老後という贈り物
プロローグ
別稿の『VWSG思考』に、次のメッセージを書いた。(https://kobosikosaho.com/daily/1242/)
昼のひと時に公園のベンチに座って虫や鳥の鳴き声に耳を傾けながら、壮大な生物の物語に思いを巡らせてみて欲しい。次に晴れた夜に同じベンチに座って満天の星が輝く宇宙を眺めて、無限に広がる宇宙に想いを巡らせてみて欲しい。その上で想像力を逞しく働かせて欲しい。例えば次のように。
漆黒の宇宙にポツンと浮かぶ地球がある。宇宙船地球号は超高速で宇宙空間を飛翔している。その地球を舞台として、壮絶な生物進化の物語が30数億年にわたって繰り広げられた。その物語のライブステージが現代であり、「現役」の俳優の一人として今自分の人生がある。人生には恐らくこの荘厳な事実に勝る感動はないだろう。
本資料を書くにあたって、全般にわたり下記資料を参照させていただいた。
・資料1:「なぜヒトだけが老いるのか」、小林武彦、講談社現代新書、2023.6
生物の進化と淘汰、生と死
現在生存している全ての生物は、凡そ38億年前に起動した生物進化のプログラムによって、現在の形質を獲得した。この生物進化のドラマには二つの物語が同時進行の形で織り込まれている。
第一の物語は、生物の種が進化と淘汰を繰り広げてきた巨視的に俯瞰した物語である。進化とは「新たな種の登場」であり、淘汰とは「進化に失敗した種の消滅」である。
第二の物語は、個体の生死が繰り返されてきた微視的に俯瞰した物語である。物語の中で個体に与えられる命は、ほんのひととき或いは一瞬でしかないのだが、個体にとってはそれが与えられた時間の全てである。
生物の種の物語が縦糸となり、個体の生死の物語が横糸となってタペストリーのように織り込まれて、38億年にわたる生物の歴史が綴られてきた。現代の生物が繰り広げている営みはそのドラマの「現在の姿」に他ならない。ドラマに登場するアクターは次々に交代し、ホモ・サピエンスは哺乳類の中で最後に登場したアクターである。
生物の仕組み
生物は動物も植物も細菌もウィルスも、皆固有のDNA(遺伝情報)を持っている。DNAは種を規定すると同時に個体の多様性を規定している。具体的に言えば、同じ種に属する個体は共通のDNA構造を持っていると同時に、個体ごとに固有なDNA情報を持っている。
個人毎に固有のマイナンバーカードが交付されるように、全生物の個体は全て唯一無二のDNAを持って生まれてくる。ヒトのDNAについて最新の科学が明らかにした驚嘆に値する事実の一端を、資料1から引用して紹介しよう。
1)ヒトの細胞は約37兆個ある。その一つ一つに父母由来のDNAがそれぞれ約30億の塩基対として、合計で2組60億の塩基対がコピーされて1/100ミリほどの細胞膜の中に折り畳まれて格納されている。塩基には〔グアニン、シトシン、アデニン、チミン〕の4種類があって、記号で〔G、C、A、T〕と表現されている。この内AとT、CとGがそれぞれ結合して塩基対となり、DNAを形成している。この四種類の塩基が遺伝子情報を記述する最小単位(ビット)を形成している。
2)細胞には寿命(耐久限界)がある。古くなった細胞は所定の時間が経過すると新しい細胞に置き換えられる。置換の周期は細胞の部位によって異なり、ヒトの場合最短は血液の細胞で約4カ月、最長は骨の細胞で約4年である。古くなった細胞は分解されたり、免疫細胞に食べられたり、或いは老廃物として廃棄される。
老化のメカニズム
細胞は大別して体細胞と生殖細胞に分けられる。さらに体細胞には、体のどこの部位になるのかが定まっている細胞と、定まっていない細胞の二種類がある。後者は「幹細胞」と呼ばれ古くなった細胞に代わる新しい細胞を作り出す役割を担っている。
幹細胞が新しい細胞を作り出すとき、約30億✖2組の塩基対の全て(すなわちDNAの全情報)がコピーされるが、所定の確率でコピーエラーが生じる。エラーを修復するメカニズムが備わっているものの、年齢とともに修復が不完全となりエラーが蓄積してゆく。
