠を打破するのだという不断の意思が、リアルポリティクスとして直截簡明に表現されている。
元外交官の宮家邦彦氏が次のように評価している。(10月23日産経)
<自民・維新合意は内容も極めて具体的だ。・・・長年日本の安保政策を学んできた者にとって、今回の政策合意は夢のような話、にわかには信じられない内容である。・・・もし本当にこれらを実行するならば、日本の安保政策は飛躍的に向上する。本来なら冷戦時代に全て実施しておくべきだった政策ばかりだが、冷戦後は根拠のない楽観主義が蔓延し、必要な改革は棚上げされた。その状況は過去26年の自公協力時代も継承された。これら政策の実現は容易ではないが、今こそ本気で取り組むべき時だ。>
宮家邦彦氏は、別の投稿では高市首相に対してエールを送っている。(10月9日産経)
<選挙に勝つ戦術と統治を行う戦略は異なる。高市総裁は統治にギアシフトし、現実に応じて、必要であれば、君子豹変すべきではないか。高市氏を支持してきた人も、そうした豹変を統治に不可欠として受け止めて欲しい。今の日本の保守政治を守る首相は彼女しかいないのだから。>
政治家の立ち位置を政党によってではなく、「戦後体制の維持か変化か」何れを求めるかで分類するならば、石破政権までの自公両党は明らかに現状維持に陣取っていた。それに対して参議院選挙で大躍進を成し遂げた参政党と国民民主党は、変化を求める立場を鮮明に打ち出した。公明党の離脱と維新との連立いう天祐を得て、高市早苗氏は信念をもって大胆な変化を起こすフリーハンドを手に入れたことになる。
「維持ではなく変化だ」という流れに先鞭をつけたのは国民である。ズバリ言えば、リベラルや中道の政治家よりも、国民の方が敏感に外患内憂の現状に危機感や恐怖感を感じていたのである。その目線で政治家の言動を評価するならば、解説を饒舌に述べるものの、結局何をするのか最後まで曖昧な石破茂氏よりも、やるべきことを直截簡明に表明する高市早苗氏の方が有事のリーダーとして遥かに信頼できることは明らかだった。
振り返れば、総裁選で繰り広げられた候補者の発言も同じで、抽象的な美辞麗句の羅列で具体的に何をするのか、どう対処するのかを明言しない政治家が嫌われたことは明らかだ。それと比べて高市早苗氏の発言には無駄な言葉がない。言い換えれば、高市氏とその他の候補者を決定的に分けたのは、外患内憂の現代において、明確な世界観、歴史観、国家観を持っているかどうかにある。それがない政治家の言葉には具体性と説得力が欠落しているのだ。政治家が備えるべき資質として、そのことを如実に物語っているのが、連立に向けて高市氏と対面で意見交換を行った日本維新の会共同代表の藤田文武氏が発した以下の言葉である。
<高市さん、狂ってください。これからあらゆる抵抗があります。それを押し切って日本の大改革のためにはある種の狂気が必要です。そのために私たちは国民に覚悟を示すんです>
<わかった!やるかっ!>
自民・維新連立を成し遂げたのは、この会話に象徴されるように、双方の熱意と覚悟だったということだ。国民目線で眺めていると、他の政党の代表の発言には、この時の二人が見せた熱意と覚悟に匹敵するものを感じられなかったのである。
国民民主党の玉木雄一郎代表が、自民・維新連立の動きが顕在化した10月15日、野党三党が首相指名選挙での対応について協議した折に、日本維新の会が自由民主党との連立を見据えた政策協議に入る方針を示したことを聞いて、「自由民主党とやるなら『最初から言ってよ』という感じだ」と愚痴をこぼしたという。
当事者としてもっともな言い分だが、他人を非難する前に自分の未熟さを恥じた方がいい。何故なら、自由民主党と日本維新の会が「熱意と覚悟」の話をしていた時に、国民民主党と立憲民主党は「打算的な数合わせの話」を協議していたからだ。日和見をしていたのは玉木氏の方で、日本維新の会ではない。