細胞が老化する原因は『エラー蓄積仮説』と呼ばれる。DNAのエラーが蓄積することによって、細胞の機能が徐々に低下するというものだ。細胞の機能低下が進むと、やがて臓器などの器官が正常に機能しなくなる。これが老化症状となる。
老化は人体のあらゆるところで起きるが、致命的な老化が二つあるという。一つは新しい細胞を作り出す幹細胞の老化であり、他一つは人体の中で新しい細胞に置き換わることがない脳と心臓の老化である。
ヒトの死因の上位は、癌、心疾患、老衰、脳疾患の順である。また老衰の原因の大半が心不全であるので、癌を除く死因の上位は、細胞が新しいものに置換されない脳と心臓が耐久限界に到達したことによって起きると考えられる。
一方、癌は幹細胞が老化して新しい細胞を供給できなくなり、老化細胞が排除されなくなって「炎症性サイトカイン」と呼ばれる物質が増えることによって起きる。
ヒトの寿命
一般に体の大きな動物は寿命が長く、小さな動物は短い。資料2の中で東京工業大学名誉教授の本川達雄氏は、さまざまなデータを分析して動物では「時間が体重の1/4乗に比例する」という法則を導いた。この法則は、体重が1kgの動物の時間を1とすれば、10kg、100kg、1トンと大型になるに従って、動物の時間は1.8、3.2、5.6と長くなってゆくことを示している。小型になる場合には同じ割合で時間が短くなる。
本川達雄氏がいう哺乳類の時間とは、寿命はもとより、成熟するまでの期間、呼吸や心拍の間隔、血液が体内を一巡する時間など、生命活動に係る様々な時間を指している。
さてここでヒトの寿命について考えたい。始めにヒトの生物学的な寿命は推定50歳前後であるという。資料1で小林武彦氏は、三つの根拠を挙げている。第一にDNAがかなり似ているゴリラやチンパンジーの寿命が50歳前後であること、第二に哺乳類の総心拍数は約20億回(哺乳類の種によらずに同一)で、ヒトの場合約50歳で到達すること、そして第三に55歳頃から癌で死亡する人が急増することである。
一方現代の日本人は、健康に恵まれると90~100歳の長寿を得ている。生物学的寿命とのギャップ(要するに老後)は約40年前後に及ぶ。この現実をどう理解したらいいのだろうか。
動物の老化
ヒトには「長い老後」が約30~40年もあるのに対して、資料1によれば<ヒト以外の生物の老化期間は短いか殆どなく、老化と死がほぼ同時に訪れる>という。これは何故だろうか。
老化に関して興味深いのはサケだ。サケは自分が生まれた場所が産卵に適した場所であることを知っている。サケは激流をも落差のある滝でさえも遡って、ようやく生まれた場所に辿り着いて、産卵・放精という最後の使命を果たすと間もなく寿命を迎える。ここで驚嘆するのは、遡上過程では老化が起きず、子孫を残すことができると急激に脳が委縮して死亡する事実である。
生態系は基本的に「食べるか、食べられるか」の関係で維持されているので、野生生物には老化がない。体の小さい動物は食べられて死ぬことが多いのでそもそも長寿化の意味がない。肉食動物の場合には餌を獲れなくなれば死に至る。またゾウは老化症状を示さず、癌にも罹らず、心筋梗塞などの循環器系の不具合が原因でピンピンコロリと死ぬ。
老後があるのはヒト、シャチ、ゴンドウクジラのみで、それ以外の哺乳類に老後はないという。三つの種の共通点は「子育て」にある。
ヒトの「長い老後」
ではヒトに長い老後があるのは何故だろうか。それを説明する理由として「おばあちゃん仮説」と「おじいちゃん仮説」と呼ばれるものがある。どういうものかというと、我々の祖先は肉食動物を狩るために、或いは他の集団に対して優位に立つために集団生活をしていた。集団生活では子育てを分担するおばちゃんと、集団を束ねる長老としてのおじいちゃんの存在が重要となり、その社会的ニーズが長寿を促進したという仮説である。
冒頭に「個体の生と死は生物の進化と淘汰という長編物語を構成する一コマである」と書いた。個体と集団の関係、さらには種との関係を因果関係として捉えると、ホモ・サピエンスという種が進化してゆく過程で、集団の存続と繁栄にとって「老後の存在」が有益だったために、ヒトの長寿化が促進されたという解釈が成り立つということだ。
ヒトは他の哺乳類と比べて格段に高い免疫力を持っているという。ヒトは免疫力を高めることによって長寿を実現してきたと解釈される。
小林武彦氏は書籍の末尾を次のように結んでいる。
<現役を引退する60~70代には、老後に対する不安が募り鬱々とした気持ちが高まる。ところが85歳を過ぎる頃になるとその不安が減り、あるがままの状態を受け入れるようになる。このネガティブからポジティブへの転換は、大病や配偶者との死別などつらい経験をした人ではさらに強くなる。この境地は『老年的超越』と呼ばれる。>
エイジングギフト
1955年に東京都八王子市で生まれ、若くして北海道礼文島に移住した植物写真家でエッセイストの杣田(そまだ)美野里さんは、遺作となった『キャンサーギフト』(資料3)に次の二句を残している。
・現(うつつ)とは死を意識して輝くと、母の愛した言葉の一つ
・咲きながら一世(ひとよ)のおわりに降るものを、キャンサーギフトとわたしは呼ぼう
「キャンサーギフト」というのは、「癌がくれた贈り物」という意味である。この境地こそ『老年的超越』ではないだろうか。仏教でいう「悟り」の境地である。
振り返ってみれば、現代人は時間に追い立てられるように人生の大半を過ごしている。その持ち時間は最長でも100年、健康寿命に恵まれたとしても社会の現役を退いた後せいぜい30年しかない。老後から振り返れば、人生100年は駆け足で過ぎてゆく。
老後の30年余という期間、しかもヒトが進化の結果手に入れた時間は、「エイジングギフト」、即ち「老後という贈り物」、そう捉えることが相応しいように思う。但しそのためには杣田美野里さんの心境に到達する必要がある。
エピローグ
ヒトは70歳を過ぎる頃から老化の進行を実感するようになる。体力や記憶、気力が衰えてゆき、年々歳々それが徐々に進行してゆく。老後は今まで出来ていたことが思うようにできなくなるために、気持ちが落ち込み気味になるものだ。減ってゆくもの、或いは失ってゆくものに注目すれば、暗い老後というイメージに支配されるに違いない。
しかし視点を転じれば、老後の人生には増えてゆくものがある。代表的なものは自由である。時間やお金、さまざまな束縛からの自由がある。もう一つ重要なものは豊富な蓄積である。「おじいちゃん仮説」が示唆しているように、知識、経験、知恵、洞察力など、老人は豊富な知的財産を持っている。ここに注目すれば、老後は人生における至福の時間なのだということに気付かされる。
東北大学名誉教授で歴史家の田中英道氏は、資料4で「老後賛歌」を綴っているので紹介しよう。
『富岳百景』初編の末尾に「七十前描く所は実に取るに足るものなし(70歳以前に描いたものは駄作ばかりだった)」と葛飾北斎は書き残している。これは「老人には創造性がある、老人の域に入って年齢を重ねるにつれて若い時以上に深い表現力をもっている」ことを示唆するものだ。
記憶をただの思い出話にするのではなく、思い出話の中に普遍的なものや教訓的なものを見出して整理する。そこから始めて文学や思想といったものに結晶させる、そういったことは老人にしかできない。この重要性に気が付くことこそが、老人の生き方において最も重要なことである。
85歳で没した杉田玄白が、最晩年に日常生活を赤裸々に綴った『耄耋(ぼうてつ)独語』という随筆を書き残している。これは「長生きにはさまざまな苦しみがあるが、そこに創造するということがなければ、或いはそこから何かを得るということがなければ意味はない。一日一日を生きていくということを意識してはじめて、人の自然の生き方というものが刻まれていく。」ことを物語っている。
日本には四季があり、春夏秋冬として老年にあたる冬の季節がある。人間にあっては、冬の時期こそが一番余裕のある時期であり、ものを一番生み出す創造的な時期である。
参照した資料
1.「なぜヒトだけが老いるのか」、小林武彦、講談社現代新書、2023.6
2.「ゾウの時間ネズミの時間」、本川達雄、中公新書1992.8
3.「キャンサーギフト」、杣田美野里、北海道新聞社、2021.8
4.「老年こそ創造の時代」、田中英道、勉誠出版、2020.2