本格政権の始まり
10月24日の産経新聞は、高市氏が政治家2年目のときにまとめた『高市内閣成立』と題した持論について紹介記事を掲載している。それは「2010年10月に高市早苗自民党総裁が内閣総理大臣となった」という書き出しに始まり、高市政権の方向性として、以下の5つの柱を掲げている。今から15年以上前に書かれたものだが、高市氏の人となりが良く分かるだけでなく、彼女が並みの政治家ではないことを物語っている。以下に引用する。
①「国家の主権と名誉」、「国民の生命と財産」を確実に守り抜く政治を実現する
②「国益」の追求を明確な目標として打ち出す
③行き過ぎた結果平等を廃し、「機会平等」が保障される社会を創る
④国民の「自由と権利」を守ると同時に「責任と義務」の大切さを訴え社会秩序を再構築する
⑤「私たちの時代の私たちの憲法」を作り上げる
産経の記事は続けて、当時の高市氏の心境を紹介している。
<現在の私は常に、自分が総理だったらこの件にはどう対応するかと考えながら、その時々の政治課題に取り組むことが習慣になっている。>
<先輩たちから受け継いだ素晴らしい国、大切な日本。もう一度この国の活力を取り戻し、希望と安心に満ちた社会を次の世代に贈りたい!社会に長く貢献された先輩たちには、自らの努力の果実としての豊かな老後をうんと楽しんでいただきたい!それが私の夢だ。一度っきりの人生、そのために全てを賭ける覚悟だ。志と勇気と行動をもって・・・>
戦後政治からポスト戦後80年の政治へ、日本は大きく転換する千載一遇の機会に恵まれた。文字どおり現在の政治情勢は外患内憂で難題が山積している。その中で日本は戦後70年の政治的停滞と30年の経済的低迷を経て、歴史的な大転換の時機を迎えたのだ。大きく俯瞰すれば、石破茂氏が演じた役回りは戦後政治体制を終わらせることであり、高市早苗氏に期待される役割は、大転換を成し遂げて新たな未来像を示し、それに向かって日本が活力と自信を取り戻して外患内憂の諸問題に立ち向かってゆくリーダーシップである。
こういう難題に立ち向かう政治家の登場に心から拍手を送りたい。
エピローグ
さまざまな逆風の中で、高市政権を誕生させたのは、高市氏ご本人の熱意と覚悟であったことは間違いないが、同時に忘れてならないのは、このドラマの展開に少なからぬ影響を与えたのは、保守に軸足を置く国民の強い支持が明白に打ち出されたことだった。昨年9月に石破政権を誕生させた自民党に対し、はっきりとノーを意思表明したのは国民だった。それがなかったら今回の総裁選で高市氏が選出されたかどうかは分からない。
バブル崩壊以降30年余に及び停滞感が日本全体を覆ってきたが、議会制民主主義における有権者の責任がはっきりと行使されたことが、戦後政治の終焉というドラマを起こし、政治体制の大転換を起こしたのである。戦後政治の終焉と同時に、政治を政治家に丸投げしてきた戦後の民主主義も終わった事実を、我々国民は肝に銘じる必要がある。
もう一つ大事なことがある。「戦後政治の終焉」というドラマの第一幕はなんとか終わったのだが、ドラマは既に「ポスト戦後80年の政治体制の構築」という第二幕へ移行している。高市政権はこれからさまざまな難題と反対に直面するだろう。戦後政治の終焉と転換を支持した有権者は、「高市さん、あとは宜しく」と高みの見物を決め込むことなく、新政権に対する強い支持を続けなければならない。議会制民主主義を成熟化させることなく、政治体制を刷新することはできないということだ。
参照資料:
1)「自民大テント党瓦解のその先」、谷口智彦、産経2025.7.24
2)「外交安保、こうも違うのか」、宮家邦彦、産経2025.10.23
3)「高市新総裁、君子豹変せよ」、宮家邦彦、産経2025.10.9
4)「四半世紀前描いた5本柱」、村上智博、産経2025.10.24
